こんにちは、元気ですか(・・?

 

前回のブログでこの日本は、渤海との交易、文化交流で大きな恩恵を当時の上流階級に与えた。嵯峨天皇が渤海王に向けて出した外交文書の中には、渤海王は優れた人物で信、礼といった儒教的徳目を備えた人物として君子と呼びかけている。外交辞令もあるかもしれないけれども、嵯峨天皇は、たぶん、日本から渤海国へ向かった使者から、渤海国の内国の様子も聞いていたのであろう。

 

俗、礼楽を伝う。

 

社会全体に文化がつたわっておりというように、非常に国自体が文化的に優れた国であったような文書もある。日本国としては、渤海国は、高句麗の残党が形成した国であり、朝貢国としてみていた。

 

惟るに王、資質広茂にして、性度弘深たり。(『日本後紀』弘仁2年正月22日条)
王、信義、性を成し、禮儀、身に立つ。(『類聚国史』弘仁11年正月21日条)

 

嵯峨天皇は、渤海の文化的な面に着目してそれを日本の官人に受け入れさせた。

 

桓武天皇から嵯峨天皇の時代は、庶民は一体どんな暮らしをしてきたのでしょうか。

 

自分の父母は、自作農の出身でしたが、家は、戦前は本瓦の屋敷でした。父親の方は、没落農家のため、終戦時は、それほど田畑などなく、父がよく覚えていたのは、小さい頃は、長男だったので他の兄弟よりは、おかずが一つ多く、かつ白米。当時は、白米など所望する家庭はそうなかったようです。当時は田舎でほとんどが農家だった土地でしたが、鉄道が通るようになり、奥の山が鉱山となり、父親の土地が、その中継地として商店を中心とした街ができる。その影響で、父の屋敷は、線路に引っかかり、街ができる地域へと移動する。父が物心つくるようになった頃は、昭和恐慌の影響があったのかもしれないが、一族の保証人や街ができたことにより、叔父の中にも派手な生活をする人がいたりと、土地や蔵を手放していたそうです。兄弟均等相続だから、その分、先祖から保っていた土地も減ったことも原因かもしれません。

 

日本のほとんどの農家が、たぶんこのような状態で、一挙に小作人が増えた時期かもしれないね。土地の所有者が、他の土地からきた商人や銭持ちになっていた。母親のほうも聞いてみると、たぶん元々武士から農家になった人が多い土地だったらしく、東京へと日本の中心が移動し発展してくると、子供の教育の観点から土地を売り払い、東京などの都会へと引っ越す富豪農家がおおかったようです。

 

ただ、本瓦の屋敷の農家というのは、ほとんど周囲にいなく、お寺と父の家だけだったといっていたね。もともと将軍家直参旗本の領土で、江戸末期に隣の藩の領地に変更になったため、庄屋さんはその藩の影響が強い人がなったようです。

 

庶民の生活も現在のように本瓦が目立つ街並みをみると、昭和の敗戦から庶民の生活が向上した。洋風化も原因の一つかもしれませんが。先祖のおかげかもしれませんが、自分が、そこそこまともな生活ができたのも先祖のおかげかもしれません。

 

では、平安時代はどうだったか。

 

当時の王朝貴族の生活は、政務といったら儀式の遂行に大きなエネルギーをつかっており、官人にしても昇進の上限も決まっており、家柄、家系重視だった。よって、日本の政治的動乱というのは、主に王朝貴族の覇権争いが主体。庶民は、ほとんど下剋上のようなことはできないので、自分の生活、家族、部族の生活を守る事だけだったように感じる。

 

庶民の食事は、米粥と汁物、干物や野菜の和え物などが並ぶ「一汁三菜」であったとされる。食事も一日二回。肉体労働者は、間食も入れていたと思う。副食として、ウリやネギ、ごぼう、フキ、ナス、せりなど、野菜や穀物が多く、粕漬、酢漬けにして食べていた。王貴族などは、量は少ないが、おかずは数種類だされ、特に女性などは、ほとんど一日家庭に籠り運動などしなかったから、現代でいうカロリーがない薄味系統の食事が主体だったようです。

遣唐使などにより、日本にも麺類が伝来し、うどん(うどんのようなもの)もこの時代から食べられるようになった。現代も夏にいただくかき氷なども当時すでに平安時代の王貴族、庶民も所望していたようです。

