生まれて初めて「ツケ払い」をした。


言うまでもないけどツケってのは、飲食店などで精算の時に「手持ちの現金がないので今度来た時にまた払います」という支払い先送りのことである。
「お金はその場限り」と母親から言われて育った俺としては、そもそも手持ちの金がないのにその対価を得ようとするのは間違いだし、ツケ払いなんてちゃんちゃらおかしいと思っている。どう考えてもトラブルの元だろうし、お金のトラブルは簡単に人の信用を失う。できればカードでの支払いもあまりしたくないし、したとしても1回払いしかしない。
「その場」以外で金のやりとりが発生しないようこれまで生きてきた。はずだった。


上司と2人で飲みに出かけた。
財布には300円しか入っていなかったけど、どうせおごってもらえるだろう、という見通しをもって誘いを快諾した。
登山が趣味だが「観光地になり下がった富士山には登る気にならない」という上司と、富士吉田市のうどんのコシの強さを力説する俺のかみ合わない話が3時間ほど続き、お開きとなった。


レジで会計を済ませる上司。つかず離れずで次の一手を考える俺。
支払いを済ませた上司にかける、次の一言はとても重要だ。


「私も半分出します。払わせてください」
本当に払う意思がある時。


「なんぼか払いますよ?」
言葉の通り「なんぼか」なら払う意思がある時。


「いくら払いましょう?」
できればおごってほしい時。普段はこの言葉をよく使う。



しかし、この日は例外だった。なんせ財布には300円しか入っていない。
払う気がないのに「いくら払いましょうか?」なんて聞いて、万が一「じゃあ千円だけ出してもらおうかな」とか返ってきたら気まずすぎる。
そこから「スンマセン、300円しかないっす」というのはカッコ悪すぎる。


上司に反論の余地を残さず、確実におごってもらう一言が必要だった。
俺はいまだ使用したことのない奥の手を解禁することを選んだ。
おごってもらうことに1ミリの疑問を持たないアホの後輩を思い出して、言い放った。


「ごちそうさまっしたっ!」


財布は出す。しかし決して開かない。おごってもらう時の礼儀であり鉄則でもある。
その日は鉄則を破った。建前としての財布すら出さない。
いきなりお礼の言葉で締めくくるという上級戦術で切り抜け、上司とわかれた。



問題はここからだった。なぜかその足でスナックへ一人で行ってしまった。
財布に300円しか入っていないことはすっかり忘れて。
見事なまでの作戦成功に気持ちが浮ついたまま、日付が変わりそうなころに行きつけの店に入った。
10席ほどのカウンターは珍しくほとんどが埋まっていた。

腰を下ろすと隣のおっさんがやたらとの絡んできたが、滑舌が悪すぎて何を言っているのかまったくわからない。「出身どちらですか?」と聞くと、「くまもと」と答えてくれたのだけは聞きとれた。
熊本は行ったことがあったので、「バンペイユ」とかいうみかんの話を振ってみたけど通じなかった。


「746くん、ビールでいい?」
50歳くらいのママさんが尋ねる。
店のレギュラーメンバーではないけど、準レギュラーくらいには認識してもらってるようだ。


その日は電車で2時間くらいの移動があったので、ブルーハーツの「Train-Train」を歌った。
すでにお酒でデキあがっている周りのおじさんたち。「見えない自由がほしくてー」と歌えば、お願いしなくても「オーオー」とコーラスしてくれる。曲が終わると拍手をくれて、「ここはよく来るの?」とためらいもなく話しかけてくれる。
人付き合いがそれほど得意じゃないので、こういう場でのコミュニケーションは勉強になる。


相変わらず隣のおっさんが絡んできて、うんうんうなずくのも疲れてきたので、こうなったら全面戦争だとばかりに応戦することにした。


「私がさっき歌った曲はザブルーハーツってバンドの曲なんですよ。もう解散しちゃったんですけど私けっこう好きでね、中学生の時にカラオケで彼らの『Too much pain』を本気で歌ったら女子にドン引きされたりしてね。今思えば、ドン引きするお前らにむしろ俺がドン引きだわってかんじですけどね。まあ、彼らの曲に『チェインギャング』って曲があるんですよ。知ってます?まあ知らないですよね。その曲には『人を愛するってことをしっかりとつかまえるんだ』とかなんとか、そんな歌詞があるんですね。これってラングストン・ヒューズっていう詩人の『助言』って詩に出てくる言葉のほとんどそのままなんですよ。それで、ついでに言うとこの詩は金城一紀っていう作家の『GO』っていう小説に出てくるんですよ。主人公の高校生の友だちが途中で悲しい死に方をするんですけど、その後で主人公がその友だちから借りてた詩集に付箋が貼ってあるのに気づいて見てみると、そこにあったのがヒューズの『助言』だったんですね。なんかそんなことがあると、胸に刻まれちゃいますよね。愛することをつかまえる、かあ。どういう意味なんでしょうねえ」


いつの間にか、おっさんがうんうんうなずいていた。俺の勝ちだ。

「じゃあ、そろそろお会k…」


ハッとした。そしてようやく思い出す。

金ないんだった。



あれあれ~、と殺人現場で証拠を発見したコナンくん並のとぼけっぷりで財布をのぞく。
「あの、その、すんません。代金今度でいいですか」
ママさんは、いーよいーよと笑ってくれた。スナックではよくあることなんだろう。


ヒューズもマーシーも言っているように、生きていくっていうことはカッコ悪いことかもしれない。