Yさんは平成30年8月、享年101歳で、ホームで自然死を迎えられた。Yさんのことがミーテイングで取り上げられる時、必ず職員の誰からともなく、「あんな風に年とれたらいいね」「すごい人やね」と言う感嘆の声が漏れた。私自身、介護の世界に入って、明治や大正生まれの人に多く接してきて、その世代の人の親切さや気配り、生活の知恵や高い生活能力、身に付いた教養の高さ、好奇心や意欲の旺盛さなどに驚き感銘を受けることが多かった。
Yさんは、いわばその世代の人の素晴らしさを伝える代表選手のような人だったように思う。
Yさんがホームに入所したのは平成23年、94歳の夏で、エプロンをつけ、日傘をさして、長男さんと一緒に歩いて来た。Yさんの家はホームから5分とかからない所にあり、終戦後からこの町に住み続けてきた人である。Yさんは近所の家に遊びに来たように、気さくな笑顔で皆に挨拶し、それ以後1度も自宅に帰らなかったし、帰りたいとも言わなかった。
入所当時のYさんは介護度が1で、認知症状としては食事を食べたことを忘れるなどの短期記憶障害はあったが、食事、排泄、などの生活動作は自立だった。人と話すのが好きで、人の話をというより気持ちをよく聴ける人だった。認知症が重度の人が辻褄の合わないことを話しかけてきても、批判することなく笑顔で話しを合わせ、相手を落ち着かせた。自分の想いを言葉で表現できなくなった人が、家族の面会の後に落ち着ついた表情をしているのを見て、「もうここで暮らして行こうって心を決めているんやろうね」と気持ちを慮った。Yさん自身も「ここに来て良かった。一人暮らしの時は、夜に雷が鳴ると怖くて、仏壇の傍で丸まっていたの。でも子供と暮らすと気を遣うしね」とよく言っていた。
Yさんは人に対してだけでなく、散歩の時は神社に来た鳩に「どこから来たの?」と話しかけ、花の周りを飛び交っている蝶々に「楽しそうやね、何食べてるの」と聞き、蝉の鳴き声を聞くと「私の夏友が来てくれた」と笑顔になり、日々の出会いを楽しんでいた。散歩の後、ホームの玄関先で日光浴をし、「長生きして幸せ、こんな地球い住んで幸せ、日本に住んで幸せ」とも言った。
ホームのリクレーションや作業にも積極的に参加し、「少し腰は痛いけど、歩けなくなると困るから」と散歩や体操を意欲的にし、「腰が伸びるからいいわ」と立ってふきん干しをする。洗濯物もきっちりと丁寧にたたむ。「きっと家事も上手にこなしてたんでしょうね」と職員が言うと、「どっちかと言うと苦手だったわ」と笑って言う。Yさんはキャリアウーマンでもある。子育てしながら大手の保険会社に勤め、所長さんにまで上りつめた人だが、雰囲気はいつもおっとりしており、多くの女性社員を指揮していたようなイメージはなかった。苦労話も聞いたことはなく、「お客さんや社員が助けてくれたりで、そんな大変なことはなかったですよ」と言う。ただホームの中で、自分の意見ははっきりと言うが、他の利用者さんと対立しそうになると、すっと身をひき喧嘩にならないようにするという柔軟さが身についていた。ホームの作業も、「あ、洗濯物たたみが好きな人が来たから交替しよう」と状況を見て、他者に譲ったりもできた。
Yさんはどんなリクレーションにも興味を持ち、楽しんで参加していたが、特に興味を持っていたのが、毎朝「美人の日本語」を皆で読む時で、今まで知らなかった日本語に出会ったり、その言葉の語源を知った時は「そんな言葉があるの、いい言葉やねえ」「100近くになって、こんな勉強できてよかったわ」と笑顔になる。長男さんからは、「母は読書が大好きだったんですが、加齢黄斑変症になってから左目は失明し、右目も十分には見えないんです」と聞いている。直径5㎝角ぐらいの字であれば識別できるので、朗読のできる利用者さんや職員が文章を読み、テーマの言葉は大きな字で書いてYさんにも読んでもらった。相田みつをの「一生勉強、一生青春」という詩に触れた時は、「ほんとにその通り」とおおいに共感した。昔短歌を習っていたというYさんは、啄木ファンのEさんが啄木の歌を読んでくれるのを聞き、「哀しい気持ちがよく伝わって涙が出るわ」と言い、松尾芭蕉の句を読んだ時は「景色が浮かんでくるわ」と的確な言葉で表現した。
