グループホームさんふらわぁスタッフブログ

グループホームさんふらわぁスタッフブログ

大阪府池田市(介護予防)認知症対応型共同生活介護 グループホーム さんふらわぁ スタッフのブログです。

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 Yさんは平成30年8月、享年101歳で、ホームで自然死を迎えられた。Yさんのことがミーテイングで取り上げられる時、必ず職員の誰からともなく、「あんな風に年とれたらいいね」「すごい人やね」と言う感嘆の声が漏れた。私自身、介護の世界に入って、明治や大正生まれの人に多く接してきて、その世代の人の親切さや気配り、生活の知恵や高い生活能力、身に付いた教養の高さ、好奇心や意欲の旺盛さなどに驚き感銘を受けることが多かった。

Yさんは、いわばその世代の人の素晴らしさを伝える代表選手のような人だったように思う。

 

 Yさんがホームに入所したのは平成23年、94歳の夏で、エプロンをつけ、日傘をさして、長男さんと一緒に歩いて来た。Yさんの家はホームから5分とかからない所にあり、終戦後からこの町に住み続けてきた人である。Yさんは近所の家に遊びに来たように、気さくな笑顔で皆に挨拶し、それ以後1度も自宅に帰らなかったし、帰りたいとも言わなかった。

 

 入所当時のYさんは介護度が1で、認知症状としては食事を食べたことを忘れるなどの短期記憶障害はあったが、食事、排泄、などの生活動作は自立だった。人と話すのが好きで、人の話をというより気持ちをよく聴ける人だった。認知症が重度の人が辻褄の合わないことを話しかけてきても、批判することなく笑顔で話しを合わせ、相手を落ち着かせた。自分の想いを言葉で表現できなくなった人が、家族の面会の後に落ち着ついた表情をしているのを見て、「もうここで暮らして行こうって心を決めているんやろうね」と気持ちを慮った。Yさん自身も「ここに来て良かった。一人暮らしの時は、夜に雷が鳴ると怖くて、仏壇の傍で丸まっていたの。でも子供と暮らすと気を遣うしね」とよく言っていた。

 

 Yさんは人に対してだけでなく、散歩の時は神社に来た鳩に「どこから来たの?」と話しかけ、花の周りを飛び交っている蝶々に「楽しそうやね、何食べてるの」と聞き、蝉の鳴き声を聞くと「私の夏友が来てくれた」と笑顔になり、日々の出会いを楽しんでいた。散歩の後、ホームの玄関先で日光浴をし、「長生きして幸せ、こんな地球い住んで幸せ、日本に住んで幸せ」とも言った。

 

 ホームのリクレーションや作業にも積極的に参加し、「少し腰は痛いけど、歩けなくなると困るから」と散歩や体操を意欲的にし、「腰が伸びるからいいわ」と立ってふきん干しをする。洗濯物もきっちりと丁寧にたたむ。「きっと家事も上手にこなしてたんでしょうね」と職員が言うと、「どっちかと言うと苦手だったわ」と笑って言う。Yさんはキャリアウーマンでもある。子育てしながら大手の保険会社に勤め、所長さんにまで上りつめた人だが、雰囲気はいつもおっとりしており、多くの女性社員を指揮していたようなイメージはなかった。苦労話も聞いたことはなく、「お客さんや社員が助けてくれたりで、そんな大変なことはなかったですよ」と言う。ただホームの中で、自分の意見ははっきりと言うが、他の利用者さんと対立しそうになると、すっと身をひき喧嘩にならないようにするという柔軟さが身についていた。ホームの作業も、「あ、洗濯物たたみが好きな人が来たから交替しよう」と状況を見て、他者に譲ったりもできた。

 

 Yさんはどんなリクレーションにも興味を持ち、楽しんで参加していたが、特に興味を持っていたのが、毎朝「美人の日本語」を皆で読む時で、今まで知らなかった日本語に出会ったり、その言葉の語源を知った時は「そんな言葉があるの、いい言葉やねえ」「100近くになって、こんな勉強できてよかったわ」と笑顔になる。長男さんからは、「母は読書が大好きだったんですが、加齢黄斑変症になってから左目は失明し、右目も十分には見えないんです」と聞いている。直径5㎝角ぐらいの字であれば識別できるので、朗読のできる利用者さんや職員が文章を読み、テーマの言葉は大きな字で書いてYさんにも読んでもらった。相田みつをの「一生勉強、一生青春」という詩に触れた時は、「ほんとにその通り」とおおいに共感した。昔短歌を習っていたというYさんは、啄木ファンのEさんが啄木の歌を読んでくれるのを聞き、「哀しい気持ちがよく伝わって涙が出るわ」と言い、松尾芭蕉の句を読んだ時は「景色が浮かんでくるわ」と的確な言葉で表現した。

 

 Yさんは生活を楽しめる達人のような人で、季節の行事や外出にも積極的に参加した。お正月には関西風の味噌味のお雑煮を喜び、眼鏡を片手にカルタ取りにも参加する。初詣の時は「今日はお賽銭を持ち合わせていませんが、息子があげてくれると思いますので」と神様との付き合い方も自然体。十日戎は「おかげで今年も福をもらいました」言い、節分には毎年スタッフが作る巻きずしを誉め、玄関のドアに貼った鬼の面に豆を投げて子供のようにはしゃいだ。年の最初の行楽である観梅は、時に雪がちらつくことがあっても、「これも風流」と笑い、鶯の鳴き声を聞くと大喜びして何度も耳を傾ける。毎年出かける花見は「今年もこんなきれいな桜が咲いてくれた」と櫻にお礼を言い、端午の節句には、ちまきも柏餅も食べたいという。七夕の五色の短冊は五行からきており、色にそれぞれ意味があると知り感嘆する。地区の盆踊りは「最後まで見てたい」と遅くまで頑張り、お彼岸のおはぎも大喜び。紅葉狩りの時は「青い空に紅葉がよく映えて」と感動した。大晦日は紅白歌合戦を楽しみにして、最後まで見るわと頑張るが、年が経つにつれて「サブちゃんまで起きてられないわ」と寝るのが早くなる。

 