 

都などの町人は、半分土間、もう半分は床張をした隙間風がはいる小屋。江戸時代の長屋ににたようなもの。地方へいくと竪穴式住居を模した藁葺住居。服装もたぶんほとんどの庶民は、着物一枚でひょっとしてさらしなどを腹に巻いて寒さを防いだり怪我を防いだりしたような簡素な服装だったんでしょうね。主に藁を使っていたような気がしますね。上流階級と庶民との間の生活の差は、現代よりもかなり大きかった。

なんというゲス行為!それとも功徳?平安時代、貴族たちが庶民たちに行った「とりばみ」とは

 

 

【落合陽一】「遺体は野ざらし」「食事は奈良時代より悪化」巨大地震に戦乱『平安』どころか『激動』の時代!貴族と庶民の“真相”「家族の形は今と全然違う」密教が広まった理由は桓武天皇

荘園などの農家に属しない庶民は、上記の様な状況だったんでしょうね。

庶民の生活が向上したのが、信長、秀吉、家康から。

 

正月早々おきた能登半島地震、そして2011年におきた311東北大震災。自分が生きていた時期で、日本列島で二度自然災害を経験した。その場所に住んでいなかったかもしれないが、いつ何時その災害にであうかもしれない。果たして、一世代で過去日本列島で大きな災害が続いた時代というのはそうないでしょうね。人生80年としても。

 

こういった自然災害、そして気候などの危機は、民主主義で解決ができるんでしょうかね。能登半島の地震と関西万博と天秤にかける。どう考えても、能登復興の方が優先のように思えるけれども、二頭追うような状況。日本の民主主義システムでは、誰も決断できない。両方ともなし崩しに進む。国家というのは、歳をとるにつれて、老化することもあるが、先祖国家を形成してきた賢者、強者等の感謝を忘れる。また、国家を形成した初期の先祖は、現代の発展を見て驚くが、現時点の我々は、その驚きの感覚さえなくす。

 

江戸末期の風景の写真などが、現代は、カラー版としてネットなどで紹介されている。渤海の影響を受けた嵯峨天皇から形成してきた日本文化は、美的感覚を日本人の行動の原理の中心としてきたように感じる。農民の基準的姿、商人の商売秩序、武士のありかた、公家、僧呂のありかた、そして朝廷のありかたなどに美的感覚をいれてきた。

 

現代の我々の道徳はひずんでいる。今後、AIなどのデジタル化がすすみ、さらに移民などがこの日本列島に入りやすい環境へと変わりつつある。AIなどの機械、そして他国からの侵入者が、我々先祖が形成した道徳という価値と同じ立場になることができるか。

 

日本列島に住む価値は何か、今後の日本の道徳とは何か、未来の理想的な道徳や価値をどうやって構成していくかなど本来は、民主主義の政治で考えなければならないことのような気がする。信長の時代は、江戸時代の庶民の生活をみると、そのことを信長を中心に、当時の武士と商人で考えていた気がするね。

 

ドイツ連邦共和国基本法

 

 

現代の世界は、主語がない自由が主体となっているために、自由というのは何事にも当てはまると考えがちである。ドイツなどの西欧社会においては、近代システム化が早々に根付いたせいか、賢人ほど深く物事、出来事、行為に対して熟考する。そして国家としての考え方の中で、ドイツの歴史背景もあるかもしれないが、言論などの自由よりも人間の尊厳を上位に置く。

 

日本の政治システム、そして最近話題になっているジャニーズや吉本興業の事件なども人間の尊厳とは何か、そして倫理とは何かということを民主主義というシステムの中で第一に頭に置いて議論や記事にしてもらいたいね。

 

マキャベリは、独裁政治を擁護し、モンテスキューは、自由主義を奉じた。日本の過去の賢人は、別のものでしょうね。

 

鉤十字とは何を表すか。歴史的血と闘いの象徴である。印というのは、その印をみて何かを表す。それがわかる民族のみ。それを意味することを日本の王家は知っている。ドイツの賢者も知っている。だから人間の尊厳を上位にしている。

 

前方後円墳、そして太陽神、鉤十字どれも我々庶民の多くは、印の意味を知らない。日本では光明の印の意味は何かも知らない。

 

八瀬童子

 

 

