こんにちは、元気ですか(・・?

 

沈黙の狩人

今年に入ってから、漫画キングダム5期の動画が発信されている。いよいよ5期後半にはいりました。

沈黙の狩人こと、慶舎。

慶舎は、史実にも登場しています。しかし、慶舎についての記録は、上記wikiでは、ほんのわずかの記載。漫画キングダムにでてくる慶舎は、漫画作者のオリジナルかそれとも口伝えによってある程度残されていたのか(・・?

 

沈黙の狩人というのは、

獲物を見つけた途端、獰猛に襲い掛かる戦闘スタイルではなく、蜘蛛のごとく絡みつくような罠を仕掛けて、自分の張り巡らせたアミの中で相手の失敗をひたすら待つタイプ。

漫画では、相手の失敗をひたすら待つタイプの戦術の持ち主が、先に動いて、相手の罠に引っかかってしまった。

相手の秦の桓騎将軍とは何者。

 

wikiでもそれほと詳しくは記載されていない。そこで、漫画の登場人物として描かれている人物像では、化け物と評される戦の天才。性格は傲岸不遜で冷酷。敵軍への過剰な拷問・殺戮や、敵国の一般市民への虐殺行為など、非道な手段を平然と行い、秦への忠誠心も薄いが、ある種のカリスマの持ち主で、部下からは非常に慕われている。誰から戦術を習ったわけでもなく独自の戦術を用い、ゲリラ戦術や相手の虚を衝く戦い方を得意とする。山賊の頭領で、ある城邑を攻め落とした際、自ら住民全員の首を切り落としたことで「首切り桓騎」と渾名された。この残虐性は根本的に今も変わっておらず、高い実力と功績を持ちながら知名度が低いのはこのため。

幹部たちは盗賊時代に吸収・征服した盗賊団の頭領達で、やたらと柄が悪かったり奇抜な格好をしている者が多い。残酷だが部下には寛大なので、中にはツッコミどころしかないような者(オギコなど)も採用している。

古参の部下曰く、桓騎の原動力は『全てへの激しい怒り』とのこと。

 

物語をつくるにしても、結構細かいことまで調べあげ作成されているね。

 

モンゴル帝国というのは、チンギス・カンことテムジン等の遊牧民族は、盗賊集団。同族である遊牧民族を襲いその財産を取り上げて裕福になっていった部族。自ら作物を耕作したりして定住するような民族ではなく、自ら何かを根から作り出すということはまったく考えていない。根からできるのは、男女の中で繰り広げられる動物的衝動であり、自分の種を植え付け部族を大きくすること。

 

このような民族には、当然商人がつきまといます。なぜならば、既存の相手を破壊し、それに代わって新たなる商圏が広がるからね。さらに鉱山などの資源も手に入る。その許可をモンゴル帝国のカーンから得れば、大きな利権ともなる。モンゴル帝国の戦闘部隊についていくことで、新興商人は、大きな利権が手に入る。軍部に巣くう、現代では、政治家や官僚に巣くう商人、政商と同じ。

どんな戦争、歴史的戦争にしても、敵兵を張り巡らされた罠に気付かずに先に動かさせるように仕向けることが重要。結局勝者側の手のひらに踊らされ敗れる。

 

豊かな自然、そして伝統的な祭事や建築物、古代から日本人が生活し営んでいた地域である能登半島。時には激しく轟をうなる波、時には静粛さをもち、現在でも海釣り趣味者等が投げ釣りをしながらアオリイカ、ちぬなどをめざす釣り人もいる。しかし、日本列島が戦時となると色が変わり始める土地。

 

終戦間際昭和20年6月、石川県̪志賀町に停泊していた日本の輸送船が米国潜水艦による魚雷攻撃を受け沈没。乗組員30人が犠牲となる。

昭和20年8月末。能登島の沖合で民間の木造船が、爆発し沈没した。乗組員28人が犠牲となる。七尾湾内に敷設されていた機雷が船と衝突したことが原因だとされている。能登半島とは、中国からくる船、朝鮮半島からくる船、主に兵粮となる食糧、そして石炭などの資源が船で運ばれていた。能登七尾湾は、日本海側の物流拠点の重要な一つ。米国軍は、そのことを知っており能登沖だけではなく、日本各地の港、主要航路に機雷を投下した。七尾湾にはおよそ400個投下されたといわれている。

