No.0022


青森の歴史を愛するあなたへ

こんにちは〜😄✨
青森郷土歴史愛好家こーちんです!!

前回は「石塔山 大山祇神社」について書きましたが、今回は五所川原市市浦にある「十三湊」についてです✨

 

 

っとその前に、前回「石塔山 大山祇神社」のブログを書いてすぐに、安倍首相が退任を発表されましたね!ビックリポン!!

私は政治や色々な事はよくわかりませんが、ご先祖さまをもっと大切にされたら良かったのにとの気持ちがあります😥

 

あっ、一個人的見解です!!

 

 

 

っと、言うことで「石塔山」を出発した一行が次に向かったのが市浦の十三湊✨

 

 

しかしその前に「腹が減っては戦はできぬ」という事で、市浦の道の駅で「カツ丼定食」✨唯一「しじみ汁」だけがご当地感を出してくれております😅

 

 

 

そして一路北へ向かった一行が不思議に感じ止まった鳥居⛩がこちら!!

 

 

鳥居の上に何か付いてます!!

 

こんなの初めて見ました🤩

 

 


そして隣にはこのような看板が!!

 

 

「安東史跡をめぐるみち」

 

気になって行ってみましたが、車では行けないようでした😅残念!!

 

 

 

っという事で、気を取り直し十三湖へ✨
 
中の島では「市浦歴史民族資料館」で十三湊の歴史と、安倍・安東家の繁栄と衰退の歴史に安東水軍の貿易範囲の広さにビックリ!!
 
ヨーロッパの大航海時代よりずっと昔からアイヌ民族との交流を通じて、大陸と独自に貿易をしていた「ヒバ加工」と「船大工の技術」は本物ですね✨
 
腐りにくい木材の一大産地、そして津軽半島貿易を支えた「青森ヒバ」🌳✨
 
十三湊が衰退した後も、昭和の時代まで貿易の中心で活躍してくれた「青森ヒバ」そして「津軽森林鉄道」もその流れを汲んでいますね🚃✨
 
 
江戸時代に伊達藩が建造し、ヨーロッパまで行ってきた「サン・ファン・バウティスタ号」にも、同じ蝦夷として材料や技術が使われているのでは?
 
と、個人的には信じたいですが、本当の所はわかりません(笑)
 

今回は「石塔山」から「十三湊」を地元の歴史大好きな仲間たちと巡れた事、そして多くのご先祖さまを知れた事✨
 
津軽半島のご先祖さまたちが、長い年月守り抜いてきた自然の数々。
 
この素晴らしい津軽の歴史や自然を、これからの未来の子どもたちへ伝えていきたいと、覚悟を決めたこーちんでした👊✨
 
 
いつもご先祖さま、ありがとう!
今日も皆さん、ありがとう!!
 
 
 
 
福島城跡看板より
 
福島城跡は十三湖北岸に面する標高20〜30mの丘陵西端にこの城跡は內郭と外郭の二重構造をなす。內郭は1200m四方の方形で、土塁と堀を巡ら りしている。一方、
一辺が約一皿で、土塁や堀、一部自然の沢を利用した三角形害を為す約62万mの広大な面積となってこれまで福島城跡は近世編纂物の『十三往来』や『十三湊新城記』にみえる」「新城」ではないかとする見解があった。『十三湊新城記』に登場する「新城」については、鎌倉時代末の正和年中(1312~17)に安倍(安藤)貞季 (さだすえ )が築いた城郭と記されていることから、従来この地域に勢力を誇来この地域に勢力を誇った安藤氏の居城として理解されてきた。
また、福島城の名称は『十三往来』に記載された「福島之城郭」初見となっているが、名称の由来は明らかではない。江戶時代期の寛政八年(1796)、この付近を訪 た菅江真澄は『外浜奇勝』の中で、「南のかたに大野とてひろ野あそこにすみっといふふる柵のあとあり。」と ており、江戶時代にはすでに城主や名でに城主や名称についての伝承は絶え、城跡の存在が知れてるに過ぎなかった。古くは昭和三〇年に東京大学東洋文化研究所、平成4〜5年に立歴史民俗博物館、近年では平成一七~二一年に青森県教育委員会が掘調査をした。
青木教育委員会では土塁や堀跡・区画施設・門跡とい 福島城跡に直接盟直接関わる城郭遺構について重点的な調査を行った。「外郭東門」や「內郭」といった主要な城郭遺構など安藤氏時代(14世紀後半~15世紀前半)に造られ たこと確実とな た。特に注目されたのは「內郭」の南東部分か板塀で区画された武家屋敷跡が発見されたことである。東西70m× 南北55mの板塀で区画された中に「主殿」とみられる大型の掘立柱建物跡や付属建物跡、池跡等も発見されている。