 Yさんが、七夕の短冊に書く願い事に、「日本の着物を着てパリの街角に立ってみたい」という文言があった。殆どの人は、自分の子供や孫の健康などを祈る言葉を書くことが多い中、珍しいので理由を聞いてみると、「フランスの人に日本の良さを教えてあげたいねん」という。Yさんの興味は外へ広く向けられており、オリンピックの中継を見ている時は、「こんなふうに世界中の人が仲良くしてくれたらいいね」と言い、日本の農業問題をとりあげた番組を見て、「若い後継者が育って欲しいね」と言う。Yさんの愛の対象は周りの生き物や人々だけでなく、日本という国、ひいては地球も含まれるようだ。

 

 Yさんは女学校を卒業したあと、老舗のMデパートに勤めたと言う。着物を着て通勤し、帰りは心斎橋でお茶を飲んだ話などを聞いていたが、当時の満州にMデパートが出店することになり、転勤希望を出して満州に行ったという。動機については「外国の人と話したいし、仲良くなりたかったのよ」と言った。5年ほど北京にいて、ご主人ともそこで知り合い、料理屋で洋服で結婚式をあげたという。今の中国の大気汚染の映像を見て、「昔は空もきれいで、現地の方もいい人たちでしたよ」と言い、当時の生活を懐かしんでいた。言葉も話せたようで、金色夜叉の主題歌を中国語で披露し、他の利用者にも教えていた。Yさんが戦後生まれなら、世界を駆け巡るような仕事をしていたのではないだろうか。

 

 そんな皆から慕われ頼りにされているYさんだが、認知症の方は年々進行していった。「私、お昼食べてないね」と聞くことが増え、さらに食べ終えた食器を見て、「私がこれ食べたの?」と不思議そうに聞く。今食べましたよと言うと、初めの頃は「私、ボケたんやね」と言い、スタッフが年をとれば誰でも物忘れしますよと言うと、「そうやね」笑っていたが、そのうちに「食べていない」と断言するようになる。Yさんの記憶の中に食べた記憶がまったく残っていないことは、それは無いに等しいので無理からぬことである。また、物盗られ妄想も始まり、眼鏡を盗られた、入れ歯を盗られたと言うようになるが、Yさんの場合はホームの人を疑うのではなく、窓の外を通りかかった人が持って行ったと言う作話になった。

 

 年を追うごとに、記憶力が低下し、季節が判らなくなり、子供の名前が出て来なくなり、面会に見えた娘を妹と言い、孫を息子と思い込むようになっていくYさんだったが、他者に対する思いやりや、適度な距離感や礼節は保ち続け、知りたい、見たい、聞きたいという好奇心はいつも旺盛だった。リクレーションでボールを転がして遊ぶゲームをしている時に、重度の認知症の人がボールを持ったままじっとしており、周りの利用者から「早くしなさいよ」と責められると、Yさんが「どこに投げようかと一生懸命考えているのよね」と助け舟を出した。また同じ利用者が介助でしっかり食事を摂るのを見て、「良かったね、今日もたくさん食べられて」と声をかける。朗読の時間に、夏に吹く風に「白南風」「黒南風」という名前がついていることを知り、その名前の付け方に感心し、それを知ったことを喜ぶ。Yさんがいることで、ホームの雰囲気が柔らかく、明るくなることがよくあった。

 

 認知症になっても身体で覚えた動作などは忘れにくいと言われているが、進行すると次第にそれも忘れてくる。Yさんも入居3年目頃から今まで特に考えることなくやっていた洗濯物を干す手順をふっと忘れるようになる。忘れたことが人に言えず、「今日はやりません」と言う人もいるが、Yさんの場合は自分を窮屈にするようなプライドはどこかで脱ぎ去ったようで、「布巾を干すのはどうするんやった?」と何でも率直にスタッフに聞くことができた。。色紙を使うリクレーションでは「色の名前が出てこんようになったわ」という。寝る前には、息子さんが買ってくれた落語のDVDをつけて楽しんでいたが、付け方や消し方が判らなくなりスタッフに依頼していたが、そのうちにDVDの存在や、依頼することも忘れていった。

 

 入所5年目の冬、毎年行く十日戎で、いつものように屋台の鯛焼きを買うと、「鯛焼きは初めて食べる。回転焼は食べたことあるけど」と言う。その頃になるとはYさんの記憶は時代をだいぶん遡っていて、語られる思い出は子供時代から娘時代のことばかりだった。Yさんが幼少の頃の大阪では、鯛焼きよりも回転焼がポピュラーだったのかもしれない。

 

 15日の鏡開きの時も、スタッフが「鏡餅を下げますね」と言うと、「え、お正月だったの?」と驚く。夕食後に、自分から希望してつけた番組を見ていて、急に、「え、何で私はこれを見てるの?」と聞く。テレビも集中して見ることができなくなる。

 

 そんなYさんだったが、その年の98歳の誕生日には「私は今幸せに生きています」「眼は片方見えないけど、不自由に感じたこともないし、普通に人生を送れてとても満足している」「ここまできたら100歳まで生きたい。皆に100歳になったよって大きな声で言いたい」としっかりと話した。

 

 幼い頃から読書好きだったというYさんは、認知症が重度になっても文章の意味を理解する能力は高く、自分の気持ちを的確に表現できた。ホームで川柳の本を買って皆で読むとよく笑い、「耳遠く オレオレ詐欺も 困り果て」の句に対しては、「私もそんなことがあって、息子に電話したわ」と言った。Yさんの記憶は若い頃に遡っていて、老後の一人の暮らしの体験はほとんど話されることは無くなってきていたが、詐欺に狙われそうになったり、夜の雷が怖かったことなど、強く感情が動かされた時の記憶は残っているようだ。

 

 Yさんの話の中にはよくお母さん登場するようになった。朝のテレビ小説を見ては「私の母もあんな風に髪を結っていました」と言い、梅ジュースを作るために梅干しのヘタをとってもらうと、「昔、母と毎年しました」と言う。また今まで話されなかったお婆さんのエピソードも出て来て、漢字クイズで麹という字がでてくると、「私のおばあさんは麹屋をしていましたが、博打ですべての財産を失くしました」と言った。今まで、Yさんの口から辛い話や苦労した話は出たことがないので、少し以外だったが、そのころからYさん自身の口調に少しずつ変化が現れた。散歩の声かけをすると、「暑いから行きたくない」とハッキリ言う。風船バレーをしましょうかと言うと、「そんな子供の遊びはしたくないわ」と言う時もある。今までは相手が気を悪くしないように言葉を選ぶYさんだったが、Yさんの記憶が遡るにつれて、Yさん自身も反抗期の子供に戻ったかのような時期があった。

