元スカウトが語る秘話 宮本慎也を支えたナニクソ魂 | のざっちの独り言

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~G党球児の独り言~

「ショートをドラフトで獲らないで」

冗談混じりだったのか。あるいは,思わず本音が口を突いたのか。

アトムズ時代から,実に33年間に渡ってヤクルトのスカウトや編成部長として活躍。


若松勉や古田敦也をはじめとする名選手たちを独自の眼力で発掘してきた片岡宏雄さんは,自らが見出した1人,宮本慎也から投げかけられた「ある言葉」をいまでもはっきりと覚えている。

残念ながら詳しい日時も,どこの球場だったかも,すでに曖昧になりつつある。


おそらくは2000年の途中。それでも,宮本とのやり取りは鮮明に記憶の中に刻まれている。

 「片岡さん,ショートの選手ばかり取らないでくださいよ,と言ってきたんだよね」

1994年のドラフト2位で宮本をプリンスホテルから獲得して以降も,ヤクルトスワローズはドラフト会議で高卒選手を中心に遊撃手を積極的に指名・入団させていた。

*1995年 1位 三木 肇(上宮高)

*1997年 3位 大脇浩二(北照高)
*      4位 大山貴広(大洲高)

*1998年 4位 本郷宏樹(龍谷大)

*1999年 1位 野口祥順(藤代高)


特に1位指名の2人,三木と野口は長打力を兼ね備え,新聞紙上には『ポスト池山』の文字が何度も躍った。


一級品と評価された守備で1996年の後半からショートのレギュラーポジションをつかみ取った宮本の心中は,決して穏やかではなかったはずだ。



コンプレックスだった打撃力

守るだけという意味で,入団当時の野村克也監督からは「自衛隊」とも揶揄されていた。

非力というレッテルをはられ,8番が定位置だった打撃を,宮本はコンプレックスに感じていたのだろうか。

編成の責任者だった片岡さんは,懐かしそうに当時を振り返る。

「ショートばかりって,そいつらに負けないようにすればお前だって長続きするんだぞ,と宮本には言いました。負けているようじゃダメだ,とね。宮本本人は『分かりました。頑張ります』と返していましたね。ショートを守れる選手は,だいたいセカンドもサードもできる。だから,いい選手がいればもちろん取りにいく。冷たいようだけど,内野の強化は常に怠らない,というチームの方針があったからね」

そうしたやり取りがあった2000年に,宮本は初めて打率3割をマーク。

翌2001年には2番に定着し,シーズン67犠打の日本新記録を樹立。

現時点では最後となるセ・リーグ制覇と,近鉄バファローズを倒しての日本一獲得の原動力になった。




「野球を楽しむなんてできない」

8月26日に東京・港区の九段事務所で行われた引退会見で,宮本はこんな言葉を残している。

「最近は『楽しみたい』とよく言うけれど,僕は野球を楽しむなんてできない」
その真意が痛いほどによく分かる,と片岡さんは笑う。

「楽しんでいたら,あそこまでの選手にはなっていない。宮本の胸の奥深くにナニクソ,負けてたまるかという強い信念があったんです。そういうものがあったから、あの年齢までできたんです。打撃にしても非力なだけで,学生や社会人のころからミートそのものは上手かった。タイミングが外れたら無様に空振りするとか,そういうシーンはなかったし、相手投手の配球を読む力にも長けていた。センスがあったわけだから、練習を積んで,プロのスピードやパワーに慣れてきて,スイングがスムーズになってくれば,セカンドの頭くらいは越せる打球を打てるようになると思っていましたから」

高校通算で数十本の本塁打記録を引っさげた大型遊撃手が入団し,ライバルとなるたびにポジションを失ってなるものかと危機感を募らせ,血のにじむような努力を自らに課してきたのだろう。