 

戦争の被害者は、いつでも一部の戦争をおこす、判断する指導者ではなく、一般の庶民等。

あなたには、国のために死ぬ覚悟がありますか?~自衛隊「特殊部隊」創設者と「紛争解決人」が悩み抜いた末に出した答え

 

 

テムジンは、初めは家族のために戦い、その後部族のために戦い、部族が大きくなるたびに商圏拡大のためというか、商人の利益、王族の利益のために戦うというように戦地を広げていった。しかし、モンゴル王国もまた現代の北京に定住するようになると思考も変わる。そしてモンゴル民族にも漢学を学ばせるようになる。現在のチベットからチベット仏教を受け入れるようになる。仏教とは、恐人となった民族を変えさせる力があったのかもしれないね。王国になれば王国内の秩序というのが重要になるからね。修羅の国とは違う世界へと向かう。

【昭和時代】249 二・二六事件とは?わかりやすく簡単に【日本史】

【高瀬毅のずばり!真相】「二・二六事件」と青年将校 ~“反乱軍”の素顔に迫る~

 

226事件は、何かと隠されているし、現在の天皇家と事件がつながるために隠されることが多い。ここでは、この事件について考察するブログではないが、明治以降の階層の変化を少し記載することで、のちの信長、秀吉、家康の時代の階層の変化の考察の足しになるかもしれないので少し紹介。

 

この時代は、農村の疲弊という問題があったことは理解されている。自分の父親にしても自作農ではあったが、そこそこの財産農家であったが、大正末期から昭和へと時代の流れとともに貧農自作農へと変化をしてきたようです。その頃の時代の父の生い立ちは、日記として残していて少しその時代を知ることができる。ただ、言えることは、現代では歴史教育として昭和恐慌として教えられるが、当事者の庶民は、恐慌とは思っていなく、自然と生活が悪い方向へと追い込まれていったようにされていた感じですね。

226事件の安藤輝三大尉。この人を研究している人がいるというのは知らなかったですね。現在でも子孫がいるようなので、あまり深くは突っ込まない程度で。

安藤家というのは、大尉のたぶん祖父にあたる人は、江戸時代から豪農の家柄として著名であった。さらにその地域というのは、理由はわかりませんが、たぶん壬申の乱で有名な天武天皇の湯沐邑の地域。徳川の時代では、春日局、稲葉氏の領土。よって結構天皇家と関わりあいが深い家もある。よって、安藤大尉が秩父宮と懇意の間柄だったということもわかるような気がする。

関ヶ原の戦いから島津義弘が逃亡したときに、石田三成がその逃亡を助けるためにある場所の住民を付けたのと同じ、どんな理由かわかりませんが、土地名をいうだけで当時はその道先案内人を信用したごとく、天皇家にとっては、信用ができる部民の家柄だったのかもしれませんね。また本貫が農家だったこともあり、農民兵の苦情も聞かざる負えなかったのかもしれません。

また、のち首相となった鈴木貫太郎翁にしても同様、安藤大尉の素性を知っており、親近感があって事件の二年前に面会している。鈴木貫太郎翁もまた安藤家のことは少し知っていたのではないかと感じるね。現代と違い、結構昔の日本人は、先祖の関係などを重視している。鈴木貫太郎翁の父は、幕末の久世家の家老。

 

自分の両親の祖父、祖母も自分が幼い時代に亡くなっており、祖父、祖母とそれほど話をしたことはないけれども、父母から少し聞いたことによると、両方の祖父は、日露戦争に出征したそうです。日露戦争といえば日本は戦勝国とは言っていますが、多くの当時の優秀な兵隊は、多く戦死している。そして当時は、まだ戦死者の家族の保護までの制度は薄く、その家庭は、ある意味悲惨な状況に追い込まれたような気がしますね。よって、日露戦争に出征した兵士の家族は、できるだけ兵隊に息子をいかせないようにしていた状況がつかめます。父親にしても当時校長まで父親の進路にまで口出ししたほどでしたが、養子にいかず父親の祖父の反対で上級学校へは行けず、養子口もお寺の住職や医者の先だけしか父親もよしとしなかった。つまり兵隊にはいかせたくないという気持ちがあったみたいです。父親の方は、貧農になったために上の学校にいけず結局軍隊に拾われたようですが、下っ端からはいったにもかかわらず、結構上司には目をかけられたらしく、下っ端なのに連隊長には目をかけられるは、将軍からも声をかけられるということもあったらしく、貧農ではありながら農家の跡取りとして慎重に扱われていたようです。戦争に生き残ったから自分が生まれたのですから、これまた感謝。

