つきあいのいい街 京都

 

 中学の修学旅行以来、京都が好きだった。

そういう人はすごく多い。ぼくもその中の一人で、取り立てて自慢できることもないし、不思議な経験をしたこともない。ただ『その時』、『その年齢』だったということと『ボク』という人間を掛け合わせると、同じような話はいくらでもあるけれど、まったく同じ出会いやつきあいはない、ということだ。

 

 時間がいくらでもあった時には京都に行くためのお金もなかったし、それ以外にやりたいことややるべき(と思っていた)ことが色々あったから、それほど京都に行っていたわけじゃない。数だけでいえばまわりの人よりは多少多かったというくらいだけど、一人で行ったことがないとか一回行ったことがあるという人に比べれば、二回、三回と行った経験はその二倍三倍になるのだから、その違いはすごく大きいと思う。若いときだからなおさらだ。いろんな面白がってやれることがあって、集団の幟を立ててゾロゾロ予定をこなしていった修学旅行の記憶があるまだ鮮明な時に、何度か一人で行くということ自体、めずらしかったといえる。

 ささやかな冒険心や好奇心、体力、それに当時も京都の若者文化は際立っていたから、そういう情報の量をもち、そこから強烈な刺激をうけたことが、その選択と行動を起こしたのだと思う。

 それから50年近く経ったいまは時間にもお金にもささやかな余裕ができたので、行きやすくなったなった。もちろん時間の余裕はいままでだって十分すぎるほどあって、単にやりたいことの優先順位がいちばんじゃなかったからかもしれないし、いまは余裕があることをずっととおり越して、暇でしょうがないからだ、といってもあながち間違いではないような気がする。

 

 大学時代にはバイトで旅費を貯め、当時はまだ運行していた大垣止まりの夜行列車、しばらくしてからは夜行高速バスのドリーム号を利用した。宿は当時ブームになりかけていたユースホテル。専用のシーツを通販で買い、京都からは少し離れた亀山というところにあったところまで行って泊まったり、新京極にあった映画館のオールナイトで朝まで眠るという、いかにも当時の学生らしい旅だった。京都に行くのはデパートのお歳暮のバイトで稼いだ金で行くのが多かったから、寒さと知らない街ですぐ日が暮れる暗さは、嫌で心細さを倍増した。ぼくの格好は長髪にアメ横の中田商店で買ったUSアーミージャケット。その下に柄シャツにセーター。ベルボトムのジーンズ。そして着替えと雑誌やメモを放り込んだダッフルバッグで、それならどこにいっても、変な自信を持つことができた。ちょっとはやりの先の方にいて、まじめそうでもひ弱そうでもない、理屈っぽさがあるような学生っていう感じ。そして同じような格好の奴なら、同類、仲間という連帯感が感じられたからだ。

 事前にオールナイトか深夜までやっているロック喫茶やジャズ喫茶のメモを作り、行き当たりばったりにそこをその日の宿に決めていた。当時はもちろんネットがないからどんな店か、長居の客にどんな扱いをするかわからないからおっかなびっくりで、気まずくなったら店を変えればいいと思っていたが、それではお金もかかるし、深夜に店を変えるとなると交通機関がない。目当ての店にたどり着けるか不安だし、その店だって居心地がいいという保証もない。そんな不安がいろいろ湧き上がってきて眠いのに眠りつけず、とにかく緊張がほぐれなかった。初めてニューヨークに行った日の夜、空港からホテルまで行く地下鉄で居眠りを始めて、連れに怒られ呆れられたいまとは、えらい違いだ。

 いま、そうした夜を過ごしたロック喫茶の名前が思い出せないが、うっすらと、しもたや風の店だった記憶がある。ぼくと同じような格好の客が何人かいて、ちょっと安心したのを思い出す。多分、僕がメモを真剣に見ていたのに気が付いたのだろう、隣に座った同じくらいの年齢の男が、『どこか泊まれそうないいところ、ありますか』ってふいに尋ねてきた。同じような旅をしているのだとわかって、ちょっと自慢気に前日利用した映画館と、リストにはあるけれどもまだ行ったことのないジャズ喫茶を教えてあげたら、嬉しそうにお礼をいわれた。