Yさんは生活を楽しめる達人のような人で、季節の行事や外出にも積極的に参加した。お正月には関西風の味噌味のお雑煮を喜び、眼鏡を片手にカルタ取りにも参加する。初詣の時は「今日はお賽銭を持ち合わせていませんが、息子があげてくれると思いますので」と神様との付き合い方も自然体。十日戎は「おかげで今年も福をもらいました」言い、節分には毎年スタッフが作る巻きずしを誉め、玄関のドアに貼った鬼の面に豆を投げて子供のようにはしゃいだ。年の最初の行楽である観梅は、時に雪がちらつくことがあっても、「これも風流」と笑い、鶯の鳴き声を聞くと大喜びして何度も耳を傾ける。毎年出かける花見は「今年もこんなきれいな桜が咲いてくれた」と櫻にお礼を言い、端午の節句には、ちまきも柏餅も食べたいという。七夕の五色の短冊は五行からきており、色にそれぞれ意味があると知り感嘆する。地区の盆踊りは「最後まで見てたい」と遅くまで頑張り、お彼岸のおはぎも大喜び。紅葉狩りの時は「青い空に紅葉がよく映えて」と感動した。大晦日は紅白歌合戦を楽しみにして、最後まで見るわと頑張るが、年が経つにつれて「サブちゃんまで起きてられないわ」と寝るのが早くなる。
Yさんが、七夕の短冊に書く願い事に、「日本の着物を着てパリの街角に立ってみたい」という文言があった。殆どの人は、自分の子供や孫の健康などを祈る言葉を書くことが多い中、珍しいので理由を聞いてみると、「フランスの人に日本の良さを教えてあげたいねん」という。Yさんの興味は外へ広く向けられており、オリンピックの中継を見ている時は、「こんなふうに世界中の人が仲良くしてくれたらいいね」と言い、日本の農業問題をとりあげた番組を見て、「若い後継者が育って欲しいね」と言う。Yさんの愛の対象は周りの生き物や人々だけでなく、日本という国、ひいては地球も含まれるようだ。
Yさんは女学校を卒業したあと、老舗のMデパートに勤めたと言う。着物を着て通勤し、帰りは心斎橋でお茶を飲んだ話などを聞いていたが、当時の満州にMデパートが出店することになり、転勤希望を出して満州に行ったという。動機については「外国の人と話したいし、仲良くなりたかったのよ」と言った。5年ほど北京にいて、ご主人ともそこで知り合い、料理屋で洋服で結婚式をあげたという。今の中国の大気汚染の映像を見て、「昔は空もきれいで、現地の方もいい人たちでしたよ」と言い、当時の生活を懐かしんでいた。言葉も話せたようで、金色夜叉の主題歌を中国語で披露し、他の利用者にも教えていた。Yさんが戦後生まれなら、世界を駆け巡るような仕事をしていたのではないだろうか。
そんな皆から慕われ頼りにされているYさんだが、認知症の方は年々進行していった。「私、お昼食べてないね」と聞くことが増え、さらに食べ終えた食器を見て、「私がこれ食べたの?」と不思議そうに聞く。今食べましたよと言うと、初めの頃は「私、ボケたんやね」と言い、スタッフが年をとれば誰でも物忘れしますよと言うと、「そうやね」笑っていたが、そのうちに「食べていない」と断言するようになる。Yさんの記憶の中に食べた記憶がまったく残っていないことは、それは無いに等しいので無理からぬことである。また、物盗られ妄想も始まり、眼鏡を盗られた、入れ歯を盗られたと言うようになるが、Yさんの場合はホームの人を疑うのではなく、窓の外を通りかかった人が持って行ったと言う作話になった。
