池袋であった交通事故に関しては、非常に記憶に新しいと思う。

車を運転していた飯塚幸三さんは容疑者であるにも関わらず

容疑者とは呼ばれず、参考人呼ばわりされていたようだ。

 

飯塚幸三さんの経歴は旧通産省工業技術院出身である。

私の父も旧通産省工業技術院出身だったので、今回の飯塚さんへの対応は

正直に言ってしまえば、当然の対応だったと思う。ただし、人が亡くなっている

という現実があるので、気をつけて文章を綴っていこうと思う。

 

何故ならば、父が現役で働いていた昭和の時代から、常識的にあったことである。

私が見知っていることは、毎年のお正月には病院関係者から年賀状が届くという

異例な出来事があった。

病院関係では、こちらの好きなように診断書を書いて下さるという特権があり、

ない病気も作り出して診断書を書いてもらえた。

 

お酒に酔って器物損壊をしても、警察官は逮捕するどころか、「お気をつけて

お帰り下さい」と見送られる。

 

勤め先で、父がお酒を飲んでガラスを割ろうが逮捕も注意もされることはない。

「あ~また酔っぱらっているんだな~」程度だ。

 

しかし、父は旧通産省工業技術院の地質調査所勤務なので、論文を月に何本か

提出しなければならないノルマがあったので、それは守ってはいたが。

「天下り大賛成!  !   !」という時代であったので、仕事には困らない。

 

水戸黄門が持っている印籠のようで、皆がひれ伏してしまうという時代であった。

知り合いの就職の斡旋や学校関係の裏口に入学で間に入ったり、やりたい

放題であったのは確かである。

 

父は常日頃「俺は通産省だ!」といって、相手を脅す道具に使っているかのようで

私はそんな父親が物凄く嫌いだった。

また、そんな父は世間体を気にしていて、特に私には物凄く縛りがきつかった。

 

今なら笑ってしまうような話だが、喫茶店には絶対行かないこと。つまり、喫茶店は

父にとって不良のたまり場だと認識していたようだった。

世間に恥をさらすなよ!  父の出世の妨げになるからよく言われた言葉だった。

 

当時は、当然だったと思うが、「良い大学に入学して、問題なく卒業し、良い職場に

就職する」そんな時代でもあったから、私は小学校2年生から家庭教師がいた。

 

私は、勉強よりも漫画を読んだり書いたりするのが好きだったので

 

家庭教師がついても、一向に成績は上がらず。父はそんな私を「俺の子供じゃない!」と

毎日、お酒を飲んで酔って帰宅して私を罵っていたのだ。

 

もっと以前の私が、記憶として残すことができる年代のさらに前の3歳児だった頃から

父は私を俺の子供じゃない! と毎晩叫んでいたのを忘れたわけではない。

私には母の違う兄がいたらしいが、一緒には住んではいなかった。

その兄に父は将来を期待していたことも聞くまいと思いながらも、知っていたのだ。

 

こんな幕開けの記事になってしまったが、これからも書き進めていきたいと思う。

 

 

読んで下さってありがとうございます。