こんにちは、元気ですか(・・?

 

任侠、やくざの世界というのは、我々の様なそういう世界をあまり知らない者は、映画の世界でしか知らない。多くがそうでしょうね。しかし、昭和の敗戦後の混乱時代、一匹オオカミとして企業を立ち上げたりした中小・零細企業の強者、経営者などは、そういう世界とつながらなければ、事業ができない状況だったようです。

 

「仁義なき戦い」は、広島を中心としたヤクザ同志の縄張り争いが主に物語の中心となり、その争いの中に人間の本性を表現しようとしているけれども、明治から昭和初期の関東ヤクザの映画は、そういう闘いというよりも一般庶民とヤクザ組織のつながりというものを表してくれる映画もある。

 

九州の古き任侠にしても「青春の門」などの映画から、古い任侠から新しい任侠へと変わってきている状況を映し出されている。

 

昭和の敗戦の時期、敗戦となり軍部は解散。多くの兵隊が、リュックに一杯つめて故郷に帰った姿の映画をよく見る。リュックの中に何が入っていたのかわかりませんが、たぶん軍の倉庫からもらい受けた者や、支給品などがを詰め込んだのかもしれない。

 

そういう映画の世界の中で、任侠の世界で尊敬させる言葉が、「きっぷがいいね」。賭博をしても「負けっぷりがいいね」とかの言葉で尊敬される。

明石家さんま & 西川きよし 超貴重スペシャル対談 芸能生活60周年 2024.1.5

 

 

芸能の世界も収入は当時よりも莫大になっているにもかかわらず、「きっぷのよさ」がなくなったんでしょうかね。車代3000円。儲けている上部の者が与えるんではなく、下から上への上納の世界。一般社会からこのような世界になったのか、任侠、芸能の世界からこのような世界へと向かったのかわかりませんが、日本の世の中のシステムが、どこかからか上から下へではなく、下から上へという弱いものから搾取というシステムにかわったのが現在ですかね。

 

「おもろい奴やな」ということで拾ってくれるのではなく、徳川綱吉時代の忠臣蔵、何を上納してくれるかなということで拾ってくれるという世界に。

 

正月早々おきた能登地震、ニュースの報道をみていると豪雪地帯のため地震の被害の他に、寒さによる人間の命の問題へと向かっている。このブログ信長の考察は、歴史ブログなので少し能登の歴史を紹介します。

 

石川県珠洲市には、祟神天皇の治世、およそ紀元前97-29年頃に創建し、天平勝宝年間(749-756年)頃に現地に移転したとされる須須神社がある。令和5年の地震では、高さ9メートルの鳥居が崩れたことで有名になりました。

須須神社

須須神社は日本海側一帯の守護神とされ、祭神は、寺家高座宮の主神高倉彦神(たかくらひこのかみ)と山伏山山頂の奥宮に祀られている美穂須須美命(みほすすみのみこと)です。須須神社の宝物殿には、国指定重要文化財の木造男神像や、数々の古文書、義経ゆかりの品々が収蔵されています。中でも「蝉折の笛」は義経が海難を救われたお礼として奉納した宝物の一つ。

 

海上からの景観は山容優美、鈴を逆さにしたような神奈美の霊山といわれる山伏山。北海航行の目標、漁の為の森、ご神体山として崇拝され、平安中期には、海上警戒の設備が置かれ、峰火が一度あがると郡家、国府そして京都の都へと伝達されたといわれているご神体山です。

がんばれ能登半島 須須神社大丈夫です 令和6年1月11日 能登一宮氣多大社 #気多大社 #令和6年能登半島地震 #mavic3cine #須須神社

 

 

能登半島の突端は、332種類の渡り鳥のバードロードとして知られており、世界最多といわれている。その沖は、暖流と寒流が交わる日本でも特殊なエリア、多くの種類の魚介類が水揚げされ、能登半島の語源は、インドからやってきた法道仙人がこの地で天に登るための修業をしていた場所。

 

天へ登る→能く登る→能登

 

「能登はやさしや土までも」

人はもとより土までもやさしいという農の風土を表していると同時に、能登の人は素朴で温かいという意味を表しています。

 

港の長を意味する名称として、刀禰(とね)が使われ、淀川の船頭や港の代表および行政担当として「河尻」の刀禰、若狭湾や琵琶湖の津(港)では、「津刀禰」と称して船舶からの通行料をとっていた。伊勢、志摩でも港を代表する津刀禰が存続し、関東の安房の港では、浦刀禰が存在していた。

 

九鬼水軍と同様、刀禰水軍という大阪と蝦夷地を結ぶ日本海航路に就航した廻船があり、1900年頃まで多くの人の交通の足を支えていた。

 

日本海域では、北陸が重要な地域であり、応神天皇の頃から、いわゆる大和朝廷にとっては、近江から北陸へ繋がる諸豪族との関係が重要視された。特に高句麗外交においては、北陸地方は、高句麗文化の流入口でもあり、渤海国に変わったとしても大陸北方騎馬民族文化の流入口となっていた。

