天正10年6月13日(西暦1582年7月2日)、山崎合戦があった。
山崎合戦陣営
天王山旗立松から見た山崎合戦場
京滋バイパス、大山崎JCT、京都縦貫道のラインに沿った小泉川が最前線
山崎合戦場から天王山を望む。
16時頃始まった戦は、膠着状態が続いたが、1刻(約2時間)後、戦局は大きく動いた。
円明寺川下流部の湿地帯を密かに進軍した池田恒興隊が津田与三郎隊を横から攻めて、形勢が一挙に羽柴秀吉軍有利となり、日没には明智光秀が勝龍寺城に逃げ込んだことで、羽柴軍勝利が決定した。
大山崎JCT高架下、最前線だった円明寺川(現 小泉川)を通過するN700A。
池田隊は新幹線の奥を右から左へ進軍した。
合戦後は、屍が累々し、川は血で染まった…
戦場は、天王山という山でもなく、また、天王山と淀に挟まれた狭隘地である大山崎の市街地でもなかった。田畑や湿地・沼地の足場が悪く、人家のない場所だった。
これには、大山崎の油売りが大きな役割を果たしたと言われている。
商売を営む大山崎の町での軍事行動を禁止する文書「禁制」を両軍の総大将(明智光秀と織田信孝)から得ていたのであつた。