年を追うごとに、記憶力が低下し、季節が判らなくなり、子供の名前が出て来なくなり、面会に見えた娘を妹と言い、孫を息子と思い込むようになっていくYさんだったが、他者に対する思いやりや、適度な距離感や礼節は保ち続け、知りたい、見たい、聞きたいという好奇心はいつも旺盛だった。リクレーションでボールを転がして遊ぶゲームをしている時に、重度の認知症の人がボールを持ったままじっとしており、周りの利用者から「早くしなさいよ」と責められると、Yさんが「どこに投げようかと一生懸命考えているのよね」と助け舟を出した。また同じ利用者が介助でしっかり食事を摂るのを見て、「良かったね、今日もたくさん食べられて」と声をかける。朗読の時間に、夏に吹く風に「白南風」「黒南風」という名前がついていることを知り、その名前の付け方に感心し、それを知ったことを喜ぶ。Yさんがいることで、ホームの雰囲気が柔らかく、明るくなることがよくあった。
認知症になっても身体で覚えた動作などは忘れにくいと言われているが、進行すると次第にそれも忘れてくる。Yさんも入居3年目頃から今まで特に考えることなくやっていた洗濯物を干す手順をふっと忘れるようになる。忘れたことが人に言えず、「今日はやりません」と言う人もいるが、Yさんの場合は自分を窮屈にするようなプライドはどこかで脱ぎ去ったようで、「布巾を干すのはどうするんやった?」と何でも率直にスタッフに聞くことができた。。色紙を使うリクレーションでは「色の名前が出てこんようになったわ」という。寝る前には、息子さんが買ってくれた落語のDVDをつけて楽しんでいたが、付け方や消し方が判らなくなりスタッフに依頼していたが、そのうちにDVDの存在や、依頼することも忘れていった。
入所5年目の冬、毎年行く十日戎で、いつものように屋台の鯛焼きを買うと、「鯛焼きは初めて食べる。回転焼は食べたことあるけど」と言う。その頃になるとはYさんの記憶は時代をだいぶん遡っていて、語られる思い出は子供時代から娘時代のことばかりだった。Yさんが幼少の頃の大阪では、鯛焼きよりも回転焼がポピュラーだったのかもしれない。
15日の鏡開きの時も、スタッフが「鏡餅を下げますね」と言うと、「え、お正月だったの?」と驚く。夕食後に、自分から希望してつけた番組を見ていて、急に、「え、何で私はこれを見てるの?」と聞く。テレビも集中して見ることができなくなる。
そんなYさんだったが、その年の98歳の誕生日には「私は今幸せに生きています」「眼は片方見えないけど、不自由に感じたこともないし、普通に人生を送れてとても満足している」「ここまできたら100歳まで生きたい。皆に100歳になったよって大きな声で言いたい」としっかりと話した。
幼い頃から読書好きだったというYさんは、認知症が重度になっても文章の意味を理解する能力は高く、自分の気持ちを的確に表現できた。ホームで川柳の本を買って皆で読むとよく笑い、「耳遠く オレオレ詐欺も 困り果て」の句に対しては、「私もそんなことがあって、息子に電話したわ」と言った。Yさんの記憶は若い頃に遡っていて、老後の一人の暮らしの体験はほとんど話されることは無くなってきていたが、詐欺に狙われそうになったり、夜の雷が怖かったことなど、強く感情が動かされた時の記憶は残っているようだ。
Yさんの話の中にはよくお母さん登場するようになった。朝のテレビ小説を見ては「私の母もあんな風に髪を結っていました」と言い、梅ジュースを作るために梅干しのヘタをとってもらうと、「昔、母と毎年しました」と言う。また今まで話されなかったお婆さんのエピソードも出て来て、漢字クイズで麹という字がでてくると、「私のおばあさんは麹屋をしていましたが、博打ですべての財産を失くしました」と言った。今まで、Yさんの口から辛い話や苦労した話は出たことがないので、少し以外だったが、そのころからYさん自身の口調に少しずつ変化が現れた。散歩の声かけをすると、「暑いから行きたくない」とハッキリ言う。風船バレーをしましょうかと言うと、「そんな子供の遊びはしたくないわ」と言う時もある。今までは相手が気を悪くしないように言葉を選ぶYさんだったが、Yさんの記憶が遡るにつれて、Yさん自身も反抗期の子供に戻ったかのような時期があった。
