こんにちは、元気ですか(・・?

 

チンギス・カンことテムジンの生涯は、戦いの連続だった。自分の部族が強くなればなるほど、さらに強い敵に向かう。なぜなら、自分等で生産するということを知らない。部の富は、相手との戦いから生まれた、相手の財を奪った富。当初の富、馬やらくだ、羊などの放牧動物と装飾品、そして女性たち。

 

自分たちより裕福な部族を探し出し、騎馬民族の王となる汗になるために、戦いが徐々に権威を求めるための戦いに変わる。しかし、あまりにも強くなると、遊牧民族などの中小部族などを相手にしても富などしれている。富を求めるには、さらに大きな部族、国家を相手に戦いを挑むようになる。しかし、部族主義では、組織はできない。組織造りができるような人材が必要となる。

 

遊牧諸部族を統一したとしても、さらに強くなるには組織造りが重要。諸部族の争いの時代は、強くなるに従ってかって父に仕えていた戦士や、他の部族に身を寄せていた戦士等が、キングダムの登場人物である桓騎将軍の下にいた那貴のように今いる部族を離れテムジンのもとに投ずるものもでてきた。闘いの連続の中で手に入れたのが、モンゴル帝国。自ら生産をしない民族による帝国。各々の戦士は、家族と馬を伴って移動する。

 

テムジンを守る中央の領民集団は、近衛兵と呼ばれ、主に母ホエルンに闘いの後差し出した乳飲み子の子供たちが成人になって選ばれた、乳兄弟たち。テムジンと同盟した諸部族の指導者(酋長)を貴族(ノヤン)として階層を編成、千人隊長、百人隊長、十人隊長のように十進法に従って組織し、隊長には、貴族等を任命した。移動するにしても一人一馬として移動する。よって、一人あたり必要な馬は、予備として三から四頭を必要とし、その世話と餌などで莫大な資源が必要となる。その時代、馬車も戦闘用として既に作られていた。戦闘用馬車の歴史は意外と古い。高車の時代からある。

 

テムジンの領民を中央に配置、左右両翼を万人隊長である功臣に委ねていた。テムジンの兄弟等は、モンゴル帝国の支配下というバックを信用として独り立ちするのが遊牧民族の宿命。テムジンの兄弟は、東部の大興安嶺方面、息子等は、西部のアルタイ山脈方面というテムジン直轄領民集団として統括させていた。

 

自ら生産しないために戦いがなくなると富も減る。常に搾取できる獲物を狙っていかないと集団体制が維持できない社会。当時の中国大陸国家の形成は、堅固に護られた都市。

 

西夏攻略。

 

当時西夏の状況は、政治腐敗が蔓延り国力は落ちていた。政治腐敗と同時に王族内の争いも起きていた。西夏と金とは軍事対立をしていた。この対立は、モンゴル帝国には幸いした。西夏は、金との軍事対立のためにモンゴルに依拠した外交政策をしていたが、国家の衰退が激しくモンゴルの太子オコディによって西夏は滅ぼされる。

このような国家の危機は、地震とともにやってくる。地震のあとは飢饉。そして政治腐敗。

 

天山ウイグル王国攻略

すでに西遼の支配下にあった同国であるが、西遼との関係が悪化し、ウイグル王国は、モンゴル高原を統一したばかりのチンギス・カンに帰順した。このことがモンゴル帝国の発展に寄与した。ウイグルの人材を優遇し、モンゴル帝国ではウイグル出身の官僚が多数活躍した。特に帝国経済において活躍した。

 

特にシルクロード商業の主役といわれたソクド人。ソグディアナ(現ウズベキスタン)を故郷とし、中央ユーラシア全域にコロニーをつくり、商人、武人、外交使節、伝道者や通訳、芸能者としても活躍した。ソクド人のコロニーは、北中国のほとんどの大都市に存在し、漢文史料には、商胡・賈胡・胡客などと記される。

当時のウイグルの宗教は、マニ教。現ウイグルは、唐の時代からつながるウイグルとは、現代のウイグルとは言葉も宗教も全く別物です。

 

唐末期は、淮南・江南の農業経済を中心としており、平和を金で買う財政国家に変質していた。さらに文字文化・文書行政による確固たる統治システムの構築がされていた。ソクド人は、唐衰退、滅亡と同時にイスラム化が進行するようになり、マニ教に結びついていたソクド人商人等は、自らの宗教性・文化独自性を失い、他の民族と融合していく。

 

ソグド人

 

 

日本では、石某、安某という名字の人は、先祖にソクド人がいるかもしれませんね。チンギス・カンとウイグル王国をつなげたのもソクド商人のような気がするね。チンギス・カンは、ウイグル王国が帰順したいと願い出た時、大層喜んでいたようで、娘をウイグル王に娶らせている。

 

ウイグル王国は、マニ教が信奉されていたが、10世紀の終わり頃には、仏教が人気をあつめ、11世紀の後半には、マニ教はほぼ消滅したようです。

 

モンゴル帝国・元には、ウイグル人の血が混じった官僚が、元寇時代活躍しており、女真族やウイグル系官僚等から日本列島の噂くらいしか日本の状況は伝わっていなかったと見ていいね。モンゴル帝国にしても仏教によって何故か殺伐とした殺しをおさえるようになったように思える。元寇の時代のモンゴル戦士は、すでにチンギス・カンの時代の戦士とは、全く違った性質の戦士等に変わっていたかもしれないね。

 

そして女真人の国、金王国(金朝)へと征服をすすめる。

 

