仕事で新入社員の育成を担当していると、いかに日本の教育は画一的で、いわゆる「課題解決型」の詰め込み学習であったかを感じます。
特にインターネット社会の今日、人は困ったことがあればすぐ「解答」を求め、
答えの出ない事象に当たった時、成すすべがなく混乱に陥っています。
就活生もその一例です。
人事の仕事をしていると、「あなたの持ち味はなんでしょう、会社でそれをどう活かしていけると思いますか」と面接で尋ねます。
数百程度の学生を面接してきましたが、自分の得意とする領域、持ち味を自覚、理解している学生さんはほとんどいません。
全体の1~2割程度でしょうか。
こうした、「答えの出ない事象」に向き合った時、じっと耐えて自分の中で内省する力が、現代人には不足していると感じます。
ところが日本の教育は、与えられた課題を早急に解決する能力ばかり身に着けさせようとします。
無論こういった課題解決能力も必要であることは言うまでもありませんが、
本来教育・教養というものは解決できない問題に対して、じっくりと熟慮するプロセスのことではないでしょうか。
そうであれば、学校教育が本質と逸脱しているのではないか、と疑問を持たざるを得ません。
到達水準を定めることや、点数化することは教育者側のご都合主義に起因しています。
初等教育より画一的に学年を設けることが社会における年功序列制度にも繋がっていますが、
教育・育成は個人によって学習速度が異なるのが当たり前のことです。
1度言えばわかる子もいれば、5回ではじめてものにする子もいます。
本来、そこに良し悪しはないはずですし、個々のスピードに合わせた教育をすることが当人にとってはベストであることも明白です。
しかしそれでは教育者側が運用に困るがために、画一的な教育方法を実施しているのが現状です。
最近の台風の影響で交通が麻痺しているのにも関わらず、駅に人がごった返し数時間長蛇の列を成している映像が報道されると、
思考停止に陥っている日本を世界的に晒しているようで悲しくなります。
私が不登校になったとき、母親は「学校に行ったほうが良い」と私に告げました。
きっとほとんどの親が、画一的な教育を経験し、そこから落ちこぼれないように必死に立ち回りを考えて生きてきたのだと思います。
だからこそ自分の子どもがそのレールを外れようとしている時、恐怖や心配で震え上がることも無理ありません。
私は、きっと「学校に行きたくない」と思ったあの頃から、学校という画一的な場で蔓延るいじめや差別といった環境自体に、
違和感や恐怖感を覚えたのだと思います。
私にとって当時学校は「恐怖の場」でしかなく、そこに行けというのは終わりの見えない戦場に放り投げだされるようなものでした。
不登校というのは、戦場に耐えられなくなった子たちの避難所です。
そこまでも追い出してしまえば、子どもの心を壊してしまう可能性は高くなります。
せっかく逃げだしてきた勇気を認め、本人の整理がつくまで避難所にいさせてあげてください。
本人の中で自分なりの「答え」を導き出したとき、
その時に答えの出ない事象に向き合う力がついたと言えます。
不登校という避難所にいる時でさえ、本人は必死に考え、この事態をどう対処しようか熟慮しています。
何かしらの回答を導き出したときにサポートしてくれる存在が親であってほしいと、私は思います。