 

 Yさんの中でも、この時期は不安や焦燥が生じていたのかもしれない。周りで自分の記憶にないことが起き、今まで出来ていた事が急にやり方を忘れるということが重なり、不安で、相手の気持ちに思いをはせる心の余裕がなかったのかもしれない。Yさんはスタッフには自分の思ったことを率直に言うが、一方で、体操や音楽療法の先生、市の相談員など外部の来客がある時は、傍に座るのを避けたがるようになる。自分が現実と違うことを言っているのかもしれないという不安があり、何を聞かれるのかと緊張するためのようだ。今後の生活の不安もあるようで、「私は家もあるけどずっとここにおらしてもらいます、お世話かけますけど」とよく言った。長男さんにも、「ずっとここにおらせてもらえるやろうか」と心配していたそうだ。

 

 そんな不安の中にあっても、Yさんの好奇心は打ちのめされることなく息づいていた。その年の七夕ばたの短冊にも「パリの街角で着物を着て立っていたい」と書いた。月食を見て「月が地球の裏に隠れているんやね」と感動し、テレビ子供のダンス教室の映像が映ると、お婆さんのダンス教室もできればいいのにと言う。木枯らしという言葉から俳句を作りましょうとスタッフが言うと、一生懸命に考えて、「木枯らしや 焼き芋つくる 子供たち」と言う句を詠んだ。選挙にも自ら希望して行く。「誰に入れていいかわからんけど、選挙に行けることが嬉しい」と言う。

 

 わからないこと、出来ないことは多くなったが、Yさんの言動はおおむね穏やかだった。体調がすぐれなかったりするとイライラした言動も見られたが、それが過ぎると、もとの穏やかなYさんに戻っていった。ただ、新しい記憶が失われると、古い記憶がより鮮明になるのか、今まで話されなかったお義父さんのエピソードや、それにまつわるYさんの気持ちも言葉の端々に出るようになった。

 

 Yさんのお母さんは、幼少のYさんを連れて再婚した。新しくお父さんなった人にはYさんより年上の男の子が2人いたと言う。その後に妹さんも生まれたそうだ。Yさんがその話をしたのは入所間もない認知症も軽度の頃で、当時は「お母さんが再婚してくれたおかげで新しいお父さんができた」と笑顔で語ったので、やさしいお父さんで、Yさんは可愛がられたのだろうというイメージしかなかった。

 

 次にお父さんのことがよく話題に出るようになったのは、入所して5年目頃からで、働き者で優しかったお母さんの思い出が毎日語られるようになってからである。「お父さんは印刷屋をしていたが、朝昼晩と樽酒を飲み、母はハイハイとそれに従い、私はお酒を運ぶ役だった。私だったら、お酒を止めるように注意したのに」「父が庭に池と噴水を作り金魚を放した。母は電気代が高くつくと嘆いていた」「父は厳しい人でどこへも行かせてくれなかった。友達は宝塚などもいってたけど、一度も行ったことがない」「家で流行歌などを歌うとひどく叱られた」「海は危ないと言い、一度も海へ行ったことがなかった」「私は昔からやることが遅くてのんびりしてたから、お父さんからぐずっってよく言われた」など、子供の頃の悩みや辛かったであろうことがお義父さんの思い出とともに語られ始めた。Yさんは働き出してからは、給料のほとんどを家にいれたというから、お父さんの商売もうまくいかなくなったのかもしれない。

 

 危ないからと言って、海さえも連れて行ってもらえなかったYさんが、働くようになって自分から希望して異国の地の満州へ行った。その時のご両親の気持ちを思うと、察するにあまりあるが、その時のご両親との話し合いなどについては、Yさんはまったく語らなかった。いずれにしても、Yさんの決心は相当なものであり、その夢に対する想いは、異国で暮らす不安を払拭するほどのものであったと推察できる。大阪から満州へ行く行程の大変さについて聞くと、「いえ、そんなに大変じゃないですよ、朝鮮まで船で行ったら、後はずっと汽車で行けますから。私は乗り物は苦にならないんです」とこともなげに話していた。そんなYさんだから、着物を着てパリへ行くなど夢物語ではなく、今の時代ならたやすいことだったろうが、子育てや仕事、社会的な雑多の用事に追われているうちに行く機会を逃したのかもしれない。いやもっと行けない他の事情があったのかも知れない

 

 99歳のお誕生日を迎えた頃からYさんはよく眠るようになる。夕食後も好きなテレビを見ることなくすぐにベッドに入る。骨ももろくなったようで、肋骨の自然骨折が起きる。本人の希望で以前に通っていた整骨院へ通っているうちに、3週間ほどで痛みが消えるが、本人は「そんなことがあったんですか」とすっかり忘れている。そのころからよく幻視も始まるようになった。「私の母は生きていて、時々この辺をとおるの」「私の部屋にさっきまで子供がいたけど、どこへ行ったの?」等の言葉が聞かれるようになる。Yさんの頭の中には現実の世界と過去の世界が線引されることなく一つになって存在しているようで、皆と話している時でも、急に、「おじさんもう帰ってきたの?」と言う。しかしそれにはYさん自身も戸惑う時があるようで、「お母さんも死んでへんし、子供らも生きているし、どないなってるんやろう」と言う時もあったが、わからないことは必要以上に悩まず、後は神様にお任せと言うのがYさんらしい生き方で、自分の変化を受け止め、乗り越えているように思えた。

 

 認知症状はますます重症化していくYさんだったが、知的好奇心は失っていなかった。桜の季節に、ソメイヨシノはアメリカが原産地であることや、ワシントンにも櫻があることを皆で話していると、「ワシントンにも桜があるの?」と興味津々のようす。またスタッフが旧漢字の櫻を「2かいの女がきになる」と憶えたと言うと、大笑いし、何度も聞き返し、その度に「面白い」と笑った。また、ヘレンケラーの生涯を紹介した番組を見たスタッフがその感想を話すと、Yさんは、「昔、中の島公会堂にヘレンケラーが来て公演を聞きに行きましたよ。眼も見えない、耳も聞こえない、そんな人が、皆の拍手を波動で感じることに驚きましたっかりと自分の感想を言った。Yさんは、殆どが全介助で会話ができない人の所へ行って手をさすり、話しかけることがよくあった。