これを久遠の民族という。

日蓮宗の書、二巻。日蓮が身延山で、六老僧の懇願により建治年中(1275~78)に口述し、それを日興が筆記したものが「御義口伝」。

2023年9月座談会御書解説 御義口伝 法師品十六箇の大事 第二

 

 

織田信忠の母は、法華経を信仰しており、母かもしくは信長の母は、桂という文字、秦氏を表す。久庵桂昌大禅定尼から、秦氏であると予想します。もう一つの名前、久庵慶珠。慶、昌という文字は何を表すか。

 

そこで前回の桓武天皇以降の朝廷の動き、そして渤海の文化の続きに進みます。日本の文化というものは、渤海との交易から始まった、もしくは見直しが始まったといってもよく、渤海文化(唐文化)を取り入れてきた。さらに、三河や関東、そして越の国は、韓半島、羅津港を基点としたそこより西の文化、民族と非常に密接に結びついているように思える。

 

まず渤海国とは一体どんな国だったかを考察して、織田信長の一族と信忠の母の本貫を探ってみます。まず渤海国とはどういう国だったかを簡略に説明している動画を紹介。

平安時代の忘れられた隣国、渤海国の秘密!そのヤバすぎる歴史と謎に迫る!【ゆっくり解説】

 

 

前回信長ブログの記載を終えた後、youtubeのおすすめに紹介されていたので紹介。ちゃんと動画で説明していたユーチュウバーいたんですね。感謝。

 

しかし、その前に大陸文化とはどういうものかを考察します。主に西欧の文化になりますが。文化の意識がないと信長、信忠が生きていたという証明の手がかりの一つを掴むかもしれない。

 

渤海国との交易で当時の日本は、大陸国家の性質を理解しだした。しかし、それまでに韓半島の国々、そして中国大陸南部や東南アジアの諸島と交流はあったはず。おそらく、それらの行動は、主に下々の庶民の役割だったかもしれないね。朝廷は、外交・商業とかには、無頓着だった。白村江の敗戦で、天智天皇の時代から朝廷側は、鎖国的要素を取り入れた可能性が高い。つまり、日本列島の庶民には、唐との戦いによる敗戦ということは隠していた。また、庶民にしてもうすうす気づいていたけれども表面には出さなかった可能性が高い。なぜ、そのようなことができたかということは、則天武后の時代の考察をしたときに説明します。則天武后は、日本のことをよく知っていた。

【女性必見】衝撃!女帝・則天武后は日本の真似をした!?

前回のブログ記事で説明したとおり、日本は、常に大陸の文化を取り入れて、それを日本独自の風情と混合してきた。女王の民族が、大陸の男王の民族を迎い入れ表向き政務を任せていた国。女王の血筋によって、大陸に枝をつくり、日本列島に大陸の影響による大きな被害ができないように工作していった国。だから、遠藤誉さんの本ではないけれども、一般の庶民は、多民族に皆殺しとして侵入された経験が少ない。皆殺しになるのは、他人の利権を犯したことによることが多い。

 

265年続いた江戸時代。信長、信忠による開放路線は、原因もあるがこの日本列島では長続きしなかった。黒船来航により、大陸国家の文明の進歩に当時の武士は驚いた。仏教国家であるにもかかわらず、仏教を知らない国、日本。変化を知ることが仏教。そして生まれながらにして平等ではないのが、仏教。生まれながらにして、各自、体重も顔も体つきも違う。両親もその環境も違う。それぞれ違うことはわかりながら、年功序列、教育の仕方もみな同じ進行で行う。各自特異な科目も適正も違う。それを理解するのが仏教。

 

西欧で産業が生まれ、発展した。何故発展したか。何かを発明したとしてもその技術は、家伝として他人にその技術をおかされないために秘密にしてきたのが江戸時代までの日本。情報を拡散させなかった。個人の利権のために。信長がよく語ったように、天下のためというのは、無償による天下のため。天下のために命を捧げますというのは、無償の命を捧げる。それが忠誠心だった。信長はそれを利用した。信長が、先頭に立って戦場へと向かいだすと、四方八方から人がそれについて大きな軍勢となって戦場に現れる。集まった兵には、まずは腹いっぱいの食事が与えられる。しかし、報酬はでない。戦地4日目から生き残った者には、銭による報酬が払われる。さらに活躍すると役職が与えられ、後織田軍団の仲間入りとなる。活躍度の報酬によって部下も自由自在に選ぶことができ、頭数も増やせる。