モンゴル兵は、遊牧民族兵のために野戦は得意だが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には手をこまねいたようで失敗し続けている。モンゴル兵の戦い方は、男性戦士はほとんどが殺される。城壁都市攻略には、宋や金で不遇の秀才を雇い、攻城戦の方法を身につける。不遇ゆえ財物で寝返る。金征服時に、のちに官僚として活躍する耶律楚材をえる。

耶律楚材

 

モンゴル帝国は、ウイグル王国、金朝という国の人材を官僚として優遇し、皆殺しの戦いから、捕虜として農民・職業民にして税として搾取するという税制を導入した。定住民させ、安定的に高い税収を得る方法。それまでは、基本的に敵国からの略奪。たぶんモンゴル軍が攻めてきたら、男性戦士はほとんどが皆殺しとなるために、チンギス・カン、オコデイの時代に征服された土地のほとんどはモンゴル帝国の戦士の混血が増えているでしょうね。

モンゴル帝国というのは、実務官僚は、ほとんどが遊牧民族ではなく、他民族が仕切るようになっていたように見えるね。

 

オコデイの晩期になるとイスラム教徒(ムスリム)等による財務官僚が主流となり、帝国行政に干渉するようになる。

当時の中国大陸の王国は、主に軍閥という漢人有力者が、人民を支配しており、その有力者が、貢納と軍事的協力を条件に宗主国の支配下に入る体制であり、モンゴル帝国の貴族の下で支配を任される体制であった。現代のように人民に対して細かいことまでモンゴル帝国の貴族は介入しない。自治権を与え、貢納と軍事協力のみ。領土は、モンゴル帝国の貴族のものであるが、遊牧民族軍団のため攻略した都城を保持しなく、転戦し続けるために奪える物だけは奪って、落とした都城の統治体制は、ほったらかし。

 

そのため、落とされた都城は、人望のある人物による自治組織を作り上げるか、それとも在地の有力家系の下に結集し、それらをまとめた漢人が、モンゴル帝国の軍兵とつながり貢納によって都城を土民によって整備されていった。モンゴル帝国は、略奪が主であるために、領土を得るという観念はまったくなかった。

 

領土的観念が始まったのは、オコデイが第二代皇帝として即位してからで、漢人を組織化し、略奪の代わりに税として搾取してから。こういうシステムを再構築させたのも、モンゴル人ではなく、ウイグル、金朝、漢人等の文人官僚等。

 

よって地方組織では、納めるだけ納めれば後はある程度自由。モンゴル兵に歯向かわなければね。

 

クビライの時代に入ると、王国建設というものがどういうものかということがわかりだした時代。それまでは基本的には略奪集団。よってクビライが日本に使者を派遣した時代は、略奪集団から脱皮し、宗主国としての国家形成を踏み始めた時代。

遊牧国家から定住国家への変化の時代。

 

中国大陸の過去の国家と同様、一文字の元とし、官僚として才ある漢人を採用し官僚制度を形成、宗主国としての外交方式も採用し始めた時期。官僚は、イスラム系、女真系、漢人系、ウイグル系など大まかに派閥争いができ始めていた時期。

 

クビライが日本に使節を派遣する契機となったのは、1265年高麗人であるモンゴル帝国の官吏・趙彝(ちょうい)等が日本との通交を進言したことが発端である。趙彝(ちょうい)という人物の紹介記事がみあたらないのでわかりませんが、のち日本列島に自ら派遣をもうしでた趙良弼(ちょうりょうひつ)と同人物かどうかもわかりません。
 
趙良弼は、自ら日本列島への使者派遣を申し出ており、モンゴル兵の戦の仕方も十分に知っている。女真族というところから同朋が日本列島にいることは、渤海国と日本国のつながりからよく知っているはず。当時の日本は、それほど豊かな国には、歴史書から思えないのだが、女真族商人からしてみれば、おいしい商圏の一つだったかもしれませんね。政治と商い=利権は、たえずつながる。
 
そこで、日本国内の動きを再度考察。
 
日本は、丁度武家政権という基盤造りの最中であった。朝廷・公家政治から、平家による公家・平家政権へとかわり、平家滅亡後、源頼朝による源氏政権から本格的武士政権へと移行する時代。この政権移行におもしろくない人いるでしょうね。武家政権では、外交は難しい。というより外交などしたことがない武士の集まりだった。北条政権にしても異国の事として朝廷に相談している。日本の公家側と大陸女真族との間でなんか動いているような気がしませんか。
 
元は、宗主国としての地位を固めるために国家造りの体制へと入ったが、日本に入ってくる情報は、騎馬遊牧民族という略奪軍団の情報。元に帰順したら、略奪されるのがわかっているから北条幕府は、戦ありき。しかし、朝廷はその判断に不安を抱く。なんとかなる方法がないか趙良弼と相談する。クビライは、趙良弼が帰国するまでは攻めてこない。
 
そして最終的に趙良弼が、クビライに報告した内容が、
「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(きょが(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきがよいでしょう」
 
日本列島は、田畑を耕せるし、北条幕府も禅宗など仏教を重んじているし、渤海国との関係から上下の礼をも知っている。公家から趙良弼が滞在する大宰府へは、たぶん公家の中から派遣されて交渉しているはずだから、武士の悪口を言っていた可能性すらあるね。
 
朝廷のある公家と女真族商人とが裏で画策していたが、ちと違う方向へと向かいかけたので、ここで修正協議をしたようにみえるね。朝廷公家は、北条政権・武家政権になり、多くの利得をなくしていた。朝廷がいかに武家政権をつぶそうとしていたか、室町時代の後醍醐天皇までの事件でわかりますよね。国内で主導権を握れないなら、外交でってね。
 
ここまでで。
 
次回こそ元寇による日本列島第一次侵攻へ。