 

 世界音楽紀行と言うクラシックを聞きながら、世界の名所を映像で流していくDVDをかけている時、「こんないい音楽を聞いていると、胸がキュンとなります。外国へ行きたかったけど、もう無理やね」と少し残念そうだった。切望していた外国行きを諦めざるを得ない事情もいろいろあったのかもしれない。

 

 平成29年1月、Yさんは100歳の誕生日を迎えた。子供さんやお孫さんからもお祝いの品が届き、ホームでは大好きな握りずしやケーキでお祝居をする。この日はさすがに「私は今何歳?」と聞くことはなく、「100歳だなんてねえ」と感慨深げであった。100歳になった感想を聞くと、「昨日と変わらないし、どうってことないもんやね」と言う。その率直で素直な感想がYさんらしくて、スタッフも、さすが100歳になれる人はちがうと笑ってしまった。今の夢を聞くと「着物を着てパリの街角に立って、日本の素晴らしさを伝えたい」と、以前と同じように答えた。

 

 100歳になって、Yさんが大きな決断をせねばならぬできことがあった。それは、長い間空家になっていたYさんの家の売買話が出た時である。息子さんと関係者の方がYさんの意見を聞きにくると、Yさんは、「私は今、ここで幸せに暮らしていますし、最後までここに居らせてもらおうと思っています。家はもう売って下さい。いつまでも空家を置いていると、近所の人にも迷惑をかけるかもしれないし」としっかりと自分の考えを伝えた。

 

 時が経つにつれて、Yさんは過去の世界へと戻って行き、現実の生活が現実感のないものとなっていく。

朝おきがけに、「何で私はここにおるの?」「この部屋にはなんとなく見覚えがあるけど」と不審そうに言う。職員が説明すると、職員の顔には見覚えがあるようで安心するが、納得するわけではない。リビングに来てもらいお茶を飲んだり、おしゃべりしたりしているうちにここに住んでいることを思い出す。昼間でも隣に座っている人に、「私ら何でここにいるんやろね」と聞くことがあり、隣りの人も「わからへんねん」と答えたりする。お互いに名前は知らないが、顔は旧知の間柄なので安心している。

息子さんたちが面会にきても誰か分からないようだが、名前には覚えがあるようだ。お孫さんが一緒にくると、お孫さんの方を息子さんだと思うようで、何度も「○○ちゃん(息子さんの名前)やろ」と確認しようとする。Yさんの頭の中の息子さんはずっと若いのである。

 

 それだけ周りの現実が判らないことだらけになっても、Yさんは比較的穏やかで、「家に帰る」と言ったり、落ち着きなく動き回ることはなかった。Yさんは基本的に人を信頼できる人で、スタッフのことも、(何か判らないけど、この人達が私に悪いことをするはずがない)という信頼感を持ってくれていたように思う。

 

 平成30年に101歳の誕生日を迎えてから、Yさんは認知症の症状がすすむだけでなく、身体能力や生活能力も急激に低下していった。自分でトイレに行くものの失禁が多くなり、トイレの使い方がわからず、手前でズボンを脱いで床を濡らしたり、便座に座っていても「何で私はここに座っているの?」「おしっこ?でたかどうかわからない」と言うようになる。101歳を過ぎて初めてパットやリハビリパンツを使用するようになった。歩行も不安定になり、手すりを持って歩いていても、膝ががくっと折れそうになるため、移動の時は職員の見守りや一部介助が必要になる。部屋で自分で移動し何回か転倒があるが、骨折には至らなかった。ベッドに上がる時も膝を使って登ろうとする。食事の仕方も忘れてきて、お箸やスプーンを出してもどう使っていいか判らないようなので、手に持たせると思い出す。手の運びもなかなかスムーズにいかずこぼすことが多くなった。できるだけ自分で食べてもらうために、ご飯に小さく刻んだおかずを混ぜて小さいお握りにすると、手で食べることができた。この頃よりおしぼりを口に入れる行為も始まる。咀嚼、嚥下機能も低下したため、しばしば誤嚥性肺炎を起こして熱が出るが、本人にはそれほどの苦痛の様子は見られず、2日ほどで熱は下がる。次第に固形物が飲み込めなくなり、7月末からは、ミキサー食、トロミ食に変更する。座位も長時間はできなくなり、30分もすると、体が下にずれていったり、身体が後ろへ反っていくため、臥床の時間が多くなる。

 

 身体能力低下や認知症の進行で、Yさんの生活状況はどんどん変化していったが、Yさんの生き生きとした好奇心や感動する心が失われることはなかった。自分の居場所や年齢は判らなくても、小林一茶の句を読んであげると笑顔になり、「いい句やねえ」と感動し、啄木の歌を読んであげると「涙がでるね」と感動する。相田みつをの「しあわせは いつもじぶんの こころがきめる」と言う詩を読むと、「みんなで、今日一日は幸せでいましょう」と笑顔になる。音楽療法で、大きな鯉のぼりを揺らした時は、「わあ」と歓声をあげた。5月には柏餅づくりをし、アンコを丸めてもらうとなかなか丸まらなかったが、できた柏餅をみせると「嬉しい、ありがとう」と言い、美味しそうに食べた。

 

 7月22日にはたまたま中国の大学生が福祉の勉強の一環としてホームの見学に来る。Yさんに紹介すると、「嬉しい、この年になって、中国の人に会えた」と感激する。中国語で挨拶し、北京にいたことを話して、昔の住所を思い出そうとするが、思い出せない。学生さんが帰ってからも少し興奮気味で、この頃はほとんど臥床しており、食事も「皆に気を遣わせるから」と部屋で摂っていたが、「起きて見たい」と言い、リビングで食事をする。これが、Yさんがリビングで食事した最後の日だった。それは亡くなるひと月ほど前のことで、Yさんにとって中国の人と会えたこと、は人生の最後の大きなプレゼントだったように思える。