 

母親の兄もたぶん安藤大尉と同年代だったかもしれなく、というのは、戦争前に死んでいるので全く知らない。ただ、その息子が自分の従兄となり、年齢は、自分の父親の一回りくらい下くらいかな。従弟の息子が自分と同年代位なので、昔の過程はどの家庭も同じような感じだったかもしれませんが、昭和の時代の話はあまりしないしわからない。たぶん、戦争経験者は、戦争時代の話をしないことを暗黙の了解という形で子孫につたえていないのかもしれませんね。安藤家も同じかな。

 

若い頃に家を飛び出しているので晩年の父親の姿はあまり知りませんが、母親と兄がいうには、夜中に寝言をたびたび大声で話すらしく、ほとんどが戦争時代の若かりし頃の夢でも見ていたようです。時には仲間と談笑したり、時には、そっちに行ったら危ない、危ないと仲間を叫ぶように呼んだりした寝言をたびたびしていたようです。生死の中にいるほど戦地にいたはずないんですが、多くの仲間が死んだんでしょうね。

母親の父も日露出征者。しかし、一人息子で後は女性7-8人の家族だったから長男には、大学までいかせ役人になり、終戦前になくなったんですが、兵隊に行かせることは避けていたように見えるね。結局、出世は早かったんですが、最後は憲兵の要職につき病気で死んだ。当時母が言っていたのは、終戦中に役人をやめたいといっていたらしく。あと数か月で当時年金が役人だった場合もらえたらしく、それがすぎたら村の役場にはいれるよう祖父は段取りしたんですが、その前になくなってしまったようです。元々農家の出身、憲兵になればそういう人たちを追い詰めなければならなく、心労がたまったのかもしれませんね。

江戸時代と明治時代を通して、維新として徳川幕府、薩長連合との戦いとがあったけれども、明治時代にはいっても農家の力は強かった。大正、昭和の初めというのは、農家の力を弱めることがたぶん支配者の目的だった気がしますね。

 

衝撃と恐怖によって、農家の力はますます弱くなり、そして第二次世界大戦へと進んだのかもしれません。

 

前回の続き、元寇の流れに向かいますね。

【かつて欧米は日本の植民地化を試みた?論外!】列強国が「資源もなく、地政学的に重要でもない日本に侵略しようとした」と本気で思ってるなら、かなり思考程度ヤバい!-masakazu

 

 

元が北条鎌倉幕府と北九州で戦う前に、日本列島の最北部で元は、アイヌ民族と戦争をしていたということを朝廷、北条幕府はしっていたんでしょうか。たぶん闇商売を手掛けていた日本列島に住む庶民は、知っていたでしょう。日蓮も知っていた。

 

南宋遺臣の鄭思肖も、元のフビライが日本の豊かさを海外商人から聞き触手を伸ばしたと話している。鄭思肖(ていししょう)とは、元の隠士。本貫は、現代の福建省の人。南宋の知識人もまた日本列島の豊かさを求めて元族が触手を伸ばしたと当時推測していた。

日本列島では、平清盛の時代から日宋貿易は、正式に行っており、その後正式な国としての通商は行っていないが、闇貿易として南宋の商人とは、通商という形で一部の日本の商人、当時は海賊かな、つながっていた。また、宋時代から日本の帰化した僧呂などもおり、ある程度の情報は、耳に入る土台は、朝廷にはあったはず。

 

クビライは、第一回使節を1266年に派遣する。当時の高麗の王族はどう考えたでしょうか。高麗は、元との戦いで高麗の領土である韓半島は疲弊している。当然、女、子供ばかりで男性などほとんどいないありさま。なによりも日本攻めのための軍費である。当然、高麗側の負担となる。

高麗側としては、この元の進出をあきらめさせたい。高麗王族は考えた。使節団を朝鮮半島巨済島まで案内し、対馬までの海の荒れ方を見せて航海が危険であること、さらに、日本はかたくなに荒々しく礼儀を知らないことなどを理由に、日本進出をあきらめさせようとした。

 