 

大和朝廷→南山背→琵琶湖上水路→北陸

 

能登は、古代から「こし」と呼ばれていた。その後、越前・越中・越後の三つに分かれ、能登は、越前国に入る。能登は、中央の権力を東北地方に及ぼすための基地として置かれていた。聖武天皇の時代、越中国司として万葉歌人大伴家持が視察に回った。その頃は、能登は越中国に組み入れられていた。

 

聖武天皇の頃から東北地方は大きな反乱がおきており、半島の動乱が、そのまま日本列島に影響していた時代。聖武天皇の時代は、新羅外交に問題が生じていた。能登地方は、東北の反乱、新羅との対立などがあり、北陸地方では、軍事基地として国府となり発展していた地方であった。

 

当時の韓半島の状況を見てみますか。

 

690年の即位した則天武后が執政した時期は、羈縻支配(きびししはい)地域に対する収奪が激しく、各地で暴動がおこり、高句麗の残党とともに女真族である栗末靺鞨人が組み、震国(しんこく)を建てた。その後、唐の冊封体制にはいり、渤海郡王として大祚栄が冊封された。

 

しかし、二代目大武芸後は、唐からの独立色を明確にし、唐・新羅・黒水靺鞨と対抗するようになった。その時に、渤海は大和朝廷に使者を送り、軍事同盟を求めていたようです。実際は、同盟の用はなさなかったようですが、交易だけは行っていたと歴史では記されている。

当時の渤海国は、大和朝廷と組んで新羅を滅ぼそうと画策していたようです。

 

韓半島では、百済が滅び、その後高句麗が滅び、特に高句麗からくる王族や遺民は、東海から東の土地、北陸こし地方へと追いやられていったようです。何も財産を与えられず。日本に上陸し、移民になる以上、全ての財産は、朝廷に献上するのが条件。韓半島に戻ったとしても殺されるから、仕方がない。生きる道さえあれば・・・。

 

その点、百済からの移民は、当時の大和朝廷と縁が深かったせいか他の移民よりも恵まれていたのかもしれません。多くは近畿から西日本へと与えられていたのかもしれません。百済(扶余)の渡来人である和新笠の一族の勢力は、大和朝廷でも強力だったんでしょうね。

 

天武天皇以後、朝廷内の争い事と同様、庶民のなかにも部族争いが連動しておきていたんですね。桓武天皇時代の健児の制が施行されるまでは、兵は、農民という百姓から、村ごと或いは郷ごとに若者数名をだせというように強制的に命令されていた。当然、武器を使うことに馴れていない若者が多く、ほとんど死に行くようなもの。軍を抜け出して山へ隠れる、その後浮浪人として生きていこうとするものが多発する。故郷の村には帰れない。

 

たぶん、当時のお百姓さんのほとんどは、出雲族だったんじゃないかな。出雲族を母に持つ藤原緒嗣は、なんとか出雲族の百姓の生活を助けようとしていたように見えますね。

 

ここで少し話を脇道にそれます。

 

この信長の考察のブログでは、日本の古代の民族を高の民族、毛の民族、そして犬(知)の民族という三つの民族が、主体として日本列島を形成してきたという考察です。それぞれの三民族は、もともといた原住民の民族から渡来時期によって細かくわかれますが、中心は、犬の民族を本貫として混血していった列島人。

 

神社の入り口にある狛犬。ヒロシ・ハヤシさんの動画によると、狛犬は犬ではなく、神だと話している。エンリルとエンキ神。

本貫である犬の民族は、もともと神族だった。それが、別の神の争いに負け、犬に貶められたような気がしますね。

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ローマカトリック教会が所蔵する古代の世界地図には、東方の国、日本列島の部分が、地図の上に存在する、現代は、北が地図の上であるが、古代は、東が地図の上部に書かれていた。上部が東から北にかわる。支配が変わったということかな。

 

 

能登の話題に戻ります。

能登半島というのは、日本海を生活圏とする水の民の中心的場所である。現代の福井県から石川県能登、そして新潟県の海沿いが、日本海を生活圏とする民族の中心地。大陸の生活圏の中心地が、北方から南方へと変わるに従い、日本海生活圏から倭人が住む北九州地域が中心となった。倭人が中心であった大和朝廷は、北陸地方の諸豪族を戦で倒すことよりも配下にさせることで取り込み、律令制の体制にいれたが、それより東の東北地方は、粛慎の土地となっており、民族の正確上、気象の悪化などにより動乱が続き、西へ西へと圧力をかけ続けた歴史があるようにみえる。粛慎についての性質は、以前ブログで説明していますね。

 

大和朝廷の東北地方、粛慎の対策の拠点、大陸北方民族の文化交流の拠点が、北陸地方こしの国であった。

 

能登や新潟に原子力発電を建設したのも、大陸からの侵入される入口として、現日本政府は見ているのかもしれませんね。

 