 

 7月末ころよりYさんの口から食べれる量はどんどん減っていった。それまでは普通食のメニューも食べ易くすれば3口ほど食べていたが、プリンやゼリー、ジェル、アイスクリームなどしか飲みこめなくなる。その量も小さじで23口で、「もう結構です、ありがとう」「それ以上は食べさせんといて」としっかりと自分の意思を伝える。

 またこの頃から、しばしば3738度台の熱が出るようになる。医師によれば「誤嚥性肺炎であり、これは老化によるもので防ぎようのないものです。Yさんの場合は今まで薬も飲まず自然に老いを迎えた結果なので、解熱剤で下げるよりもクーリングで下げる方が本人も楽と思います。今は、本人が食べたいもの、飲みたいものを、本人が摂取できるだけあげて下さい」と言う。Yさん自身にも苦痛の表情はなく、スタッフが今はどんな感じですかと聞くと、「痛いとか、しんどいとかはないです。幸せです」と言う。介護を受けた時は必ず「ありがとう」と言い、ベッドで目が覚めるとラジオから流れてくる大正や昭和の唱歌や歌謡曲、民謡などを聞いていた。

 

730日、朝バイタルを測ると手が冷たい。SPO280台であるが、手を温めていると、90台に回復する。苦痛は見られず、穏やかに目を瞑っている。昼食前に訪室すると、目を瞑ったまま、「ここは地球やな、別の地球や、きれいやなあ、歩いてきたらここに来た。不思議やなあ」「どれほど離れているかわからんけど、広くて、きれいなとこや、長生きして良かった」と言う。その後、目を開き、「戻ってきたわ。浦島太郎みたいや」と言う。Yさんの魂が、どこかを自由に旅してきたように思えた。

 

82日朝のバイタル測定時に、「今日は朝からいろんな声が聞こえてくるんやわ、あっちから何か言ってくるねん」と言う。バイタルは安定している。フォークダンスの曲がラジオから流れると、何か手を動かしているので、ダンスですかと聞くと、「昔、うちの町内でもやっててんよ」と言う。午後からは音楽療法があるが出席できなかったので、先生が二人部屋に来てくれて、一緒に「故郷」を歌う。Yさんも小さな声で唱和した。以前からYさんは、この歌の3番を歌うと母親を思い出して涙が出ると言っていた。若い頃、夢を持って故郷を離れ異国の地で暮らしている時、Yさんはお母さんを思い出し、故郷の歌を口ずさんでいたのではないだろうか。

 

86日の朝、スタッフが訪室すると何かしきりに手を動かしている。しんどいですかと言うと、「今、みんな集まっているんよ、お母さんも、兄弟も、お父さんもいたと思うけどなあ、どこへ行ったんやろう」と言う。その時は血圧が104/47、脈89SPO291とまあまあの数値で大きな異変はなかったが、昼過ぎにSPO278と危険な数値になったために、息子さんや医師に報告する。37度台の発熱もある。医師が来た頃にはSPO290台に上昇し、皆が安心する。この日からは毎日微熱が続き、クーリングが外せない。SPO290を切ることがしばしばあるが、また回復するという状態が続く。

 

 翌日から2日間は関東に在住の次男様ご家族が面会にこられ、2日間ほど一緒に過ごす。Yさんも「来てくれはったんや」と喜ぶ。帰られた後、スタッフが「良かったですね」と言うと、「また会えるね、人間ていいね、また会えるね」と言う。

 次の日は長女様が横浜から面会に来られる。最初にホームに入所の相談に来られ、その後も毎年に何度か面会に来られ、姉妹のように話しが弾んでいた。Yさんのそばで半日過ごされ、帰られる時に、「後は、本人次第ですね」と静かに言われた。それは、Yさんの口調にとてもよく似ていて、「後は神様しだい」と言うYさんの気持ちを代弁しているように感じられた。

 

89日 スタッフが介護中に他の利用者さんの話をすると、「会いたい」と言う。一番よく話をし、中国語で一緒に金色夜叉も歌ったEさんに代表で会ってもらう。Eさんが握手すると、「力があるね」とYさんが言い、Eさんが「私は昔、金太郎っていうあだ名やってんよ」と言い、二人で笑いあう。

 

811日、亡くなられる1週間ほど前からは、昼夜傾眠状態が続くようになり、声かけすると「眠いわ」と言う言葉しか返ってこない。SPO290台で比較的安定しているが、血圧は100110台。時には測定不能になる。便がずっと出続けている。クーリングを外すとすぐに熱が上がる。比較的意識がしっかりしている時に、ジェルをすすめると、一口、二口飲む。

 

814日、朝の9時頃にスタッフが訪室すると目を開いており、「おはよう、いつまでも寝てたらあかんね」と言う。「今日は外は暑いので、ここでゆっくりしていて下さい」と言うと、「そお」と言う。その後、「ここはどこ?」と言うので、ホームの住所を言い、昔からYさんが住んでいた町で、近所には○○さんの家もありますよとYさんと付き合いのあったご近所さんの苗字を言うと、「知ってる」という。昼食にはゼリーを二口食べて「美味しいわ」と言う。その後はまた傾眠状態が続く。午後からは、初めて「しんどい」と言う言葉がYさんの口から出た。血圧は測定できず、脈は84SPO28090の間を行ったり来たりしている。あまり良い状態ではない。熱はない。看護師が背中と腰に手を差し込み動かすと、「気持ちがいい」と言う。夜間にはSPO270台に下がることがある。

 

815日水分を口に入れると、口は開けてくれるが、喉の奥まで持って行くことができず、口の中でたまったままで、外にこぼれる。介助者が口を閉じてあげて、顎を少し上向きにすると、ごくんと2口ほど飲めた。ミカン味のジェルで「美味しい」と小さな声で言う。SPO27090台だが、70台になることが多い。オムツ交換時に何か言っているが、小さくて聞き取れない。「あぶない」「ありがとう」「すみません」と言っているようだ。

 

816日長男様が面会に来られる。呼びかけに声は出ないが、口は開く。昨日同様、水分摂取も難しいが、好きだったコーヒーを一口に入れてあげると「美味しい」と言う。長男様に、会わせたい人でまだ会えていない人がおられたら、会わせて下さいとお願いする。