Yさんの中でも、この時期は不安や焦燥が生じていたのかもしれない。周りで自分の記憶にないことが起き、今まで出来ていた事が急にやり方を忘れるということが重なり、不安で、相手の気持ちに思いをはせる心の余裕がなかったのかもしれない。Yさんはスタッフには自分の思ったことを率直に言うが、一方で、体操や音楽療法の先生、市の相談員など外部の来客がある時は、傍に座るのを避けたがるようになる。自分が現実と違うことを言っているのかもしれないという不安があり、何を聞かれるのかと緊張するためのようだ。今後の生活の不安もあるようで、「私は家もあるけどずっとここにおらしてもらいます、お世話かけますけど」とよく言った。長男さんにも、「ずっとここにおらせてもらえるやろうか」と心配していたそうだ。
そんな不安の中にあっても、Yさんの好奇心は打ちのめされることなく息づいていた。その年の七夕ばたの短冊にも「パリの街角で着物を着て立っていたい」と書いた。月食を見て「月が地球の裏に隠れているんやね」と感動し、テレビ子供のダンス教室の映像が映ると、お婆さんのダンス教室もできればいいのにと言う。木枯らしという言葉から俳句を作りましょうとスタッフが言うと、一生懸命に考えて、「木枯らしや 焼き芋つくる 子供たち」と言う句を詠んだ。選挙にも自ら希望して行く。「誰に入れていいかわからんけど、選挙に行けることが嬉しい」と言う。
わからないこと、出来ないことは多くなったが、Yさんの言動はおおむね穏やかだった。体調がすぐれなかったりするとイライラした言動も見られたが、それが過ぎると、もとの穏やかなYさんに戻っていった。ただ、新しい記憶が失われると、古い記憶がより鮮明になるのか、今まで話されなかったお義父さんのエピソードや、それにまつわるYさんの気持ちも言葉の端々に出るようになった。
Yさんのお母さんは、幼少のYさんを連れて再婚した。新しくお父さんなった人にはYさんより年上の男の子が2人いたと言う。その後に妹さんも生まれたそうだ。Yさんがその話をしたのは入所間もない認知症も軽度の頃で、当時は「お母さんが再婚してくれたおかげで新しいお父さんができた」と笑顔で語ったので、やさしいお父さんで、Yさんは可愛がられたのだろうというイメージしかなかった。
次にお父さんのことがよく話題に出るようになったのは、入所して5年目頃からで、働き者で優しかったお母さんの思い出が毎日語られるようになってからである。「お父さんは印刷屋をしていたが、朝昼晩と樽酒を飲み、母はハイハイとそれに従い、私はお酒を運ぶ役だった。私だったら、お酒を止めるように注意したのに」「父が庭に池と噴水を作り金魚を放した。母は電気代が高くつくと嘆いていた」「父は厳しい人でどこへも行かせてくれなかった。友達は宝塚などもいってたけど、一度も行ったことがない」「家で流行歌などを歌うとひどく叱られた」「海は危ないと言い、一度も海へ行ったことがなかった」「私は昔からやることが遅くてのんびりしてたから、お父さんからぐずっってよく言われた」など、子供の頃の悩みや辛かったであろうことがお義父さんの思い出とともに語られ始めた。Yさんは働き出してからは、給料のほとんどを家にいれたというから、お父さんの商売もうまくいかなくなったのかもしれない。