唐・新羅と渤海という大陸のせめぎあいの中で、大陸の同民族も含む多民族国家日本も揺れていた。その大きな事件の一つが、

藤原仲麻呂の乱

 

藤原仲麻呂の母親は、阿倍ご主人の孫女とある。藤原家も四兄弟の不信な死によって、庶流が力を付けだしてきた時代。藤原不比等の息子、4兄弟の連続の死によって、朝廷内の動乱と、日本列島の民族、部族争い、そして大陸、特に韓半島の争いなどが加わり、その影響が、自然現象となって、大地震、火山噴火、疫病、飢饉へとつながった時代であった。

 

そういった時代をへて韓半島の国、そして日本は、どのような仕組みを政治の中にとりこめばいいかということを、韓半島から綱吉以降の江戸幕府は学んだ。つまり、属国主義と文官政治。江戸幕府は、韓半島の国から文官政治をならい、昭和の敗戦以降は、韓半島の国から属国主義を取り入れた。

 

高麗の時代から、独立色を消しさり、御経を唱えることによって敵を倒す方法を取ろうとする時代へと。ここでいう文官政治というのは、搾取による格差社会をさす。上部の思考を管理し、下の者の思考をなくさせる。

【女王の教室】阿久津真矢(天海祐希)「思考停止人間になるだけよ」

 

 

日本列島というのは、大陸の影響をもろに受ける性質の島民の国だった。高句麗・百済・新羅から日本に渡って来た移民は、韓半島から命からがらわたって来たけれども、強者そろいの渡来人たちだった。しかし、高麗以後、日本列島に渡って来た渡来人は、どちらかというと全く別人の渡来人としてわたってきたように思えるね。

 

今回は、信長の考察とは少し離れましたが、信長の時代と大きく関係します。まず、明智光秀。以前のブログで光秀の素性も詳しく考察しました。光秀の本貫は、大草松平氏の領内から福井の小浜へと移動しましたよね。何故、福井の小浜へと移動できたか。同族がいたんでしょうね。当時のこしの国と三河とは、民族同志つながっていた部民がともにいた。

 

そして本能寺の変で死んだはずの信長が、大陸へ渡ったとされる出口が、福井の小浜。さらにワンピースに話題がでたように、織田信長の死後、長男信忠の子孫、三法師の後胤を守っていたのが加茂氏。

 

織田信長の背後には、秦氏、犬の民族、そして加茂氏という古代原住民系の民族が主の部分が援護していたように思えますね。

 

次回は、桓武天皇の時代、平城、嵯峨天皇の時代に一体何がおきていたかというのと、織田信長と関係がありそうな雄略天皇の時代を紹介し、考察してみますね。なぜ、信長の時代の考察なのに、古代の時代を考察しなければならないか。

 

徳川家康について、いろいろな素性の話題があるんですね。

例えば、

家康の素性

 

 

近代にはいり、結構話題になったようですね、この話。

 

元々武士というのは、地下人。平家物語にでてくるように、公家の軒の上に挙げてももらえない存在。武士が力をつけたのも富豪浪人が増え、商いから力をつけてきた。しかし、この日本、妬み、嫉妬が、どこよりも強力。属社会から離れると、突然ありもしないような嘘を流したりする性質を持つ社会。国で人を育てようとせず、属などの塊の組織で人を育てようとするために、組織に合わなく飛び出そうとするものが、外で活躍することを妬み、おかしな噂を流して貶める。

 

ある宗教団体からぬけたら、貶められた人、著名なお笑い芸人の市会議員が話していたね。

 

力をつけるには、金が必要なのは、戦国時代も同じ。それと血のつながり。同族でもうらぎ裏切られたりするが、他人よりは信頼できる。血縁が裏切り裏切る場合は、共通の利権が争うときがおもなだけですからね。 親の財産争いとかね。

 

能登半島と同様、三河、そして房総半島なども大和朝廷にとっては、重要な軍事拠点であったはず。後宇多天皇が、在原氏を三河へいかせたのも何らかの目的があったから。さらにこの地域は、物部の長がいた地域。海と川の利権を管理する刀禰の地域でもあり、その利権を少しでも争うとするものが現れたら、一族皆殺し、子供だろうが、女性だろうが容赦なく皆殺しにしていた時代。

 

日本の歴史は、明治から作られたものですが、通常は神輿は軽いものがいいのですが、戦国時代、そんなわけはいかない。それなりの背後関係がある人物、もしくは強力なフィクサーがつかないことには、難しい時代ではなかったかな。上記のブログでは、徳川の中にそのフィクサーがみえない。

 

平清盛にしても、豪商といえるフィクサーがついていたし、頼朝にしても鎌倉武士連合という背後と、たぶん鎌倉仏教僧呂等がいたように思えるね。当時から僧呂は、商人の頭。

 

信長にしても背後関係でいろんな援護する部族でてきますからね。

 

では、次回もお楽しみに、ごきげんさんで。