 

817日長男様ご夫妻が来られる。長男様の奥様は長年の持病で体調を崩されることが多く、Yさんとはしばらく会っていない。昨夜から傾眠が続き、声かけの反応もあまりなかったため、奥様を認識できるか心配していたが、ご夫妻の呼びかけに返事し、頷いたという。もう口に入れるものは一切拒否し、口を開けないので、唇を湿らせるだけにする。37度台の微熱があり、血圧は測定不能。SPO27080台。ずっと傾眠状態が続く。

 

818日傾眠状態が続き、SPO270台。声かけすると、口が少し動く。肩呼吸、下顎呼吸など苦しそうな呼吸は見られず、穏やかな表情だった。入浴日なので、体を清拭する。12時のおむつ交換時には、両足指にチアノーゼが見られる。その後、他の利用者の食事介助や移動を終えて、13時頃にスタッフが訪室し、名前を呼ぶが反応がない。SPO2を測ると、60台から、504030と急激に下がっていき、そのまま眠るように呼吸停止となる。主治医や家族に連絡し、その後に医師の死亡診断がある。

 

 診断の後に、看護師とホーム長で、エンゼルケアと化粧をすませる。Yさんの旅たちの装いは薄紫の小紋の着物で、色白のYさんによく似合っていた。Yさんはすべてから解き放され自由になり、「ではまずパリへ行ってみよう」と笑顔で旅立ったように思えてならない。

 

 

 

(文:西田 広子)

 認知症は次第に進行していく不可逆的な病気であり、認知症になったということは人生の終末期にさしかかったということでもある。ホームに入居した利用者さんたちは、自分が何か変わってきた、今までできたことができない、わからないといった漠然とした不安を抱えて生きている。

 しかし、周りの人たちがそんな自分を暖かく受け入れてくれている、自分を必要としてくれているという実感が感じられれば、「年やから仕方ないわ」「わたしボケてるわ(と笑い)」「ありがとう、お願いね」と、自分のできなくなったことを受け入れ、周りの援助を受け入れ、次第に穏かな生活を送れるようになる。

 当ホームに入所された利用者さんのほとんどは3か月から半年でホームの生活に馴染み、穏かに日常を送るようになる。ただ最後の最後まで苦しい葛藤を抱え、亡くなる前にやっとその重い荷物を降ろす人もいた。そこに行きつくまでには家族や様々な関係者の協力が必要であった。そんな利用者さんの様子を、関わってきた介護者の困惑や迷い、模索しつつ歩んだ介護のあり方も含めて振り返ってみた。

 

 

 「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし・・・」

                    Sさん(女性93歳で他界)

 

 好きな言葉はと聞くと、Sさんは徳川家康の人生訓をあげ、それを紙に書いてくれた。【人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし 急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし 心に望みおこらば、困窮したることを思い出すべし 堪忍は、無事のいしずえ 怒りは敵と思え 勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば 害、其の身に到 己を責めて、人を責めるな 及ばざるは、過ぎたるに優れり】という全文である。

 ところが、Sさんの日頃の言動はその教訓とは真逆に近いように思えた。家で一人暮らしの時は通販で物を買いすぎて、部屋の中は通るのも困難なほど物が積み上げられ、他者に触られるのを拒否した。負けるのも嫌いで、食事を終えるのが前の利用者さんより遅かっただけで、「負けてしまった」と悔しそうだった。また自分の意に沿わない状況が起きると妥協や我慢という選択はせず、豊かな言語能力を駆使して自分はこうあるべきと思うと怒りを込めて抗議した。

 特に一人息子さんに対しては期待や要求が大きかったようで、面会のたびによく口論になった。Sさんには実の息子さんはおらず、赤ん坊の頃に養子にきた息子さんということだったが、そのことでも「主人が私の許可もなく勝手に連れてきた」ことにずっとこだわっていた。息子さんは毎週日曜日には手土産を持って面会にきて、来れない時は必ず電話があった。会うといつも口論になりになったが、息子さんが来た日の夜はSさんの表情は明るく穏やかだった。

 

 Sさんの主たる認知症の症状は夜間妄想で、夜になるとコールが鳴り、「男が窓から入ってきた」「大きな犬に囲まれて怖い」などと訴えることがよくあった。入居前はご主人が3年前に他界されてから独居だったが、夜中に消防署によく電話がかかり、「男が入ってきて大きな魚を何匹も置いて行って困っている」等と訴えがあり、息子さんに消防署から連絡がよく入ったという。主治医の診断ではレビー小体認知症であろうということだった。

 

 妄想はあるものの、記憶力や会話能力、文字を書くなどの知的能力が高く保持されていたSさんは、ホームに入居してからの適応力は高く、ホームの作業を手伝い、リクレーションにも積極的に参加した。特に歌は好きなようで、ボランティアの音楽の先生が来てエレクトーンで昔の唱歌を弾くと、懐かしさがこみ上げるのかよく涙を流した。Sさんの実家は裕福だったようで家にピアノがあったと言い、歌に合わせてピアノを弾くように指も動いていた。歌を聞くと、女学校時代のことやご主人と知り合った頃の楽しい思い出が語られた。

 

 息子さんが心配していた帰宅願望はあまりなかったが、たまに荷物を取りに帰りたいと言うので、近所にあるSさんの家に連れて行くと、散らかっている昔のままの家を見て「こんな所によう住まんわ」と苦笑いした。息子さんの配慮で家はSさんのいた頃のままにしてあった。

 

 入居から半年ほどは順調にホームの暮らしや人々にも馴染んでいき、夜間妄想も減り、穏かな日々が多くなったSさんだったが、半年を過ぎた頃から、イライラや不安な言動が増えてきた。排泄の失敗も多くなり、以前はトイレへ行く時にパットをポケットに入れていたが、それも忘れるようになった。特に寝起きは、「今が昼か夜かわからない」「何が起きたかわからない」と混乱してコールで職員を呼ぶ。食欲も今までは「美味しいわ」と言い、ほとんど三食完食だったが、「食べたくない」と拒否することも見られた。