危ないからと言って、海さえも連れて行ってもらえなかったYさんが、働くようになって自分から希望して異国の地の満州へ行った。その時のご両親の気持ちを思うと、察するにあまりあるが、その時のご両親との話し合いなどについては、Yさんはまったく語らなかった。いずれにしても、Yさんの決心は相当なものであり、その夢に対する想いは、異国で暮らす不安を払拭するほどのものであったと推察できる。大阪から満州へ行く行程の大変さについて聞くと、「いえ、そんなに大変じゃないですよ、朝鮮まで船で行ったら、後はずっと汽車で行けますから。私は乗り物は苦にならないんです」とこともなげに話していた。そんなYさんだから、着物を着てパリへ行くなど夢物語ではなく、今の時代ならたやすいことだったろうが、子育てや仕事、社会的な雑多の用事に追われているうちに行く機会を逃したのかもしれない。いやもっと行けない他の事情があったのかも知れない
99歳のお誕生日を迎えた頃からYさんはよく眠るようになる。夕食後も好きなテレビを見ることなくすぐにベッドに入る。骨ももろくなったようで、肋骨の自然骨折が起きる。本人の希望で以前に通っていた整骨院へ通っているうちに、3週間ほどで痛みが消えるが、本人は「そんなことがあったんですか」とすっかり忘れている。そのころからよく幻視も始まるようになった。「私の母は生きていて、時々この辺をとおるの」「私の部屋にさっきまで子供がいたけど、どこへ行ったの?」等の言葉が聞かれるようになる。Yさんの頭の中には現実の世界と過去の世界が線引されることなく一つになって存在しているようで、皆と話している時でも、急に、「おじさんもう帰ってきたの?」と言う。しかしそれにはYさん自身も戸惑う時があるようで、「お母さんも死んでへんし、子供らも生きているし、どないなってるんやろう」と言う時もあったが、わからないことは必要以上に悩まず、後は神様にお任せと言うのがYさんらしい生き方で、自分の変化を受け止め、乗り越えているように思えた。
認知症状はますます重症化していくYさんだったが、知的好奇心は失っていなかった。桜の季節に、ソメイヨシノはアメリカが原産地であることや、ワシントンにも櫻があることを皆で話していると、「ワシントンにも桜があるの?」と興味津々のようす。またスタッフが旧漢字の櫻を「2かいの女がきになる」と憶えたと言うと、大笑いし、何度も聞き返し、その度に「面白い」と笑った。また、ヘレンケラーの生涯を紹介した番組を見たスタッフがその感想を話すと、Yさんは、「昔、中の島公会堂にヘレンケラーが来て公演を聞きに行きましたよ。眼も見えない、耳も聞こえない、そんな人が、皆の拍手を波動で感じることに驚きましたっかりと自分の感想を言った。Yさんは、殆どが全介助で会話ができない人の所へ行って手をさすり、話しかけることがよくあった。
世界音楽紀行と言うクラシックを聞きながら、世界の名所を映像で流していくDVDをかけている時、「こんないい音楽を聞いていると、胸がキュンとなります。外国へ行きたかったけど、もう無理やね」と少し残念そうだった。切望していた外国行きを諦めざるを得ない事情もいろいろあったのかもしれない。
平成29年1月、Yさんは100歳の誕生日を迎えた。子供さんやお孫さんからもお祝いの品が届き、ホームでは大好きな握りずしやケーキでお祝居をする。この日はさすがに「私は今何歳?」と聞くことはなく、「100歳だなんてねえ」と感慨深げであった。100歳になった感想を聞くと、「昨日と変わらないし、どうってことないもんやね」と言う。その率直で素直な感想がYさんらしくて、スタッフも、さすが100歳になれる人はちがうと笑ってしまった。今の夢を聞くと「着物を着てパリの街角に立って、日本の素晴らしさを伝えたい」と、以前と同じように答えた。
100歳になって、Yさんが大きな決断をせねばならぬできことがあった。それは、長い間空家になっていたYさんの家の売買話が出た時である。息子さんと関係者の方がYさんの意見を聞きにくると、Yさんは、「私は今、ここで幸せに暮らしていますし、最後までここに居らせてもらおうと思っています。家はもう売って下さい。いつまでも空家を置いていると、近所の人にも迷惑をかけるかもしれないし」としっかりと自分の考えを伝えた。
