No.0014


青森の歴史を愛するあなたへ

こんにちは〜😄✨
青森郷土歴史愛好家こーちんです!!

 

前回は「廣田神社」と「青森市」

について書きましたが、

 

今回は「善知鳥神社」と「安潟」

です!!

 

 

 

前回、廣田神社について書いてみて

自分が育った「青森市」の歴史を
知らない事に気づきました😅
 
っと言うわけで、学生時代に初詣へ
行っていた善知鳥神社について
調べてました✨
 

昔、この地は善知鳥村だったと
小さい頃から聞いていましたが、
地名として善知鳥が残っている
場所はないです。
 
実は自分の中で、
ずぅーと不思議でした?!
 
そんなこんなで調べていくと
なんとなく事実が見えてきました!!
 
善知鳥あくまで神社の名前で、
神社の周辺は大きな湖?沼?
があったとの事!
 
それが「安潟」だったのです!!
 

安潟の広さは周囲5~6里
(20~24Km)で
浪舘・金浜・浜舘等の集落に
達する湖沼であったとの
記述もあります💦
 
かなりデカいですよね!!
 
っと言う事は、
我が家は間違いなく
湖の底です(笑)
 

沖館村と善知鳥村の間には
大きな沼湖があったから
 
善知鳥神社が
「奥州街道の終着地」
 
なんですね!!
 
では、ここから油川までは
どういう経路で通行していたかは
謎ですね???
 
船で渡ってたのかな?
 
まさか湖畔を20キロ
廻り道しないよね!?
 
やっぱり橋があったのかな???
 

 

 

 


平安時代や鎌倉時代は

 

外ヶ浜の油川(大浜)が

商業の中心地だったはずなのに、

 

当時ただの漁村だった

善知鳥村が奥州街道の終着地

だった謎のヒントが

「安潟」だったのですね!!

 

 

 

その後、時代が進み

 

鎌倉時代後期「外の浜安藤氏」と

「西浜安藤氏」の内乱である

「安藤氏の津軽大乱」の後、

 

この地は南部氏の統治時代に

「横内城主」の「堤氏」が

城の防御のため「堤川」を作り、

それにより安潟へ流れる水が

少なくなり沼湖は小さくなった

という記述もありますが、

本当の所は不明のようです😅

 

 


どちらにしても、南部藩の堤弾正氏が
横内城へ移転するまで過ごした
この地に、今も川や土地に名前が
残っていると言うことは
すごいですね✨

 

まだまだ知らない地元の歴史✨

 

 

これからもご先祖さまに

想いを馳せるたびをしていきます😊✨

 

 

ご先祖さま、いつもありがとう!

皆さん、今日もありがとう!!

 

 

 

 

御由緒

善知鳥神社の創設は、現在の青森市が、善知鳥村と呼ばれていた第十九代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御代、善知鳥中納言安方が此の北国を平定し、奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として日本の総主祭神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御子の三女神を祭った事に由来する。 その後、坂上田村麻呂の東北遠征の大同二年(807)に再建。

御祭神

「宗像三女神」

多紀理毘売命 たぎりびめのみこと
市寸島比売命 いつきしまひめのみこと
多岐都比売命 たぎつひめのみこと

天照大御神と速須佐之男命との誓約(うけい)によって生まれた神々。天照大御神は三女神に、「汝三女神は宜しく道中に降居して、天孫を助け奉り、天孫に祭かれよ」(道中に降り、天孫をお助けし、天孫の祭祀を受けなさい)との神勅を示した。別名「道主貴」(みちぬしのむち)とも呼ばれ、道中安全・導きの神として登場される。(日本書紀) 家々の将来、社運の隆晶、一人一人の人生の「道主神」導きの神として篤く信仰される。

社格

・奥州陸奥国外ケ浜総鎮守

・青森総鎮守

・旧県社(明治6年9月に列せらる。)

御神徳

家内安全、交通安全、漁業守護、 商売繁盛、国家鎮護、方位除け 等

善知鳥沼について

昔は安潟といわれた。これに荒川・入内川が流れ込み、周囲5~6里(20~24Km)あり、浪舘・金浜・浜舘等の部落に達する湖沼であった。また、この潟に入る舟はいかなる暴風雨でも絶対に安全であった為、漁師に慕われた。しかし、横内城主堤氏が外敵を防ぐために荒川の流れを変え、堤川に流した事により次第に安潟は干上がり、干拓された。