こんにちは、元気ですか(・・?

 

日本の歴史背景は、文字によって現れているのかもしれないね。このブログで信長を考察していて、少しづつですが考えや歴史を変更してます。今回は、根本から考え方を変更していきます。

 

古代、鹿島、茨城付近を高の民族の土地、栃木周辺を毛の民族、そして秩父を犬の民族の土地としました。そして、徳の文字を考察したときに、日本的白人の民族であり、毛の民族と犬の民族を白人の民族と考察しました。しかし、もう少しそこのところを考察してみます。この部分は、信長に関係するので。

 

世界の王が日本列島に来る前の話(まとめ)

 

 

日本の神々には、高皇産巣日神、神産巣日神の二神大神を主祭神として皇産霊大神として日本人は、奉祀している。高皇産巣日神を男神、神皇産霊神を女と坐して宇宙中心の神として天之御中主大神。

その神社が、皇産霊神社。

 

皇産霊神社|神社の由来(HOME)

神武天皇を古事記では、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)とともいわれており、毛の民族のことを指しているような気がする。豊という文字も使われていることから、古代秦氏の血もまじっているかもしれない。

神武天皇の一族が、神産巣日神の一族。

 

高の民族は、文字通り、高皇産巣日神系の一族。

 

日本は、古代のある時点から、この二つの神の争いが現在もつづいているのかもしれませんね。毛の民族が、太陽或いは火を奉る民族であり、高の民族が水を奉る民族。

 

徳の民族が、ひょっとして犬の民族かもしれない。毛、高、徳(犬)という三つの民族が、本貫となって日本列島を形成していった。

 

児島高徳という名は、水系、日本古代史でいう出雲系の名前、毛利家などは、神武系の名前ともいえる。そのつながりで考えると、織田信長は、出雲系に近いともいえる。

 

高皇産巣日と神産巣日神の戦いを説明している動画があったので紹介。

 

1033+956 神の中の神(エンリルは日本の支配者だった)History of Gods (神々の歴史

1832 Enki and Enlil+Gods Wars in Ancient Japan古代日本・神々の戦争エンキvsエンリルbyはやし浩司Hiroshi Hayashi

 

 

上記の初めの動画の中で、扶余国の話もでている。扶余国を追い出された王族が作った国が、百済。上記の三つの動画の説明を検討すると、扶余国は、モーゼの民族、つまり神武系の民族。高句麗と百済が後、対立したのもわかりませね。

 

これ以上いくと、信長の考察とかけ離れるので、その理由を知りたい方は、上記の動画をアップしている人の動画をみて研究してください。

 

ただし、阿毎氏というのは、洪水前の中国大陸泰山出身の王族といわれており、中国大陸北方へと移動し、そこで二つの王族にわかれ、その一つが日本の現在の九州へと最終的に逃れたと契丹古伝に書かれている。その時代に九州かどうかわかりませんが、王族としていたのが現在血統は維持されているかわかりませんが、当時は園家という王族があったと書かれているようです。

 

物部氏が滅び、それまでの歴史資料なども燃やされたようで、天武天皇の頃まで、民衆や王族の中で、歴史そのものが空白となっていたかもしれませんね。各地でそれぞれの部族の歴史が、風土記としてまとめられていたが、西日本連合としての歴史そのものが失われ、白村江の戦いで唐に敗れたことで、人質となったり、唐へ留学したりした人々が、連合国としてではなく、国家として一つの歴史をまとめようとして、唐の文献と日本の風土記などを照らし合わせしながら日本の歴史を強引に形成していったのかもしれません。

 

加治兄も天皇という言葉は、明治からと言っている歴史作家もいるからね。

 

桓武天皇と天武天皇とは血のつながりは系図からみるとないようにみえるので、桓武天皇の母が高野新笠という名にかえ、高野天皇といわれた称徳、孝謙天皇との血縁続きということを、人民をまとめるために名前を変えたのかもしれませんね。

 

それだけ、その当時は、民族争い、たぶん利権争いだと思うけど、激しかったんでしょうね。

 

称徳・孝謙天皇にしても当時の人民をまとめるために関東或いは東北から連れてきた女王であるともいわれており、直系血筋で天皇を追うとこんがらがるので、今後は、その天皇が何をしたかというのと、水、太陽という奉る民族の違いで考えるようにしていこうかと思います。

 

たぶん、藤原氏も鎌足から不比等、それ以降にしても直系血筋などは変えられているでしょうね。

 

桓武天皇は、秦氏が開拓していた土地を取り上げ、都を移し、さらに現代の京都という湿地帯を秦氏が開拓した土地を取り上げ、平安京を築き、江戸時代までここを朝廷として運営していた。このブログでは、漢の都長安を都にしていた民族を、総称して秦氏としています。