宮本は高校時代から職人の域だった


片岡さんは,宮本が甲子園春夏連覇を達成した1987年のPL学園高の2年生の時から,すでに職人の域に達しつつあった守備に注目していた。


「超ファインプレーなんてすると一般には上手いと思われるんでしょうけど,我々にとっては偶然という感じにしか受け取れない。宮本の場合は,普通の選手だったら超ファインプレーしなきゃ捕れない打球を,いとも簡単にさばいてしまう。派手さがないというか,派手になりがちなプレーを普通に見せていたんですね」

実際、宮本は守備において譲れない哲学を持っていた。

「ヒット性の打球を飛びついてアウトにすれば投手は喜ぶでしょうけど,一方で『打たれた』という思いも残る。それを正面で捕って事も無げにアウトにすれば,投手が精神的に動揺することもない」

PL学園高から同志社大,そしてプリンスホテルとチェックしてきた過程で,片岡さんは宮本が失策を犯した場面に一度も遭遇することがなかったという。




宮本をドラフト指名したもう1つの理由


迎えた1994年。ドラフト戦略を練る過程で,当時の野村克也監督は片岡さんにこんな要望を出した。


「池山もボチボチ守備範囲が衰えてきたし,サードに回したほうが長くプレーできるんじゃないか。守るだけでいいから,そういうショートはおらんかな」

当時のレギュラー,ブンブン丸の愛称で親しまれた池山隆寛(現東京ヤクルト一軍打撃コーチ)は入団11年目,29歳を迎えていた。片岡さんは満を持して宮本を推した。

高いレベルにあった守備に加えて、宮本を推した理由はもうひとつあった。

「高校生なら話は別だけど,大学から社会人に進んだ選手となれば,たとえば守備がいいから数年は持つといったような,そんな簡単な理由だけでは絶対に取りません。野球をやめてからの人生のほうが長いわけだから,もし現役を早く退いてもコイツなら飯を食えるかどうか,という点もものすごく重要になる。その点で宮本は真面目で根気強かったし,決して他人に左右されない自分というものも持っていた。高校でも大学でもキャプテンを務めていたし,指導者だとかそういう道もあると思ってね」



強烈なリーダーシップで五輪代表をけん引


まさに,そのキャプテンシーは宮本を一流のプロ選手へと押し上げるもうひとつの理由になった。


アテネと北京の両五輪で日本代表のキャプテンを務め,日本プロ野球選手会の会長を含めて,ときには嫌われ者になることとも厭わない強烈なリーダーシップを発揮した。


フィールドの内外で積み重ねてきた濃密な経験は,宮本の求心力と人望をさらに高め,引退を決意した今,将来のヤクルトの監督候補として,クローズアップされることになった。


ヤクルトの衣笠剛球団社長兼オーナー代行は将来の監督候補として,機が熟したあかつきには宮本に現場復帰を要請するプランを明かしている。



ラストゲーム チケットは完売


宮本は引退会見で,こう語っていた。


「『戻りたい』ではなく『戻ってきてくれ』と言われるくらい,しっかりと勉強していきたい」

今後は,NHK,日刊スポーツ紙の評論家としてネット裏から違う角度で野球を勉強する。

19年も前に,潜在的な指導者としての能力を見抜いていた敏腕スカウトは,こう言う。


「今のヤクルトには,そういう(監督を任せられる)人材もおらんからね。まあ,甲子園で優勝を争うような高校だと,技術的にはともかく,心の部分ではプロ野球よりもはるかに厳しいものを学んでいますよ。中にはプロになっただけで満足してしまうヤツもいるけど,宮本はそういう精神を持ち続けたということ。三つ子の魂百まで,という感じだね(笑)」

10月4日,本拠地神宮球場で行われる阪神戦が,宮本のラストゲーム。


その引退試合は、「ショート」でスタメン出場する予定だ。


去りゆく勇姿にねぎらいの言葉を,やがて訪れる輝かしい未来に心からのエールを送るために。


指定席はおろか自由席までも含めたチケットは、すべて完売となっている。


~G党球児の独り言~


頑張れ!! 頑張れ!! 慎也!!