 夜間妄想も再び多くなり、「男の人が入ってきて、犬に袋をかぶせて殺そうとした」「カーテンレールの上から物がおちてくる」「その辺に犬が死んでいる」など、内容も不安感の強いものになっていく。幻視もあるようで、「お父さん、なんでそんな長いコートきてるの」と壁に向かって長く話していることもある。

 目もみえにくくなったと言い、「私はアホになってしまった」「死にたい」などの言葉も聞かれる。

 

 主治医の話では、身体的には特に変わりなく、精神的なものではないかということだった。認知症が少し進行し、体の動きも低下してきたことがSさんに強い不安を与えているのかもしれないと職員間で話し合う。妄想や不安が強い時は職員がそばで話をしたり、身体をさすったりすると落ち着くことから職員はできるだけそうした関りを持つように努める。

 

 さらにSさんは足の痛みも訴えるようになった。入居時より足裏にタコがあったり、外反母趾もあり、冬になると指先の血行不良などがあるために、看護師によりそのつど必要な処置を行っており、今まではそれほど痛みが持続することはなかった。

 

 医師の診察日に、「足が痛むので歩けない」と訴えるが、医師が帰る時に自分で痛そうな表情もなくドアを閉めにきたので、医師より「足が痛いと言うのは、何か他のことを訴えているのではないかもしれないので、観察してください」と指示がある。

 

 その後も、足の痛みの訴えはだんだんエスカレートしていき、特に夜間は、「足が痛いから殺して」「救急車呼んで」「窓から飛び降りてやる」等の激しい言葉も出るようになった。ベッドから降りて床に寝ころび、頭を床に打ち付けたり、杖で床をドンドン叩いたりする。痛み止めを飲んだ後はしばらく静かになるが、短い時は20分もするとまた「お薬頂戴」が始まる。4時間は開けるようにお医者さんに言われてるのでと言うと、また激しい言動が始まる。

 そんな状態が数時間続くが、明け方から静かになる。朝になると自分からエレベーターで降りてきて、「昨夜は騒いですみません」と言ったり、自分から玄関先へ行って日光浴したり、好きな歌のリクレーションに参加し、歌を聞いて涙を流したり、「ここにおれて幸せやな」と言う言葉も出てくる。

 

 そんなSさんの状況について主治医からは、「痛み止めの薬があまり効果がなく、本当にそれほど激しい痛みがあるとは思えないので、精神病院の受診や抗精新薬の服用を検討しては」と言われる。しかし職員の対応によって穏かになることもあるので、もう少し様子をみてみたいとホーム長から主治医に告げる。と言うのも、Sさんが最近職員に、幼少期の壮絶な辛い思いを時々語るようになったからである。

 

 Sさんの実家は雇人がたくさんいるような大きな商家であったが、いつのころかからか父親が覚醒剤を使用するようになり、母親に暴力をふるうようになったという。ただ一人の兄弟だった兄は精神病になり、飼い猫を殺したり、仏壇を叩き壊したこともあるとSさんは話し始めた。Sさんも父親から覚せい剤を飲まされそうになったが断ったと言う。

 妄想の多いSさんだが、おそらく幼少の頃に家族間で相当怖い思いをし、それがトラウマになっているのではないだろうかと思われた。自分が記憶力が衰えたり、昼夜を間違えるようになった時に、Sさんは「自分も兄のように気が狂うのではないか」と言った。

 

 そんなSさんの気持ちをもっと深く理解するために、職員間で「ひもときシート」を使い、Sさんの言動の背景や原因、問題解決を探ってみた。その結果、Sさんの夜間の言動の背景には、自分の心身の低下の不安に伴い幼少時の受けた恐怖や不安なども浮かび上がり、「私はどうなっていくの、怖い、一人で死ぬんじゃないか、淋しい、誰か助けて」と言う、追い詰められた叫びたい気持ちがあるのではないだろうかということが、職員間で共有できた。

 従って職員の接し方としては⓵パニック状態の時は子供に返っており、言葉による説得や励ましは効果はなく、ひたすら本人の気持ちを聞き、その不安感を理解し、スキンシップや痛いところをさすってあげるようにする。②鎮痛剤は本人の希望に応じていつでも出せないので、医師と相談し偽薬のビタミン剤を本人の要求に応じて出す⓷本人の好きな歌の時間にはできるだけ参加してもらい、気持ちが楽になる時間を持つ。等の問題解決方法が話し合われた。

 

 ひもときシートの結果を職員が共有し、実施したところ、Sさんの夜間の激しい言動が少しずつ落ち着いてきた。そして今までは見られなかった甘えの言動が現れ始めた。「トイレに一人で行けないから連れていって」と言い、手を繋いで一緒に行くと表情が柔らかくなる。時にはわざと転んだとしか思わないように床に座り、「起こして」と言う。そんな時の痛みの訴えはない。時々、「殺して」「自殺する」「きちがい病院へ送って」と言う言葉がでるが、職員が手や背中をさすりながら話を聞いていると、落ち着いて穏かになり、痛いとも言わなくなる。

 Sさんが背負っていた人生の重い荷物であった幼いころの父や兄のDVによるトラウマは、周りの人に傾聴し理解してもらっていると思うことで軽くなったように思えた。

 

 Sさんはリクレーションにもまた積極的に参加するようになる。歌の時間に職員がハーモニカを拭くと、「私にも貸して」と童謡を演奏し、女学校時代に覚えたフランスの国家も言語で歌ってくれた。Sさんは職員の名前を全員憶えており、字を書くのも上手なので、職員の出勤ボードに名前を書く仕事をしてもらうようお願いする。「私の力を試すんやろ」と言いながらも、毎日機嫌よく書いてくれた。足の痛みは夜間に時々訴えるが、偽薬のビタミン剤を「ありがとう」と受けとり、それを飲んで治まるようだった。

 

 Sさんは食欲も戻り、他の利用者さんにも優しい言葉をかける光景もよく見られた。毎日一番早く起きてくるので、十五夜の残り月を見てもらうと「生き残りのプレゼントやわ」と感動した。10月の誕生日の日は「こんな美味しいもの食べ残したら損や」とケーキを完食し、暮れには上手に息子さんに年賀状を書き、元旦のお節料理はゴマメや叩き牛蒡まで食べつくした。七草がゆを食べた時はお代わりをして「生きていて良かった」と言い、十日えびすの鯛焼きは「たら福たべた」と駄洒落も出てきた。観梅や花見の外出には参加しなかったが、散歩がてらの近所の桜を見て「きれいなものを見せてもらった」と喜んでいた。

