No.0017

青森の歴史を愛するあなたへ


こんにちは〜😄✨
青森郷土歴史愛好家こーちんです!!


前回は青森市西部を流れる「万太郎堰」と「一本松の決闘」について書きましたが、


今回は堤川を作った「堤弾正」と「横内城」についてです!!

 

 


平安時代、鎌倉時代に十三湊を中心に国際貿易で栄えた東日流安藤氏。

 
しかし、鎌倉幕府滅亡や南北朝時代に大和朝廷にも大きな影響を与えた安藤氏の乱(津軽大乱)で安藤一族は勢力を弱める事となりました。
 
その後、外の浜安藤氏も油川城や蓬田城など攻め落とされ、現在の青森市一帯も南部氏の支配下となるのですが、北方貿易や北前船で財力のある油川商人を中心に外ヶ浜の力は衰えておりませんでした。
 
そんな時、南部一族の田子端正光康は、堤浦ノ古舘(現松原付近)に派遣されます。
 
この時まだまだ財力が強い外ヶ浜と、南部の実質的な境界線だったこの地で光康がまず行わなければならない事は「防衛」です。
 
そこで「荒川」と「駒込川」の流れを利用し、防衛としてのお堀の役目をさせました。
 
これが「堤川」です!!
 
また同時に行ったのが稲作の普及で、荒川地区など青森平野を穀倉地帯へ変貌させる大規模な治水工事を行っております!!ビックリです💦
 
これはもしかして、この地が縄文文化から弥生文化に変わった瞬間だったのかな???
 

その後、この地に根付いた光康は横内に城を作り移り住み、光康が初代「堤弾正」と改名し、堤家は四代にわたり約90年ほどこの地を治めます。
 
色々な資料を読んでみましたが、この頃の堤氏など南部氏の支配は共存共栄型で、外ヶ浜勢力とも商業と稲作や漁業など、分業でとても良い関係だった雰囲気が感じられます!!
 
その後、同じ南部一族で親戚だった大浦為信(後の津軽為信)の外ヶ浜侵略で4代目堤弾正が討たれ横内城も廃城となります。
 
津軽為信支配となった後は、息子弾正の死を悼み、母は仏門に入り奥方朝日御前(常福尼)となり横内城跡はお寺になりました。
 
 
 
寺院内には、とてもキレイな龍神庭もあり気持ちがイイです🐉✨
 
 

なんと、この前買った本の作者「菅江真澄」さんの石碑もありました!!
ここも立ち寄ってたのね!!
 
 

歴史が無いと思っていた青森市ですが、東日流安藤家と南部家との関係や、その後の津軽為信による津軽藩で重要な港湾都市建設などで今の青森市の基礎が作られました。
 
そして今回も地元青森市の歴史や、この地を開拓したご先祖さまに感謝を伝える事ができました✨
 
 
知ることは愛のはじまり🌈✨
 
 
ご先祖さま、今日もありがとう!!
みなさま、いつもありがとう!!
 

【横内城跡】

戦国時代、この地方で勢力を振るったのは、南部氏である。外ヶ浜鎮定のため第二十代南部信時は、四男田子端正光康を堤浦ノ古館(現松原付近)に派遣した。

その後、明応七年(一四九八)光康は横内に移って城を築いた。この光康が初代堤弾正である。

城は、東に横内川、西に合子沢川を控えた比高八メートルの平城であったが、全体が円形をしていたことから、別名「鏡城」ともいわれた。

また、光康は、堤川を開削し荒川の治水につとめ、青森平野の湿潤の地を豊穣の沃野にし、青森市発展の基礎をつくった。

天正13年3月、四代弾正の時、津軽為信の外ヶ浜攻略をうけ、城を出て迎え撃とうとしたが、高陣場付近で討死したという。その後、城は廃城になった。

常福院境内にある一対の石塔は、堤家三代城主弾正則景と妻の朝日御前の墓である。