ジョーカー の 感想です。 映画評論は初めてなので乱雑になってしまう部分があると思います。 評論をつけることで物事を意識的にみる習慣を作りたいです。

 

まずJOKERという映画の位置づけ自体は、予告からわかっている通り、アメコミで非常に高い評価を得ている 悪役 JOKER が精神病棟に入るまでのプロセスを描き出すものです。 

私はこのJOKERについてはダークナイトしか見ておらず、しかもその内容を明確に思い出せていない点が悔やまれるところです。 しかしながら、このメインストーリーにつながるサブセットというべきこの130分は、少なくともアメコミのダークヒーローとしての行動や歴史に明確に位置付けられなければなりません。この部分はアメコミのファンの方から吸収しようと考えています。

 

JOKERという物語はこの登場人物の素性をしらない方でも世界観にすぐに引き込まれたことでしょう。 それは何よりもまずストーリーの進み方が明快である点に存しますが、それは今回の主題に非常に連関の深いものです。そこを重点的に解析していきたいと思います。


1善と悪の対立とその不平等さ

善と悪というのは、主観性と相対性の問題であることは自明ですが、この対立は本作では悪役のJOKERを主体に置くことによって、天秤の釣り合い状態のようなバランス感覚で物語は進んでいきます。 この揺らぎを持った構図に対して、絶対的な強度を持っているのがこのJOKERの置かれている不平等な社会的な地位です。 障害を始めとしたさまざまな不運は鑑賞者がどのような視点でみようとも一般的な理解として受け入れられるものです。この不平等さの連続が共感を得やすい構成を作りだしています。


2 本質的悪か環境的悪か

この1で述べた、相対的な善悪の絶妙なバランス感覚をベースに、その揺らぎは鑑賞者の心情と共鳴していきます。この映画の面白さはその揺らぎが簡単に感じられる一方で、それが善と悪どちらの天秤に重きが置かれているのか簡単には分からないことです。

それがわからないまま、ただ社会の不平等さに回収されていく。だから鑑賞者は、あるシーンが今後の状況を一変させるであろうことはわかりつつ、それがどちらに転ぶのかがわからず、終始不安定な状態を経験させられてしまいます。

 例えば、プロレタリアによる暴行と銃所持による解雇、偶然的?殺人、そして最後、自らが望みつつも、一方で崇められてJOKERへと昇華していく場面。

これらは物語を大きく作用する因子であるにも関わらず、主人公に全面的な意思や決定を感じさせないように気を配られています。 この130分後登場するJOKERは自身が本質的に持つ悪の要素によって生まれたものなのか、それとも環境や集団意思によって祭り上げられた呪いの運命なのか。それはこのフィルムを通して鑑賞者個人の決定に委ねられています。

 

このように物語を構造化していくことで、よりその内容を伝える役者たちの演技に考察を加えられるようになると思っています。 この言語化の難しい、身振りといった問題を考えようと思ったのは、Joker演ずるホアキンフェニックスがこの構造的な不安定さを見事に体現していたからです。 特に背を映すシーンが多く印象的ですが、そこから読み取れる心情はいつも不安定で,混沌がうごめいているように感じました。

映画の1シーン:この運命は自分が決定しているのか、環境作用によるものなのか、わからない。