時が経つにつれて、Yさんは過去の世界へと戻って行き、現実の生活が現実感のないものとなっていく。
朝おきがけに、「何で私はここにおるの?」「この部屋にはなんとなく見覚えがあるけど」と不審そうに言う。職員が説明すると、職員の顔には見覚えがあるようで安心するが、納得するわけではない。リビングに来てもらいお茶を飲んだり、おしゃべりしたりしているうちにここに住んでいることを思い出す。昼間でも隣に座っている人に、「私ら何でここにいるんやろね」と聞くことがあり、隣りの人も「わからへんねん」と答えたりする。お互いに名前は知らないが、顔は旧知の間柄なので安心している。
息子さんたちが面会にきても誰か分からないようだが、名前には覚えがあるようだ。お孫さんが一緒にくると、お孫さんの方を息子さんだと思うようで、何度も「○○ちゃん(息子さんの名前)やろ」と確認しようとする。Yさんの頭の中の息子さんはずっと若いのである。
それだけ周りの現実が判らないことだらけになっても、Yさんは比較的穏やかで、「家に帰る」と言ったり、落ち着きなく動き回ることはなかった。Yさんは基本的に人を信頼できる人で、スタッフのことも、(何か判らないけど、この人達が私に悪いことをするはずがない)という信頼感を持ってくれていたように思う。
平成30年に101歳の誕生日を迎えてから、Yさんは認知症の症状がすすむだけでなく、身体能力や生活能力も急激に低下していった。自分でトイレに行くものの失禁が多くなり、トイレの使い方がわからず、手前でズボンを脱いで床を濡らしたり、便座に座っていても「何で私はここに座っているの?」「おしっこ?でたかどうかわからない」と言うようになる。101歳を過ぎて初めてパットやリハビリパンツを使用するようになった。歩行も不安定になり、手すりを持って歩いていても、膝ががくっと折れそうになるため、移動の時は職員の見守りや一部介助が必要になる。部屋で自分で移動し何回か転倒があるが、骨折には至らなかった。ベッドに上がる時も膝を使って登ろうとする。食事の仕方も忘れてきて、お箸やスプーンを出してもどう使っていいか判らないようなので、手に持たせると思い出す。手の運びもなかなかスムーズにいかずこぼすことが多くなった。できるだけ自分で食べてもらうために、ご飯に小さく刻んだおかずを混ぜて小さいお握りにすると、手で食べることができた。この頃よりおしぼりを口に入れる行為も始まる。咀嚼、嚥下機能も低下したため、しばしば誤嚥性肺炎を起こして熱が出るが、本人にはそれほどの苦痛の様子は見られず、2日ほどで熱は下がる。次第に固形物が飲み込めなくなり、7月末からは、ミキサー食、トロミ食に変更する。座位も長時間はできなくなり、30分もすると、体が下にずれていったり、身体が後ろへ反っていくため、臥床の時間が多くなる。
身体能力低下や認知症の進行で、Yさんの生活状況はどんどん変化していったが、Yさんの生き生きとした好奇心や感動する心が失われることはなかった。自分の居場所や年齢は判らなくても、小林一茶の句を読んであげると笑顔になり、「いい句やねえ」と感動し、啄木の歌を読んであげると「涙がでるね」と感動する。相田みつをの「しあわせは いつもじぶんの こころがきめる」と言う詩を読むと、「みんなで、今日一日は幸せでいましょう」と笑顔になる。音楽療法で、大きな鯉のぼりを揺らした時は、「わあ」と歓声をあげた。5月には柏餅づくりをし、アンコを丸めてもらうとなかなか丸まらなかったが、できた柏餅をみせると「嬉しい、ありがとう」と言い、美味しそうに食べた。
7月22日にはたまたま中国の大学生が福祉の勉強の一環としてホームの見学に来る。Yさんに紹介すると、「嬉しい、この年になって、中国の人に会えた」と感激する。中国語で挨拶し、北京にいたことを話して、昔の住所を思い出そうとするが、思い出せない。学生さんが帰ってからも少し興奮気味で、この頃はほとんど臥床しており、食事も「皆に気を遣わせるから」と部屋で摂っていたが、「起きて見たい」と言い、リビングで食事をする。これが、Yさんがリビングで食事した最後の日だった。それは亡くなるひと月ほど前のことで、Yさんにとって中国の人と会えたこと、は人生の最後の大きなプレゼントだったように思える。