巨済島は、日本と朝鮮との交通の要衝であった。元の使節団は、帰朝し「大洋万里、風濤の天を蹴る」とクビライに報告した。

 

その報告を聞き、クビライは憤慨し、高麗王自ら責任をもって日本へ使節を派遣するように命じる。絶対的忠誠を誓うということは、何としてでも命令に従えということでもある。よって、高麗王元宗は、自ら使節団を形成し、日本へと派遣する。

 

1268年(文永5)高麗の使節団が大宰府に到来する。使節団の添え状を鎌倉へと送達する。鎌倉幕府では、北条時宗が八代執権となったばかり。

当時は、外交は朝廷の担当となっていたと歴史書では書かれているが、渤海国との朝廷との関係は、10世紀の渤海国の消滅から通交は絶えており、主に海賊を主体とした通商を商人が関係を支えていた。また、平清盛から始めたとされる日宋貿易にしても次第に海賊等の商人の手に委ねられ、密貿易として中国大陸南、主に南宋の商人等と密貿易をしていたにすぎない状況。朝廷には、すでに外交という任務は廃れていた。朝廷に巣くう公家等は、海賊等の商人と関連するために南宋と密貿易している海賊等の商人からしか情報を得るしかなかった。

 

一様高麗からの国書であるから、北条政権は、朝廷に回送し、当時院政をしいていた後嵯峨上皇に「異国のこと」として提出。

幕府は、幕府で情報を集め、蒙古軍が日本に触手を伸ばしているという情報をつかみ、蒙古軍(元)の襲来に備えて用心するように通達する。国書の返事を返すまでは、戦にならないと考えたんでしょうね。

鎌倉には、南宋の禅僧等が渡来しており、蒙古軍の情報など手に入れていた。高麗の派遣使は、大宰府に7ヶ月も滞在したが、日本側から何の反応もなく、しかたがなく帰国。高麗の使者ももともと日本列島に侵入もしくは戦を仕掛ける気もなく、日本側は、どうするでもなくこうするでもなく情報がないなか、たぶん高麗側の正直な考えを使者は朝廷側に伝えており、反応なしとして返した方が、日本側も得策としたのかもしれません。いかにも日本側の対応のようにみえるね。

 

高麗は、再び遣使の失敗の旨をクビライに報告。そして1268年南宋と日本を討つことを決断する。

高麗は、戦艦1000艘、軍兵10000人を整えさせるよう命じ、南宋或いは日本討伐に向かわせるべく元の官吏を高麗に派遣、日本侵攻ルートを調査させた。

 

1268年南宋侵攻開始。南宋討伐は、第二代カーン・オデコイ以来の懸念であった。南宋との戦いは、40年間続いており、1273年襄陽・樊城の戦いの敗北で消滅していく。

 

蒙古國牒状

 

このクビライが最初に送った大蒙古国皇帝奉書は、日本国王を臣下とする関係を望んでいる文章であり、その中には恫喝も含まれていた。しかし、他国の君主に与える文書としては、前例のないほどの鄭重なものとなっており、モンゴル帝国クビライは、日本を友人として感じていたようにも見える。

 

クビライの先祖は、日本人だったかもしれないね。

 

チンギス・カンの母ボルテ。以前紹介したボルテの民族のコンギラトの神話。

コンギラトの族祖伝承として、コンギラトの三人の始祖(ジュルク、クバイ・シレ、トスボダイ)は「黄金の壺」から生まれ、ジュルクからはコンギラト本族が、クバイ・シレからはイキレス氏とオルクヌウト氏が、トスボダイからはカラヌウト氏とコンクリウト氏、コルラス氏、イルジギン氏が生じたと伝えている。

 

黄金の壷とは、モンゴル族の日月の光を受けて孕んだという聖なる容器を意味するとあるが、壷とは容器。黄金の容器というのは、ジパング、黄金の国のことをさしていたのかもしれない。先祖は日本列島からやってきた。

 

日本人をまだ見たこともない、足を列島に踏み入れたこともないクビライ等のモンゴル族にしてみれば未開の島。未開の島が、ひょっとして神話にでてくる黄金の壷の国かもしれないと。

 

1269年(文永6)クビライは、再度使節団を日本へ派遣。約75名の使節団が対馬に上陸。日本側から拒まれたため日本本土へは進めずに、対馬の島人2名を捕らえて帰還する。

 