 

どうも日本人ユダヤ人説があるせいか、以後その考えは一旦捨てますね。それがあるとそれとつながるように考えるので考察がおかしくなる。ただ、この日本列島は、中国大陸の周の時代の斉の影響が強いということはわかります。呂斉と田斉です。

 

桓武天皇と藤原氏の時代は、秦氏の土地を取り上げ続けた時代であった。それにより、藤原氏の配下として残った秦氏の人々もいただろうし、多くは、東国もしくは他の地方へと追いやられた気がしますね。ここで、藤原氏対秦氏という因縁が見えるね。

 

桓武天皇の母は、天智天皇の血筋である光仁天皇を父にもち、母親は、百済系渡来人和新笠(高野新笠)という扶余族出身です。扶余族をモーゼ系とすると、つまり神産巣日神系です。

 

前回で言霊によって前天皇の皇室との継続を名をつなげることによってあらわしているという考えから、体制は、前の朝廷とは違う、新たなる政治を行おうとしていたという気持ちが朝廷政治に現すでしょうね。その一撃が、秦氏の利権を奪うことだったのかもしれません。

桓武天皇を引き上げた人物が、藤原百川。

 

藤原百川

 

 

称徳天皇、道鏡に重用されたが、宇佐八幡宮神託事件には、皇位継承阻止派として動いたといわれている。父は、藤原不比等の三男、藤原宇合であり、母は、久米若女。

 

久の文字がでてきました。

 

桓武天皇は、山背国(現在の京都府南部)に遷都しようと準備していたが、遷都を指揮する藤原百川の甥、藤原種継が暗殺された。犯人は、対立していた大伴氏、佐伯氏ともいわれている。桓武天皇は、皇位継承後すぐに早良親王を後継にしていますが、この事件に関わっていたという嫌疑をかけられ、皇太子を廃立されます。系図によると、同じ父、母であり、弟であるが、最後は絶食させられ死亡したそうです。血がつながった兄弟だから島流しすればいいだけだと思うんですが、血が濃いからこそ天皇の地位を脅かす存在だったのか、それとも早良親王を皇太子にしなければならない理由があった、つまり兄弟ではなかったのかもしれませんが、人に言えない、世間に言えないような事情があったんでしょうね。

皇位継承をしたことがないために、歴代天皇には数えられていないが、祟道天皇とも称されている。

 

この事件の詳細は、信長の考察とは関係があまりないためにここでは説明しません。次に皇太子になったのが、安殿親王、後の平城天皇がたてられる。安という文字は、長安を表します。

 

この事件の直後、藤原百川の長女であり、桓武天皇の夫人でもあった藤原旅子が若死、そして母親である高野新笠、皇后藤原乙牟漏(おとむろ)も病気で死にます。

それが、早良親王の祟りと陰陽師から告げられ、怨霊に怯えるようになったと伝えられている。

その影響の下、更に遷都を考え、長岡京から794年平安京(京都市)へと遷都する。

 

秦氏の開拓地から秦氏の開拓地への移動。怨霊に怯えて遷都したようにはみえないけどね。遷都6年後、早良親王に「祟道天皇」(すどうてんのう)の諡号を贈り、早良親王の鎮魂のために諸国の国分寺で読経を行わせた。

 

この事件のおかげといっていいのかどうかわかりませんが、反藤原勢力が排除された。藤原氏の勢力も弱まり、桓武天皇自体の権力が増し、独自の政権を築きあげることとなる。

 

桓武天皇は、奈良仏教を嫌っていた。鎮護国家思想の原点である東大寺の移転は禁止し、奈良僧呂が政治に介入することを阻止した。たぶんここから奈良仏教が衰退し、多くの僧呂が東海、鎌倉などの関東へと移動したのかもしれませんね。

 

ただし、桓武天皇は、仏教自体は重要視しており、奈良仏教に圧力をかけながら、比叡山延暦寺の最澄を唐に送り、天台宗を学ばせた。

 

最澄

 

 

最澄の出自も結構不明なことが多いんですが、聖徳太子の玄孫と聖徳太子の墓の前で話していたともいわれており、聖徳太子とかかわりがある一族だったかもしれませんね。比叡山の公家人には、犬上氏がいますからね。

 

遷都を繰り返すことによって権力を増した桓武天皇は、蝦夷平定に向かう。これは、桓武天皇の父、光仁天皇の時代から本格化していた。その継続である。三度の討伐軍派遣で、胆沢城、志波城を築き、東国を平定。この討伐にだされ拒否した百姓などが、主に浮浪人として、後の富豪浪人となる。