7月末ころよりYさんの口から食べれる量はどんどん減っていった。それまでは普通食のメニューも食べ易くすれば3口ほど食べていたが、プリンやゼリー、ジェル、アイスクリームなどしか飲みこめなくなる。その量も小さじで2、3口で、「もう結構です、ありがとう」「それ以上は食べさせんといて」としっかりと自分の意思を伝える。
またこの頃から、しばしば37~38度台の熱が出るようになる。医師によれば「誤嚥性肺炎であり、これは老化によるもので防ぎようのないものです。Yさんの場合は今まで薬も飲まず自然に老いを迎えた結果なので、解熱剤で下げるよりもクーリングで下げる方が本人も楽と思います。今は、本人が食べたいもの、飲みたいものを、本人が摂取できるだけあげて下さい」と言う。Yさん自身にも苦痛の表情はなく、スタッフが今はどんな感じですかと聞くと、「痛いとか、しんどいとかはないです。幸せです」と言う。介護を受けた時は必ず「ありがとう」と言い、ベッドで目が覚めるとラジオから流れてくる大正や昭和の唱歌や歌謡曲、民謡などを聞いていた。
7月30日、朝バイタルを測ると手が冷たい。SPO2が80台であるが、手を温めていると、90台に回復する。苦痛は見られず、穏やかに目を瞑っている。昼食前に訪室すると、目を瞑ったまま、「ここは地球やな、別の地球や、きれいやなあ、歩いてきたらここに来た。不思議やなあ」「どれほど離れているかわからんけど、広くて、きれいなとこや、長生きして良かった」と言う。その後、目を開き、「戻ってきたわ。浦島太郎みたいや」と言う。Yさんの魂が、どこかを自由に旅してきたように思えた。
8月2日朝のバイタル測定時に、「今日は朝からいろんな声が聞こえてくるんやわ、あっちから何か言ってくるねん」と言う。バイタルは安定している。フォークダンスの曲がラジオから流れると、何か手を動かしているので、ダンスですかと聞くと、「昔、うちの町内でもやっててんよ」と言う。午後からは音楽療法があるが出席できなかったので、先生が二人部屋に来てくれて、一緒に「故郷」を歌う。Yさんも小さな声で唱和した。以前からYさんは、この歌の3番を歌うと母親を思い出して涙が出ると言っていた。若い頃、夢を持って故郷を離れ異国の地で暮らしている時、Yさんはお母さんを思い出し、故郷の歌を口ずさんでいたのではないだろうか。
8月6日の朝、スタッフが訪室すると何かしきりに手を動かしている。しんどいですかと言うと、「今、みんな集まっているんよ、お母さんも、兄弟も、お父さんもいたと思うけどなあ、どこへ行ったんやろう」と言う。その時は血圧が104/47、脈89、SPO2は91とまあまあの数値で大きな異変はなかったが、昼過ぎにSPO2が78と危険な数値になったために、息子さんや医師に報告する。37度台の発熱もある。医師が来た頃にはSPO2は90台に上昇し、皆が安心する。この日からは毎日微熱が続き、クーリングが外せない。SPO2も90を切ることがしばしばあるが、また回復するという状態が続く。
翌日から2日間は関東に在住の次男様ご家族が面会にこられ、2日間ほど一緒に過ごす。Yさんも「来てくれはったんや」と喜ぶ。帰られた後、スタッフが「良かったですね」と言うと、「また会えるね、人間ていいね、また会えるね」と言う。
次の日は長女様が横浜から面会に来られる。最初にホームに入所の相談に来られ、その後も毎年に何度か面会に来られ、姉妹のように話しが弾んでいた。Yさんのそばで半日過ごされ、帰られる時に、「後は、本人次第ですね」と静かに言われた。それは、Yさんの口調にとてもよく似ていて、「後は神様しだい」と言うYさんの気持ちを代弁しているように感じられた。