 いま考えると、そうした若者が多数、京都に集まっていた時代だった。ちょうどそのころ京大西部講堂での大討論会?が話題になっていたはずだ。

 

倉橋由美子の『暗い旅』がバイブル

 

 京都に行ってみたい、と思ったのは、倉橋由美子の小説「暗い旅」を読み、その世界に惹きつけられたのが直接のきっかけといえる。鎌倉と京都を舞台にした恋愛?失恋小説だ。記憶は薄れたが、とにかくその物語は魅力的だったし共感もできた。といってもそこで描かれたような恋愛の経験はなかったはずだから、憧憬といったほうがふさわしいだろう。

 そこに登場したディティールそのものは身近とはいえなかったけど、自分の手に触れたり行ったことがあるものが含まれていた。鎌倉は材木座海岸が舞台で、海水浴に行ったことがあるし、主人公の女性が吸っていたたばこはKENTで、タバコを吸い始めたばかりのときに、ひととおり吸った洋モクのなかでは最もポピュラーな銘柄だった。

 しかし、主人公の京都への行き来は特急つばめだし、宿泊は京都ホテルだから、ふつうの金のない学生にはとても手が届くものじゃない。主人公はかなり恵まれた家庭育ちということはわかりつつも、そのギャップを背伸びして埋めようとした、というのが若さの青いところだろう。そうした憧れは真面目に働いていけば、いつか手がとどく。そうした可能性がある健全な時代だった。

それから数十年経って仕事で知り合った広告代理店の営業マンも「暗い旅」派で、京都へ行ったことがあるという話を聞き、一体感をもった。これが同時代人と言うのだろう。同類という感じでそこから話が弾み、ようやく古本屋で探しあてた色褪せた文庫本を、なにかのお礼にプレゼントしたことがある。それ以降、いくら探してもその文庫本は見かけたことがない。それが少し惜しい。

 

転職を機に考え始めた『生き方』について、が、また京都に結び付いてきた

 

 ちょっとオーバーな話になるが、50歳になったときに早期退職が身近な問題になってきた。

日本の高齢化へのシフトが、新聞記事になり始めてきたのだ。新聞に載るようになったときは、実はかなり深刻な問題になっているということだ。記事になるということは社会的な事件になっているということだからだ。

 ぼくは企業グループ子会社の新規事業部門のマネジャーになっていた。そのときはすでに、自分の限界も会社の限界も感じていた。毎日は楽しく自由だった。ある程度の自由になる予算もあり、管理する上司もいるにはいたがほぼ放任だったから、やろうと思えばかなり思い切ったことができた最後のチャンスでもあった。でもうまくいくはずがないと自分でほぼ確信していたので、自分だけそこからはじき出されることも予想し、堅実な方向に進もうとしていた。

 

いま考えれば、新規事業を高いレベルに引き上げるくらいの発想力や企画、実行力が、自分にもっとあれば

生活も、メンバーの成長も、経営への提言も、もっといいものになったはずだ。

その反省をいまだに十分生かせていないのが、残念と言えば残念。

 

 中高年になって、それまでの広告制作からキャリアカウンセラーに仕事を変えましたが、その理由は、自分の適性、能力の限界を感じたこともありましたが、当時から高齢化社会の到来が話題になっていて、インタビューをよくこなしていた関係から経験が活かるうえ、人の歴史、経験、考え方に興味があったからといえるでしょう。

歴史、事件、思想、はそのまま個人の履歴、転機、価値観ですし、それは優劣ではなく納得できるか、楽しいかといった個人の判断でいろいろな物語になり価値を持ちます。

歴史は勝者が自分の都合の良いように、あるいは信じるままに創り上げてきたものと言われますが、人生も同じような気がします。ただ人生の判定者は自分ですから、いいも悪いも、楽しいも苦しいも悔しいも、自分で切り口を考えて解釈することができます。

その行為こそ、人生を楽しむ行為にほかならない。そう考えています。

 

大好きな京都は、それこそ1300年以上にわたる歴史を持つ都であり、いろいろな姿、いろ、物語を持っていますから、何度来てもどんなに歩いても終わりがありません。

だから、思いつくままに、ゆっくり散策したり速足で追いかけたりして、見たこと感じたことや、そこから考えたことを書いていきたいと思います。

 

京都ならそれら全てを受け止めてくれるはずです。