こんにちは、元気ですか(・・?

 

信長の話を続けますね。

 

道三と信長面会の様子を検討してみますか。

 

たぶんこの頃は父信秀病気療養中ですが、いきていたはずですね。信秀の没年にしても確定してないからね。

 

道三の耳に信長が大うつけ者という噂が流れていたそうです。奇天烈な恰好で尾張周辺を馬で回って地形を調べていたようですから、そういう噂が流れていたんでしょうね。人の噂というのは、あまり信用できない。特に世間の噂はね。

 

また、あまり優秀しすぎると周りの一族の妬みなどがあり、出る杭伐られる恐れもある。そのような噂をあえて流していたのかもしれません。

 

会談場所は、尾張富田の聖徳寺。

 

愛知県名古屋市天白区にある真宗大谷派の寺院。会談した頃は愛知県一宮市にあったようです。

当時は尾張国中嶋郡

 

  • 美和(みわ)
  • 神戸(かんべ)
  • 拜師(はやし)
  • 小塞(おせき)
  • 三宅(みやけ)
  • 茜部(あかなべ)
  • 石作(いしつくり)
  • 日野
  • 川埼(かわさき)
 
歴史本によると、一足先に聖徳寺に入った道三は、正装した家来800名位を寺の縁に居並ばせておき、道三は町はずれの小屋に身を隠して信長が来るのを待ち構えたという。容姿、服装は歴史本に書かれてますね。その中に、虎と豹の皮で作った半袴を着用していたといわれています。当時、そのような皮どこでてにはいるんでしょうかね。
日本では手に入らないから、異国と貿易をしていたということがわかりますね。
 
信長の行列の中に、鉄砲がすでに500ほどあったそうです。付き従うものすべて鎧姿に身を固めていたと。鉄砲当時一ついくらしたんでしょう。結構高い。
 
まゆつばかもしれませんが、当時としては貴重な鉄砲を多量に装備しており、かつ鎧まで完全装備していた信長軍隊だったということは事実でしょう。
 
さて、その鉄砲と鎧はどっから取り寄せたんでしょうか。鉄砲生産地としては、一つは近江の国友村。しかし、国友における鉄砲製造の起源は、天文13年1544年。1549年に国友村に織田信長が、500挺のを発注したという記録があるようです。ちょうど父信秀が死んだころですね。
 
それと堺。津の商人を介して堺から鉄砲などをとりよせていたのかもしれません。
 
織田氏は異称として津田氏ともいわれていますね。岩倉織田秀敏の秀重は津田を称し、父信秀の弟信康とその子孫は、津田を称している。
 
近江に、近江国蒲生郡津田村今の近江八幡市が、先祖発祥の地ともいわれていますね。ここがサンカで有名な八切さんがいってた八田かな。
 
wikiでも平姓津田氏は織田氏系と書かれている。ただ、織田信長の長男信忠の子、岐阜城主織田秀信の隠れ子孫が、津田の姓名ではなく、津田系列の姓名の名で生存しています。
それはのち説明します。
 
確かなのは、越前から尾張にきたということですね。越前から一族全員が尾張に向かったのではないですね。いわゆる越前からの追放ではないですから。
 
尾張の織田氏は、伊勢守系と大和系にわかれています。室町幕府は、応仁の乱がありました。足利幕府の内乱です。そのことが、織田家分裂となり、お互いがあらそうようになり、かつ自然災害などが重なり、一族が共食い状況にはいったという織田家一族の身内の争いが続いたんでしょう。
 
信長は、小さいときから一族の争いを見ていたんですね。
 
また、尾張周辺の野山を駆け巡り、獲物をとるにも仕掛けが必要であること、信秀と道三との戦いや今川松平連合との戦いをみて、武器の必要性、そして武器の使い方、改良など自ら吸収していったんでしょうね。
もちろんそれを教えてくれる師匠などもいたことでしょう。
 
武田信玄が尾張へ攻め込もうとしたときも、自分の縄張りまで来たら信玄といえども対等な戦いができると踏んでいたかもしれませんし、今川にしても桶狭間位までは自分の地政学的テリトリとしてみていたのかもしれません。長篠の戦いもしかり。
 
道三との会談は、何事も話はしなかったし、何かを議題にして話が盛り上がったということはないように歴史本などは書かれてますが、違いますね。
 
というのは、その後の信長の戦争の仕方は、道三の援助を前提に動いています。用は城の留守を預かる事。信長は、籠城戦などせず、城から飛び出していきますよね。野兵戦ですね。信秀と同じやり方です。たぶん信長はその頃から兵農分離なるものをしていたんじゃないですかね。兵農分離すると検地などもしているはず。道三が裏切ったとしても信長が生きている限り城を奪うこともできるということです。帰蝶もそのことを十分理解しているということですね。
 
かなり深く話し合ったはずです。もちろんその陰には帰蝶がいます。
 
ここで弟信行が信長に暗殺されず、追放になったかもしれないということですが、その状況の中にいた三人。
 
 
林秀貞、佐久間信盛、安藤守就の三人。信長の追放された三人です。たぶんすでにこの時信長は、死んでいたか、もしくは織田政権から離れてどこかへ行っていたのかもしれません。林秀貞は、兄弟で信行を支援していて弟は殺され、秀貞は信長にしっかりとついてきてます。信行から見れば裏切り者。安藤守就は、信長が留守の城の守り役、佐久間信盛は、信行の信長に対しての策略を妨害し、稲生の戦いで活躍。信行にとっては、邪魔者ですね。
 
歴史本では、この追放劇は、明智光秀の策略ともいわれていますもんね。
 
臨死体験した木内鶴彦さんは、イタリアにいってカトリック教会にはいったともいってますし、神戸に住んでいてもうなくなっていますが宇宙人とたびたび会うといっていた坂本廣志さんは、すでに毛利のスパイに殺されて安土城に葬られているといってますしね。どちらかわかりませんが、突然の追放は、どうも信広がしたようにも見えますね。どうみてもこの追放劇は信長にしては違和感あります。
 
この件はもう少し後に再度考察しますが、はじめに推測を出しました。
 
次回は、信長の母について
前に『津島大橋記』『干城録』によれば、信秀正室・信長生母は小嶋信房息女とされており、wikiでは、土田御前の前の継室ではないかと記載しました。
 
この小嶋について、池田郡の小島郷を調べていろいろ出てきました。
 
そして池田家についても。信長の乳母養徳院、
彼女の母の戒名、命日などの記録が残っており、その中で江州池田六郎何某室と書かれていることも紹介しました。当初、江州とは、中国の江西州の事かなと考えてたんですが、近江も当時江州と呼ばれていたそうです。
 
濃尾平野というのは近江から続々と人が移動した土地でしたのでしょう。織田家の中は、土岐氏とも縁がある一族もいるようですし。道三に追い出された土岐城主も信秀を頼りにしましたしね。
 
信広、信行も義龍と組みました。信長の側近である池田家は、土岐氏とは合わないように見えますね。池田恒興は、大垣城の城主にはなりましたが、墓がある池田町は支配できませんでしたしね。
 
その辺の説明を考察し、織田一族の内紛を再度検証し、藤原氏が残した伊賀、甲賀の事を考察していく予定です。
 
ではごきげんさんで。