 

徳政相論

これも桓武天皇の崩御三ヶ月前に行われており、突然死したわけでもないので、すでにこの頃から侍従政治として朝廷を運営していたんでしょうね。このころから、ブログで説明したように、富豪浪人が出現し始め、京都および近畿近辺を最大日本消費地として富豪層と院宮王臣家とが結びつき、各々が個人崇拝に走り出し、中央政界では、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、摂関家、技能技官人としての行政実務、地方では、受領となって地方行政を担う平安貴族が形成されつつなった。

そういう時代、つまり今だけ、自分だけ、金だけといった個人奉仕の時代へと移り変わり、同時に、日本列島は、飢饉、地震、火山噴火という災害が続いた。

 

なんか現代と似ているね。

 

当時桓武天皇の重臣が、藤原百川の長子、藤原緒嗣(おつぐ)と菅野真道。

藤原緒嗣は、山本大臣とも称した。

 

菅野真道

 

 

姓は、津連。百済からの渡来人と伝えられ王辰爾の後胤。

王辰爾

 

菅野真道は、後観察使となる。観察使というのは、李氏朝鮮では国王直属の機関であったらしく、たぶん当時も天皇の直属スパイ機関としていたように思える。扶余国というのは、建国当時から優秀なスパイ機関を形成していたようです。国の機関ではなく、王の直属機関、現代でいう天皇直属の公安部隊。こういう組織が、桓武天皇の後継平城天皇から形成されてきたのが日本。

 

桓武天皇崩御後、平城天皇が即位します。

 

桓武天皇による造都と征夷で日本列島は疲弊し、国家財政も緊迫した中での即位。そこで民情把握といえば言葉がいいが、反乱などを防ぐために観察使の創設を行った。反乱分子を見つけるためのスパイ組織。

 

桓武天皇から神武系の支配、神皇産霊神系の支配となった。それによって秦氏系、徳系(犬)の民族の動向も今後考察します。

神皇産霊神は、女神ですから、女系も重要視しなければなりませんね。

 

織田信長の娘は、五徳。

織田家の城として現在でも国宝として残っているのが犬山城。

 

[歴史探偵] 家康も震えあがった武田信玄 若き日の苦い経験―― | NHK

 

 

信長も信玄と同じ境遇だった。父織田信定もしくは織田信秀は、信長が若いうちに死んでいる。若い信長にそう簡単に織田家領内をまとめられることは難しい。信玄と同じ。

信長の背後に、織田家をまとめる、或いは力となってくる一族がいた。池田家などは筆頭格ですが、その他に。それが、織田信長の本当の母親だったんではないかと思いますね。つまり、信長の母親は、このブログで指摘したように土田御前ではなく児島高徳の後胤の姫もしくは楠木氏などの南朝系を味方にひきいれるほどのある天皇系の姫の可能性がある。

 

尾張久昌寺にある信忠、信雄、五徳の三子の母堂と書いてある墓があるが、正面に久庵桂昌大禅定尼と記してある。信忠と信雄は、母親違いというのは定説になっている。このブログでは、信長の母親ではないかと感じる。久の文字は、今後解明していきますが、安の文字は、長安をさし、桂は、秦氏、物部氏をさすと考察しました。高皇産霊神系の可能性あり。

 

信長については隠されているからね、ずいぶんと。尾張はかかあ天下の土地。かかさまがいるかぎりたぶん尾張家から脱出できなかったんじゃないかな。母親の死で、急に日本から飛び出したのかもしれませんね。

 

高句麗の国が滅び、その王族と遺民らが日本に渡ってきます。その港が福井県の港。そして朝廷におもむき各地に住まいを与えられたようです。移民には、決して金目のもの、いわゆる財産など与えられない。いわゆる王族でも宝物はすべて朝廷に差し出す。武器なども同じ。地方にいって反乱などさせられたら困るからね。主に東国へといかされたようです。

過去の大陸や半島の王族も同じ。王族が持ち出した宝物は、すべて朝廷が搾取する。また、そのような宝物がないと日本列島にはいれない、追い返される。そうして日本列島は宝の山となった。

 

北斗の拳2 ケンシロウ vs カイオウ (最終決戦ラストシーン)

The Most Awesome Death Ever

 

この漫画は何度見ても面白いし飽きない。北斗の拳修羅の国がのモデルが、この日本列島だとしたら、おもしろいね。

 

次回は、平城天皇以後の動きをザクっと考察し、三河と久という文字を考察しますね。

少し今回の地震の件もつなげたかったんですけど、それも後日にします。

 

ではごきげんさんで。