 

情報をもたらすもの、新しい技術をもたらす者も同様、役職を与え、生活の糧を得て、織田軍団に向か居られる。活躍すればするほど、地位も織田軍団の中の地位も向上する。腕力に秀てない者は、頭脳で頭角を現す道もつくった。しかし、物造りの技術は、その場限りの報酬で終わりだった。新たなる技術を開発すれば、報酬があがるが、そう簡単に技術開発などできない。技術で昇進を願うものは、他よりも優れたものを開発しなければならない。名誉や才能に対する誇りのみの世界。

 

ただ、信長の場合は、多くは兵器ですが、技術開発によって大きな戦功があった者に対しては、一生食えるような莫大な報酬をしはらった。技術開発だけではなく、情報にしても。そしてどの武将よりもそちらの方の戦功を重視した。

 

明治新政府、江戸時代の閉鎖的システムを改め、西洋諸国に負けないために、政治システムをまねし、殖産興業として、新工場の建設、全国規模の鉄道網の整備などに巨額の資金をつぎ込みます。当時は、内務省が中心におこなった。

 

第1回内国勧業博覧会

殖産興業のために

 

 

1877年(明治10)、西南戦争開戦の中、開催された。日本が参加した1873年のウイーン万国博覧会を参考に初代内務卿大久保利通が推し進めた。それ以前は、主に名宝や珍宝を集めて観覧させることが目的な博覧会でしたが、見世物のイメージを否定し、産業奨励として行う。欧米の先進技術と日本の既存技術の融合が目的だった。そこで一つの発明品が注目を集めた。

 

臥雲辰致

 

 

 

 

臥雲辰致が発明した和式綿紡機は、注目を集めたが、その構造は、単純な構造だったために多数の模造品が製造されてしまった。その結果、臥雲辰致は、恩恵を受けずに貧困生活となってしまった。江戸幕府から明治新政府に変わっても、人間の欲によって社会還元にむすびつけさせるということに疎かった。江戸時代は、たぶん部下の手柄は俺の者、部下の失敗は、部下の責任というおかしな上下関係があったんでしょうね。

 

しかし、庶民というのは無碍な者等の集まりです。あんな発明なら俺にもできるわという逸材が多い。しかし、発明してもなんの糧も得られないとそれを隠そうとするのも当然。また、そういう発明に対して恐怖をいだく者もいる。

 

明治初めの頃は、まだまだ古い秩序と新しい秩序の入れ替わりでの対立が続いており、一向に欧米技術の進歩の速さについていけなかった。現在もある海外の研究者、日本では大学の教員にあたるかもしれないが、活躍している研究者は、3ヶ月に一つの割合で、研究論文で発表しているといっていた。日本の大学のほとんどの教授は、論文など博士論文だけでおわっていないかい。

 

その危機を知った高橋是清の農商務省工務局等、現代の経済産業省かな、専売特許条例の公布・施工を1885年(明治18)におこなった。しかしです。本来は、発明家を保護する制度であるから、発明者の当然の権利として認めなければならないのですが、大臣の権限で特別に与えるというなんともお役人根性丸出し。その後、政府内でカンカンがくがくと議論がおこなわれたのかもしれませんが、1888年(明治21)になり、専売特許事例が改正され、特許条例が公布される。

 

どこの王国の世界は同じですが、どうしても庶民の技術の糧を上流階級が奪ってなりたってきた世界であるために。教科書にしても将軍がこれこれしたと書いてありますが、明治新政府になったとしても庶民の権利を得たのは、20年という期間がかかった。それでも外国勢力の動きがあったからであり、庶民の権利を求める動きを継続しないかぎり、権利は、上流階級から奪えないということでしょうかね。

 

現自民党政権がの裏金問題もあやふやな説明しかしないのも、政治家の特権をなるべく放したくない、遅らせたい、そのうち庶民は忘れるだろうという気持ちが強いんでしょうね。なんか突発的な事件でもおこせば、その影響で庶民は忘れてくれないかと考えているかもしれませんね。

 

