









マツダ・787
http://ja.wikipedia.org/wiki/マツダ・787
2011年ル・マン再走
優勝から20周年となる2011年にル・マン主催者側より招聘され、レース開始前のル・マンのコースで、787Bのデモ走行ができないか、という提案であった[7]。787B 1台のためだけのデモランであり、異例の待遇であったが、マツダでは招聘に応じるか、787Bに大金をつぎ込んでレストアする価値があるのか、など、なかなか決済が降りなかった[6]。やっとGOサインが出たのは東日本大震災の1週間前であり、ギリギリのタイミングであった[6]。この招きに応じるために、787Bはエンジンを新調[8]。車体もフルレストアされ、優勝当時の走行性能を取り戻した。使用の可否がわからず既製品のスチールローターに換装されたブレーキ[9]、そして「がんばろう日本 NEVER GIVE UP! MAZDA」というステッカーが追加された以外は当時とまったく同じ仕様であった。R26Bは202号車のスペアエンジン用を合わせて、2基が組み上げられた。保管されていたパーツを中心に組まれたが、一部パッキン類は新たに作成された[6]。保管されているパーツの中で、状態の良いものから順に使用してきたため、R26Bエンジンが整備されるのは今回が最後とも言われている[6]。マツダはモータースポーツから完全撤退して久しく、すでに社内に700馬力に対応するテストベンチもなく[6]、オーバーホールされたエンジンはテストされることなくそのまま車体に搭載され[6]。2011年5月17日、美祢自動車試験場にてエンジンラッピングを兼ねて公開テスト走行が行われた。ドライブしたのは寺田陽次郎・従野孝司・片山義美の3人[10]。
ルマンでは、2011年6月9日~11日にデモ走行が行われた。6月9日は、アメリカ人俳優でアメリカ・グランダムGTシリーズにRX-8で参戦するチームのオーナーであり、自らドライバーでもあるパトリック・デンプシーが、サルテサーキットを2周走行した。
6月10日は、レース前日の恒例行事の「ドライバーズパレード」に参加。787Bをデイビッド・ケネディー(アイルランド)がドライブし、ル・マン市内を駆け抜けた。ロードスターでのパレードなども行われた。
6月11日、レース開始前の12時30分頃、787Bは大勢の観客が見守る中デモ走行を行った。ドライバーは、優勝時のドライバーの1人であるジョニー・ハーバートが務めた。ジョニー・ハーバートはこの日のために絶食ダイエットを実施し、レーシングスーツを着るために体を絞った[6]。この走行ではマツダに許可を得て、エンジン回転制限なしの走行となった[6]。当初デモ走行は1周の予定であったが787Bはコースを2周することを許された。その後ジョニー・ハーバートは1991年に優勝したにも関わらず脱水症状によって立つことが出来なかった表彰台に笑顔で飛び乗った。その際1991年と同様に脱水症状で立てなくなるパフォーマンスを演じ、関係者らによって表彰台に運ばれるという一幕もあった[6]。ピエール・デュドネ(ベルギー)、寺田陽次郎などの元マツダチーム関係者も現場にかけつけ、再会を祝った。それらの様子は車載カメラなどとともに詳細に記録され、マツダによって YouTube などで公開された[11]。その後55号車はイギリスでのイベントに参加し、日本に帰った。
伝説の4ローター。
2ローター13Bの2倍で26B。
R26B(マツダ)とRB26(日産)と、ややこしいですよね(笑)
2011年春に実施いたしましたMazda 787Bのレストアに関する一連の作業のまとめムービーです。
2011年5月17日に山口の美祢試験場で行われた、Mazda787Bのテスト走行のもようです。6月のルマンでのデモ走行を控えての、テスト走行です。
Onboard lap with Johnny Herbert on Le Mans Circuit for the 20th anniversary of mazda 787b's victory at 24h of Le Mans.
1991年のル・マン24時間優勝
787Bは、前年の1990年に787で参戦した経験から、ストレートスピード重視からコーナリングスピード重視のマシンにするため、トレッドの拡幅(メカニカルグリップ向上)などの変更を加えた改良型であり、ルマンには2台の787B(55号車と18号車)と、前年型の787が1台(56号車)参加した。55号車はレナウン・チャージカラー、18号車と56号車はマツダワークスカラーだった。55号車は、フォルカー・バイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーにより運転された[1]。
レースは、新SWC規格マシン(排気量3.5L自然吸気エンジン搭載車(最低重量などでレギュレーション上の優遇措置が設けられた)が、初参加の走行ということで、次々とトラブルを起こしてリタイヤした。結局、メルセデスベンツ・C11勢(1号車、31号車、32号車)が序盤をリードしたが、55号車は夜になってメルセデス勢の後、1周遅れの4位につける。その後、メルセデスの31,32号車はトラブルから後退した[1]。
早朝、34号車、35号車のジャガー・XJR-12と2位争いをしていた55号車はジョニー・ハーバートに2スティント連続担当させる勝負に出て、これに成功[1]。単独2位に浮上、しばらくこの状態が続いた。
レース終了約3時間前の12時54分、2位55号車に3周差をつけて長らくトップを走っていた、1号車メルセデスベンツ・C11がトラブル(ウオーターポンプのプーリーが破損したことによるオーバーヒート[2])で緊急ピットインし後にリタイア。午後1時4分、55号車はトップに上がった。その後2位、3位、4位を占めるジャガー勢・XJR-12は燃費に苦しみ最後までペースが上がらず、レース終盤では1週あたり3分53秒~54秒のタイムを要し追い上げるどころか55号車に置いていかれる結果となった。最後のドライバーはベルトラン・ガショーの予定だったが、コース状況を良く知っているジョニー・ハーバートが引き続き運転、3シフト連続してドライブした[1]。その後トラブルなくレース終了まで走りきり、首位を守り抜いた(レース中に消費するロータリーエンジンの潤滑用のオイルは燃料の水増しではないかと他チームにクレームを付けられる場面もあったが、主催者によって退けられる)。結果、55号車が優勝、18号車が6位、56号車が8位に入った。55号車は、コースを362周走行し、距離にして4,923.2kmを走った。マシンがマツダピットに戻ってきたとき、ハーバートは長時間の運転による脱水症状で倒れ、表彰台にあがれなかった[3][4]。
1991年限りでグループCのレギュレーションが変更され、ロータリーエンジンの使用が認められなくなったことで、ロータリーエンジンが参加できる最後の年に初の総合優勝を果たした(1993年から再びロータリーエンジンは参加可能になった)。
日本を凄かったころに戻したい、今日この頃↓
現在と、成功した昔の違いはなんでしょうね。
'91 24 heures du Mans MAZDA 787B Winning Run ル・マン優勝
'91 ル・マン24H マツダ787B 優勝記念ビデオ We Won The Day MAZDA 787B
Mazda787B Restoration / Mazda 787B レストア作業
https://www.youtube.com/watch?v=LoZBynBoZt0
Testing the Restored Mazda 787B (Mine Proving Ground) / Mazda 787B テスト走行@美祢
https://www.youtube.com/watch?v=P18OmCEVeTA
Mazda 787B - Le Mans (wonderful sound) (HD)
https://www.youtube.com/watch?v=az39eqLIbyU
'91 24 heures du Mans MAZDA 787B Winning Run ル・マン優勝
https://www.youtube.com/watch?v=VdY-iMNEhTk
'91 ル・マン24H マツダ787B 優勝記念ビデオ We Won The Day MAZDA 787B
https://www.youtube.com/watch?v=MCA3fZHB5kU