クビライは、この二名の日本人と面会できたことに大いに喜んだそうです。その後、この二人に元国の宮殿や玉殿、処処の城なども観覧させた。

 

1269年(文永6)この二人は、護送する名目で高麗人の使者とともに国書とともに大宰府へ到来させる。クビライは、二人の日本人に元朝の姿をみせることによって、その風景を伝聞させ元朝ではなく、皇帝の下部機関からの国書として日本へ送らせた。この国書は、日本を明確に服属を求めたようです。

 

朝廷としては、この国書に対して日本の独立性を主張した内容を記した返答にしたが、北条幕府はその内容を確認しすぐさま返書しないことを上奉する。北条幕府は、すでにモンゴル帝国のやりかた、すなわち盗賊集団であることは調べられており、そんなものに返事をする必要なしと判断したんでしょうね。

 

当時の北条幕府執権は、北条時宗。時宗は、北条家のエリートコースで育てられ、幼いころから北条実時という師とともに仕事をする機会を得ていた。北条実時は、禅の理念に精通した人物とされた。さらに時宗は、独裁色を消し、合議制政治を行った。北条時宗・北条政村・北条実時・安達泰盛ら幕府の最高幹部である寄合による合議制。

 

北条幕府としても関東周辺には支配力が及ぶが日本全土となるとそうはいかない。当時の後宇多天皇は幼小。それで当時の亀山上皇を政治利用する。亀山上皇によって日本全国の武士団への指揮命令権を賜り、全国の武士団を団結させようとした。白村江の戦い以後、外国と全面戦争を経験したことがない日本列島の武士等。ある歴史学者の中には、クビライからの国書は、非常に丁寧な文書であったために、それに返事をださなかったことが本格的な戦になったと考える学者もいる。のちに北条時宗は、元の国書を届けた使者を打ち首にしているからね。

 

関東、東海などの武士のほとんどは、高麗以前の韓半島、満州などの中国騎馬民族、遊牧民族から日本列島に流れた者を先祖に持つのが多い。朝廷にいる公家とは違う。公家は、唐の長期政権の文化を取り入れているが、利権にからむことや絣執ることは得意だが、戦となると我関せずとして逃げてしまうところがある。つまり、暴力などは人にやらせる。自分は絶対表面にでないなどね。いいことは表面に出るけどね。

 

朝廷の意見に関わらず、北条幕府は、すでに蒙古・高麗軍と戦うことを決心していた。時の政権が、朝廷でなく武士だったから自分はよかったと思いますね。朝廷であったならば、たぶんですが、公家の子孫の方は怒らないでもらいたいですが、日本国内敵味方に分かれ、元朝になびくもの或いは高麗になびくものなどがでてきたかもしれませんね。

 

その後、高麗領土内で内乱が起きます。三別抄の乱。

これについては、三別抄からの使者の史料がなく詳細はわからない。

 

 

三別抄も自ら高麗王朝と称していたようで、日本側からみればどちらを国書として認めればいいかわからず、単なる高麗の内紛に手を日本が突っ込むこととなりかねず、日本側としては、高麗王朝はもはやなく元国に支配されているとして対応しようとしたかもしれません。

 

ロシアが日本を見る目と同じ。日本のことは背後の国と交渉するということかな。また、それを日本の政府を認めているのかもしれないね。

 

三別抄は、高麗王元宗の依頼による蒙古軍の進駐軍に滅ばされる。蒙古軍といっても元高麗人である。同族は同族で滅ぼさせ、恨みを元にもっていかせない。内紛の常識ですね。

 

1271年、元から5回目の使節が到来した。そこに派遣された使者は、女真人。ここから時代が動き出します。

 

今回はここまでで。

アジア大陸は、女真人によって動かされる。朝廷と北条幕府にて決断の調整がまだついていなかったんでしょうね。臆病なのは朝廷。これは仕方がない。息子の決断に対して親が臆病になるように、生活が安定している上の立場からみれば臆病になる。

 

当時としては、日本が滅びるかどうかという決断の時期だった。

人間の死の原因の多くが、癌。自分の父母も90歳以上いきたので老衰死ですが、病名は癌。人間の死も組織、国家の死も同様、原因は癌。癌がなければ体はどんなに老齢であっても死ぬことは、自ら死を求めない限りない。人間の体の癌細胞は、常時発生しているが、健全な生活をしていれば癌細胞を倒すキラー細胞によって増殖を抑えられる。キラー細胞が抑えられなくなると、増殖しだし、全身に広がり死を伴う。

