炎のストッパー津田恒実 | のざっちの独り言

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2012年に新たに野球殿堂入りした4氏を発表した。
 
プレーヤー表彰では80年代の広島黄金時代を支えた「炎のストッパー」故・津田恒実さん(享年32歳)と通算213勝の「精密機械」北別府学さん(54歳)を選出した。
 
特別表彰では元全日本アマチュア野球連盟会長の故・長船騏郎さん,バット素材の研究に従事した故・大本修氏(ともに享年83歳)が選ばれた。
 
プレーヤー表彰の表彰式は,津田さんの命日でもある7月20日のオールスター第1戦(京セラD)で行われる。
特別表彰の2氏については未定。
 
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記憶に残るストッパーだった津田恒実が,永遠に野球殿堂に名を刻むことになった。
 
殿堂入り資格の最終年だった今年の選出に,妻の晃代(てるよ)さんは
「お知らせを受けて驚いたが,一番驚いているのは津田本人と思う。北別府さんと一緒に選ばれて感慨深いと思う」
と,喜びをかみしめた。得票数は237票。
当選に必要な236票をわずか1票だけ上回った。
 
 
代名詞だった150キロ超の剛球のように,あっという間に駆け抜けた野球人生だった。
 
81年にドラフト1位で広島に入団し,1年目に11勝6敗で新人王を受賞。しかし,そこからは苦難との闘いだった。
 
83年にルーズショルダーによる右肩痛,84年は世界で初めて右手中指の血行障害の手術を受けた。
 
86年に救援に転向し,4勝22セーブでリーグ制覇に貢献。
しかし,右肩痛が再発。『サヨナラの津田』とも呼ばれた。
右肩痛を克服した89年にも12勝28セーブで最優秀救援投手に輝き,
『炎のストッパー』
と呼ばれた。
 
その後,91年に病に倒れた。悪性の脳腫瘍だった。
 
最後の登板となった91年4月14日の巨人戦(広島市民)を晃代さんは、自宅でテレビ観戦。
「体調が悪いのは分かっていたので…。そのときはつらかった」と話した。
 
チームは「ツネのために」と一致団結して病床の津田にリーグ優勝を贈ったが,闘病の末,93年7月20日に帰らぬ人となった。
 
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普段はひょうきんで明るく,誰からも愛される好青年。
マウンドでの激しい投球スタイルとは対照的だったという。
 
「主人は、自分なんかが、と恐縮していると思います」と晃代さん。
 
故郷の山口・周南市に眠る最愛の夫には「よかったね、と伝えたい」と、穏やかな笑みを見せた。
 
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僕が生まれたのが93年6月4日,津田さんが亡くなったのが93年7月20日。
 
一緒にこの世で生きていた月日は短かったのですが,津田さんの『もう一度投げたかった』という本やテレビを見たときに,『野球が出来ることに感謝しなくちゃいけないな』と強く思い,津田さんの座右の銘でもある,『弱気は最大の敵』という言葉は,非常に強く心に残っています。
 
僕も津田さんのような強気で闘志をむき出しにしたピッチャーになれるように日々練習していきたいです。
 
野球殿堂入り,本当におめでとうございます。
 
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