
統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀
「科学は経験則である」
前項でエネルギー保存の法則、というものが出てきて、これに合わないので信じられにくい、
という内容の記述があったと思うが、これが根本的に誤りの原因である。
あたかもエネルギー保存の法則を神の法則、自然の摂理のようにとらえられているが、
エネルギー保存の法則は純然たる経験則である。「いままでのところでは自然現象は
大体全部そうなっていたからそこから外れているのは詐欺師の手品か、測定の未熟か、
どちらかだろう」というこれまた、経験的判断である。
電波が知られていない状況で、たとえば電子レンジの中で発光すれば、それは測定方法が
ないので、エネルギー保存則に反するように見える。空中で突然発光し、ヒトダマになって、
自然現象が神のお告げに変身する。
人間には経験則以外に認識するすべがない。できるのは経験の状況を制限することである。
これを実験という。その中から、不変の法則性のような強固なものが出てくるので、ありがたがって、
演算するわけだが、法則性は必ず、限界がある。
(その限界を、わざと無視して、ごまかしたのが、最近話題の金融工学と推定できる)
限界を超えるところに、未知探求の本来のところがあるはずである。
学校でこういう根本的なところを教えないで、偏差値教育をする。(教師自身がわからんのだ。)
「チャート式物理学」みたいなもので、物理学を文書処理手続きに解体して、点数とって、大学に入れば、
大壁にぶち当たって四散する。文系と証する連中は、このチャート脳みそのままで、卒業するので、
いつまでも受験生のあんちょこ脳を出ないのだ。死ぬまで。で権力を持つとへんてこなことをする。
自然は確かに、結節点をつくり、その結節点同士が相互に影響しあい、系を作る。
そこで法則性が出てくるわけであるが、あくまで性であって、「どこまでも正しい宇宙の法則」ではない。
見えないところを検証できる方法は人間は持ち合わせてない。
だから、測定方法の進歩で学問が進歩する。
こんな当たり前のことが、当たり前でないので、自分で自分のしたことの評価ができず、島国ニッポンは
いつまでもまねしんぼのあほ、とハクジンに馬鹿にされるわけだ。
だから、明治以来の西欧崇拝丸覚え教育に原因があり、ぐるぐる悪循環している。
(江戸期に儒学を強要していたせいもある。儒学を離れたら命の危険があったので、すべて儒学的概念に
無理やりねじ込んでいた。中江藤樹の項参照)
知識は作るものだ。それには問いかけねばならない。
古人(キリスト?)は求めよさらば与えられん、といったというではないか。べつに当たり前のことを言って
いるだけだ。
学問が、(特に文科系がひどい)「おぼえよ、さらばおぼえられん」、になっている。これでは同義反復で出口なし。
引用元 : 新時代が来た 「科学は経験則である」
(僕の教科書サイトです。是非読んでみてください。知識が詰まってます。)
http://green.ap.teacup.com/shinjidai/806.html
Don't think,feel. 「考えるな、感じろ。」
ちょっと違うかな。(ブルースリーを載せたかったので書いてみた)
現代の科学は、エネルギー保存則という経験則を唯一の神とし、説明のつかない現象は異端として
頭から否定する(馬鹿にして叩く)傾向が良く見られます。
この権威主義的な視野の狭さは、可能性を否定し思考停止してしまっているように思えます。
結局、実際に動く機器を作れれば良いわけで、動作する理屈はどーでも良いのです。
CPUの構造やアーキテクチャを一般人が説明できなくても、PCや携帯でアメブロを見ることは可能なわけです。
と、あしを引っ張る科学はいらんよ(笑)と、極端なことを書いてみますたが、
進歩や複製、技術を伝える手段として、科学(理論)は非常に重要なので何とかしてください。
よろしくお願いします。
http://www.youtube.com/watch?v=aTFd4GDKr5I