 

組織、国家にしてもどうしても癌なる者が存在する。その増殖を食い止めるのがキラー細胞となる組織であり、敵国ともなる国家でもあり、その組織や国家に巣くう人罪。

 

真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である

 

ナポレオンの言葉とされるが確実ではない。故石原慎太郎氏も好んで引用していたようです。といって無能な味方というのはどういう人罪を指すのでしょうか。

時代が安定期の時は、上司や権力者の言うがままに従えばそれなりに順調に事が運ぶことが多い。つまり命令されたことしかできないようにされているのが、安定期の人罪。どんな時も上に従えば起きたことに対して責任が回避される。会計責任者の責任に擦り付けるのと同じ。大企業の経営者が、粉飾決算をしたとしても会計責任者の責任に押し付け責任が逃れられるんでしょうかね。大企業という民間企業といえども国の企業だから国が助けてくれるということで国の補助や官僚の助けで生き延びる。定年としてその時をすぎれば、もう過ぎたこととして後輩者にその負債を引き継がせる。上のしたことに従順な後輩者等も同様、その後輩者等に負債をかぶせる。

ハンス・フォン・ゼークト

次になまけ者で 頭の悪い奴 命令されたことしか できないが充分だ すべての障害を 打ちたおす
最後に勤勉で 頭の悪い奴 そういうやつはさっさと 軍隊から追い出すか 銃殺にすべきだ

 

無能な怠け者と無能な働き者との違い。無能な働き者というのは、学歴、家系、知識などで、暗記教育でのし上がって来た者こそ、科挙とかで選ばれた官僚などが、口をはさみ組織をぐちゃぐちゃにするもの。以前半導体の幹部から聞いたことなんですが、天下りを仕方がなく受け入れたそうですが、何事も口をはさみだし社内で派閥をつくるわで追い出したいくらいとぼやいていたね。日本の半導体業界の衰退はそれが原因ですかね。

技術とか開発とかの分野では、官僚などの天下りの役割は、補助金を国からもらうこと、資源などの国策が絡む場合は、官僚が主導的となるかもしれないが、いわゆる単純な儲け話は官僚や大企業の天下りが得策となる場合もあるかもしれませんね。

 

利権に関わる政治家とつながるかもしれないし、相手国の官僚とのつながりも得られるかもしれないからね。そんなものなくても通常は外国の有力者など、民間人でも簡単につながる方法あるけどね。

 

エリートという無能を自覚できない者が、有能であると思いすぎると組織は手痛い目に合う可能性が高い。自分を有能だと思い独断で決断してしまう。

 

元寇時代の北条時宗は、エリートです。しかし、独断は避けた。合議制にして北条幕府を形成してきた。元寇という侵入者により混迷期に日本は入った。これまでのノウハウがうまくいかない。朝廷は。前例主義の塊。結論がでない。北条時宗などの合議衆は、すでに蒙古・高麗とは対立することは覚悟していた。

 

どうしても過去の栄光もしくはエリート主義、或いは莫大な財産の相続などがあったとしても、無能な独裁者の下、保守派といわれる改革を拒む者等、特に安定期に育ってきた人とその子供たち等は、改革に消極的になる。才ある者は離れ、先祖が貯めた財産も根こそぎ侵入者に取られる。

 

ロシア帝国にしてもモンゴル帝国(元)にしても清などにしても、莫大な資産があることから消滅することがないと独断的になることから、ならば奪ってやろうとするならず者が侵入しだしてくる。王国内には、王国の政策によって王国派と反王国派にわかれる。いわゆる派閥争い。派閥争いとなると外を見なく内を見ることに集中する。内を見ることによると外からの侵入者が味方に見えてくる場合もある。そこに外来者はつけ込む。モンゴル帝国が驕りが見えたところで動くのが商人等。

 

少し元の時代を信長の背後の関係と信忠の母に関するかもしれないので、延長して元の支配体制を考察してみますね。秦氏もこの日本では、不思議な民族であり、女真族にしても大陸では不思議な民族ともいえる。高句麗、唐、そしてモンゴル帝国において女真族は、目立って表に現れませんが、動乱のきっかけをつくっている。

 

現代でいえば、中国と台湾。おっとアブナイアブナイ。

 

ではごきげんさんで。