近代特許制度は、17世紀イギリスから発達しましたが、特許の本来の目的は、発明者の保護も重要ですが、発明技術の仕組みを社会に公開し、さらなる技術発展を促すことでもあるんですね。つまり、発明者は、発明の解説書を作成し公開する。日本の学会論文などのような一部の者にしか公開するのではなく、広く一般社会に十分に公開する。

 

よって、日本の公文書のような黒塗りなどはありえないという姿勢が重要。

 

こういう動きが欧米諸国に現れたことにより、産業革命がおこり、開示によって人間社会は進歩した。

 

自民党政府も政治システムを国家のためとして進歩したいなら、全面開示をして若い世代につなげるべきかな。

 

日本に欧米の特許制度を紹介したのは、福沢諭吉の西洋事情外編。

 

西洋事情

 

1867年には、一部の知識層には、欧米の特許制度のことは知らされており、1871年(明治4)には、専売略規則なるものを制定したんですが、現代の日本の官僚組織のように制定しただけで、マスコミなどで大きく報道しなかったのかもしれませんが、一つも出願がなく、1年で廃止。発明する人物もまた文章による解説書より口で説明する方を好んだのか、それとも技術を理解する役人や専門家なる組織も軽薄だったのかどうかわかりませんが、新政府として立ち上がったばかり、能力がある人材が少なかったのも原因でしょうね。

 

信長のように功を得た者に対して厚遇を与えるという習慣がすでに日本にはなくなっていたのが原因かもしれませんね。なかには、日本の特徴は、まねづくりの風情、まねしてつくるという自由があったとし、国内産業の発展を特許は阻害するものという意見が強かったらしく、特許制度つくるにしてもなかなかすすまなかったようです。まねしてつくるというのものとその恩恵による利益とは違うということにきづいていなかった。いわゆるぬけがけのような性質も当時日本にはあったのかもしれない。明治初年の頃は、結構外国人は、日本にきており、生活していたはずですが、この特許に関しては、外国人には認めなかったようです。

 

特許を得て利益という恩恵が受けられることがひろまりだしたが、その申請となるとそう簡単にはできない。願書の作成から明細書の内容の作り方など、当時の庶民にはそう簡単にはできない。技術に関する専門知識、法律知識などない人等が申請したり、代理をしたりしたものだから、当然怪しいものが多くなる。さらに外国人に認めると、日本の特許が独占されてしまう恐れがあるため、審査を厳しくし、元々技術水準が低い日本人の特許出願を当時の事務局は拒否するようになった。しかし、それでは産業政策上よくない。そして海外の事例などをさがし、ドイツの実用新案制度をとりいれて、現在の特許制度の基礎を作り上げた。

1909年(明治42)特許局への手続きは、特許弁理士でなければならないという特定代理者の制度が整えられ、1921年(対象0)に弁理士法が公布された。

 

古代日本から、庶民は、基本的に守られていたのがこの日本。搾取がひどすぎるとどこからかそれにあがなう勢力が現れ、時間をかけながら修正していく。そして庶民の権利を少しづつ拡大していった。

その点、大陸は、そんな状況を容認できなかった。上流階級の権利を庶民が剥奪していかなければ、庶民は生活ができなかった。また、そうしないと陸続きのために強い国に侵入される。権利を叫ぶものこそが奪う権利を持つ世界。日本は、すでに外壁がない世界へと変わっていることにきづかなければならないね。次から次へと外国から侵入してくる者は、権利を主張し、奪っていく。

 

そしてもう一つ契約についても考察。

五行博士について考察する予定だったですね。忘れてた。渤海国、五行博士、そして則天武后の時代と話題が飛んでしまった。それだけ信長のしてきたことは、奥深く、さらに戦国時代と江戸時代とはうってかわったかのように変化している。

 

朝廷というのは、外国勢力。日本は、外国勢力を呼び権利を奪われた、それが何回も繰り返された狭い地域。もともといた民族が、奪われた権利をなんとか奪い返してきた。それも何回も繰り返している。大陸国家は、法によってそれらの権利を守る手段を考えた。そして日本はそれを取り入れた。

 

信長は、功による報酬の重要さを理解していた。身分ではなく。

 

日本の株価はあがっているけれども、日本の技術・情報の進歩がない。たんなる泡による上昇。株価はあがっても日本のインフラは危機的状況。功による報酬の重要さがなくなった社会になっているのかね。

 

ではごきげんさんで。