関ケ原を巡る④ ~大谷吉継関係~ | 日本史四方山話

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三成の盟友、大谷吉継。


ハンセン病を患い、関ヶ原の戦い時にはすでに失明し、自力歩行も出来ない状態でした。


にも関わらず、寝返った小早川隊一万五千を平塚為広・戸田勝成らと共にわずか千にも満たない兵で二度三度押し返します。


すごい。




その大谷吉継陣地跡。


小高い山の中にあります。


ちなみに「大谷吉隆」となっていますが、関ケ原の戦いの前に改名していたという説もあります。




そして吉継陣地から見える松尾山。


小早川が寝返ると予測してた彼は監視するために、目の前のここに布陣していました。




吉継と共に奮戦した平塚為広陣地跡。


大正から昭和にかけて活躍した、女性解放運動家の平塚らいてうは彼の子孫で、この碑も彼女らが建立したもの。


吉継陣地の真下にあります。




善戦した吉継でしたが、最後は衆寡敵せず部隊は壊滅し、首を敵に渡すなと側近の湯浅五助に命じて自害。


この後五助も、吉継の首を埋めた直後に顔見知りだった東軍の藤堂高刑(藤堂高虎の甥)に討たれますが、高刑は五助から、吉継の首を埋めた場所を秘密にして欲しいと頼まれます。


主君を思う五助の忠義心に打たれた高刑はこれを約束。


家康に吉継の首の所在を聞かれた際、たとえ首を斬られても絶対に言えないと頑として答えなかったといいいます。


家康は高刑を褒め称え、褒美を与えたそうです。


関ヶ原いい話。




その吉継の墓。





湯浅五助の墓。


五助は今も主君・吉継の横に眠っています。


つづく


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