8月9日 スタッフが介護中に他の利用者さんの話をすると、「会いたい」と言う。一番よく話をし、中国語で一緒に金色夜叉も歌ったEさんに代表で会ってもらう。Eさんが握手すると、「力があるね」とYさんが言い、Eさんが「私は昔、金太郎っていうあだ名やってんよ」と言い、二人で笑いあう。
8月11日、亡くなられる1週間ほど前からは、昼夜傾眠状態が続くようになり、声かけすると「眠いわ」と言う言葉しか返ってこない。SPO2は90台で比較的安定しているが、血圧は100~110台。時には測定不能になる。便がずっと出続けている。クーリングを外すとすぐに熱が上がる。比較的意識がしっかりしている時に、ジェルをすすめると、一口、二口飲む。
8月14日、朝の9時頃にスタッフが訪室すると目を開いており、「おはよう、いつまでも寝てたらあかんね」と言う。「今日は外は暑いので、ここでゆっくりしていて下さい」と言うと、「そお」と言う。その後、「ここはどこ?」と言うので、ホームの住所を言い、昔からYさんが住んでいた町で、近所には○○さんの家もありますよとYさんと付き合いのあったご近所さんの苗字を言うと、「知ってる」という。昼食にはゼリーを二口食べて「美味しいわ」と言う。その後はまた傾眠状態が続く。午後からは、初めて「しんどい」と言う言葉がYさんの口から出た。血圧は測定できず、脈は84、SPO2は80~90の間を行ったり来たりしている。あまり良い状態ではない。熱はない。看護師が背中と腰に手を差し込み動かすと、「気持ちがいい」と言う。夜間にはSPO2が70台に下がることがある。
8月15日水分を口に入れると、口は開けてくれるが、喉の奥まで持って行くことができず、口の中でたまったままで、外にこぼれる。介助者が口を閉じてあげて、顎を少し上向きにすると、ごくんと2口ほど飲めた。ミカン味のジェルで「美味しい」と小さな声で言う。SPO2は70~90台だが、70台になることが多い。オムツ交換時に何か言っているが、小さくて聞き取れない。「あぶない」「ありがとう」「すみません」と言っているようだ。
8月16日長男様が面会に来られる。呼びかけに声は出ないが、口は開く。昨日同様、水分摂取も難しいが、好きだったコーヒーを一口に入れてあげると「美味しい」と言う。長男様に、会わせたい人でまだ会えていない人がおられたら、会わせて下さいとお願いする。
8月17日長男様ご夫妻が来られる。長男様の奥様は長年の持病で体調を崩されることが多く、Yさんとはしばらく会っていない。昨夜から傾眠が続き、声かけの反応もあまりなかったため、奥様を認識できるか心配していたが、ご夫妻の呼びかけに返事し、頷いたという。もう口に入れるものは一切拒否し、口を開けないので、唇を湿らせるだけにする。37度台の微熱があり、血圧は測定不能。SPO2は70~80台。ずっと傾眠状態が続く。
8月18日傾眠状態が続き、SPO2は70台。声かけすると、口が少し動く。肩呼吸、下顎呼吸など苦しそうな呼吸は見られず、穏やかな表情だった。入浴日なので、体を清拭する。12時のおむつ交換時には、両足指にチアノーゼが見られる。その後、他の利用者の食事介助や移動を終えて、13時頃にスタッフが訪室し、名前を呼ぶが反応がない。SPO2を測ると、60台から、50、40、30と急激に下がっていき、そのまま眠るように呼吸停止となる。主治医や家族に連絡し、その後に医師の死亡診断がある。
診断の後に、看護師とホーム長で、エンゼルケアと化粧をすませる。Yさんの旅たちの装いは薄紫の小紋の着物で、色白のYさんによく似合っていた。Yさんはすべてから解き放され自由になり、「ではまずパリへ行ってみよう」と笑顔で旅立ったように思えてならない。
(文:西田 広子)










