読んだ本紹介。
今正秀・著
菅原道真と言えば、歴史に興味のない人でも学問の神様としてよく知っている存在だと思います。
また、ちょっと知っている人なら、怨霊としての一面も聞いたことがあるでしょう。
菅原道真が怨霊として日本史に与えた影響は計り知れないのですが、生前どんな政治家であったかは、意外に知られていません。
かくいう僕もそうだったので、大変勉強になりました。
一般的理解ですと、藤原氏によるいわゆる摂関政治最初期に、その藤原氏に対抗すべく時の宇多天皇に引き上げられ、しかし結局は藤原氏の陰謀により、無実の罪で太宰府に流され無念の死を迎えたということになっています。
しかし、どうもそんな単純な話では無いようですし、そもそも藤原氏との関係は悪くないのです。
道真はもともと儒学の家に産まれます。
学者として菅原氏は著名な家でしたが、身分は高くありませんでした。
当時の朝廷では文章を起草することや、歌道、詩道をもって天皇に仕えることも重要な役職でした。
官位は高くなくとも、道真はそれを誇りに思っていたようです。
宇多天皇はそんな道真を高く買っており、実務の世界に道真を登用します。
当時初めて摂政になった藤原基経にも気に入られており、その子時平とも関係は良かったようです。
当時の朝廷で進められていた国政改革、つまり国司の権限を強化し、富豪の輩といわれる在地農業経営者の強大化によってうまくいっていなかった徴税業務を立て直すという政策に、自身の国司経験から大変貢献しています。
藤原基経の死後、その後継者である藤原時平と共に、政務を取り仕切るまで出世した道真。
前述したようにこの時点でも藤原氏との確執を窺わせる記録は残っていません。
若い時平を助けて朝廷を切り盛りしており、時平も道真を頼りにしていた節さえあります。
ところがある日突然、本当に突然に大宰府への左遷が決定されます。
時の天皇は宇多の子、醍醐でした。
宇多は上皇になっていましたが、道真左遷の報を聞き、あわてて醍醐の元を訪れますが、どうにもなりませんでした。
あまりにも突然の決定だったため、藤原氏との権力争いに負けた結果とか、道真が醍醐天皇の廃立を企てたとかいろいろな説が生まれていますが、真相は未だわかりません。
道真は詩人としても一流で、数多くの漢詩を残しています。
日常的な出来事やそれに対する自身の感想などを見事な詩として残したおかげで、実はそこから当時の貴族の政治姿勢や日常生活が判明したなんてこともあります。
そして大宰府に流されたのちに残した詩も都に残してきた家族を想ったり、帰れない悲哀を歌ったりしていますが、自分を左遷することを決定した醍醐天皇への恨みなどは残していません。
のちに怨霊にされてしまうような片鱗は残さないまま亡くなります。
道真は儒学や詩をもって天皇に仕えることを生涯の望み、そして誇りとしていました。
藤原氏と関係も決して悪くなく、今までいわれているような藤原氏に陥れられたというのも説得力がありません。
なぜ道真が大宰府に流されてしまったのか?
これはこれからの研究の成果を待つしかありません。
しかし大宰府に流されたことで道真自身は失意の死を遂げますが、そこで学問の神様として生まれ変わり、多くの受験生に勇気を与えてきたことは歴史が生み出した不思議な展開ですが、学問に生きた道真にとってはせめてもの救いだったのかもしれません。