 

 Sさんが再び体調不良を訴えだしたのは、4月の終わりころで、初めは食べ物が食べにくいので入れ歯をもう一度作って欲しいと言った。歯科医からは、高齢なのでなかなか歯茎に添うように作るのは難しいし、また左半面麻痺もありほっぺたを噛む可能性があると言われるが、本人のどうしてもという強い意向があり、医師も完全に合う保証はないが何とかやってみましょうと作ってくれる。ただやはりしっくりこないようで、食事中にはよく外していた。今までほとんど完食だったSさんが、食事をよく残すようになった。

 

 6月に入ると足の痛みも再び訴え始めたが、昨年のように激しい言動は起こらない。7月に入ると腹痛を訴える日があり、看護師により浣腸する。翌日は痛みはなく食事を完食する。医師の診断では、腸閉塞ではなさそうなので胃潰瘍かもしれないとのことで薬が処方される。Sさんは食事量がどんどん減り、次第に摂取できなくなる。3口ほど食べると、「もう要らない」と言う。シャーベットを食べてもらうと、初めは「美味しい」と食べていたが、2回目は「もう要らない」と言う。水分だけは1日500^700㏄ほど摂れる。水の代わりにOS1を飲んでもらうが、「真水がいい」と言い、水を飲んでもらうと「変な味がする」と言う。

 

 入居時に、「口から食べれなくなったら延命治療はしない」という本人と家族の意思は確認していたが、主治医が家族にあらためて延命治療の有無を確認する。

 

 1週間ほど食べられない日が続くが、本人の意識はしっかりしており、日中は「ここでよくしてっもらったから思い残すことはありません」「お父さんはいい人で私は幸せでした」「息子には感謝している」「私が死んだら後を頼みます」などの言葉が出るが、夜になると、何度もコールがあり、「猫が犬に嚙みついた」「時計がない」「足が痛いから救急車呼んで」等の言葉が続く。

 本人の中でも死に対する恐怖や不安や混乱があったのだろう。カトリック系の女学校に通っていたというSさんは、時には胸の上で十字を切る仕草をしたので、マリア様のを描いた絵画の本を買い見えるところに置くと、うんうんと頷いた。

 

 7月9日には音楽の先生が来てくれたので声かけすると「行きます」と言い、大好きな「夏の思い出」をリクエストする。聞きながら涙ぐむ。少しいて疲れたと言い居室に戻ると、「先生のピアノを聴けて嬉しかった」と言った。

 

 Sさんにはもう一つまだ下ろせないでいる心の荷物があるように思えた。それは息子さんの奥さんとの間にある葛藤だった。

 Sさんが何度も繰り返し語っていた話の中に、「主人がある朝家で急にテーブルの下にうずくまっていたので、そばにいる息子に救急車を呼ぶように頼んだが、嫁が息子の手を掴んで電話させずそれが原因で亡くなった」という内容のものがあった。ご主人は実際には病院で最後を迎えたようだが、Sさんの話はいつも一言一句同じで、その朝の情景をまるで昨日見たことのように話す。事実を知らない人は信じてしまうだろう。

 このように妄想を一言一句間違わずに繰り返すのは大脳基底核変性症の人によく見られるオルゴール症状だと医師が説明してくれたが、そのような妄想が生じる背景には、Sさんと息子さんの奥さんとの間に何かの深い葛藤があったのだろうと思われる。息子さんの奥さんからの面会も電話も一度もなかった。

 Sさんのように知的能力が高いのに妄想が強い人の場合、親子でも絶縁関係になっていることがよくある。妄想があまりにも整然と語られ、本人も記憶力はしっかりしているために初期の頃には周りにはあまり認知症と認識されず、近親間に回復できないような深い溝が生じてしまうのではないだろうか。

 

 Sさんが口からほとんど食事を摂れなくなって2週間過ぎた頃から、尿量が減り、最大血圧が100を切ることが多くなった。18日に医師の診察があった時は傾眠状態であり、「今日か明日か、または本人の力で持ち直すかもしれませんが、今の段階で医療的にできることは、痛みがあればそれを抑えることしかありません。水分は口が渇かない程度にしてあまりとらない方がご本人には楽だと思います。ご家族に亡くなられる時期は近いので会わせる人があれば会わせて下さいと伝えて下さい。そして呼吸が停止したら医師に連絡してください」と座薬の睡眠剤と痛み止めだけが処方される。

 

 自然に逝く人は医師にすら引き止められないのであれば、介護職の仕事はその人が安楽に過ごせるように配慮し、心が休まるように見守ってあげることなのだろう。医師の言葉で介護する私たちの役目もはっきりしてきた。

 

 診察後もSさんは傾眠状態が続き、手足はぐったりしていた。口が渇いているので水を含ませると何とか一口飲み、「もう何もいりません、ありがとう」と言う。

 しかし、その翌日の明け方嘔吐があったのでパジャマを着替えさせていると、突然目を開けて「お水ちょうだい」と力強い声で言った。水を吸い飲みで3口ほど飲むと、「便がしたい」と言う。自力ではでないので看護師が浣腸すると、久しぶりに7cmほどの便が出て、本人報告すると喜ぶ。その後も医師の言葉とは裏腹に、復活したかのようにコールがよく鳴り「トイレに行きたい」と言う。しかしトイレに座ってもらってもすぐに体が横に倒れてしまうので、ベッドでしてもらうようにお願いすると納得してくれた。

 

 19日には、初めて息子さんの奥様が面会に来られた。Sさんと二人で半日一緒に過ごし、見守りをしてくれた。帰った後で、職員が「良かったですね、お嫁さんが来てくれて」と言うと、Sさんは無言だったが表情は穏かだった。

 翌20日に息子さんが来て、昨日より元気になっているのに驚く。「でもまた急に悪くなるかもしれない」と話していると、目を瞑りながら「まだまだ大丈夫」と本人が大きな声で言うので、みんな笑ってしまう。唇にはチアノーゼが見られたが、体変換するとまた消えたりする。

 息子さんが帰る時に大切にしていた金の指輪を外し、「これあんたにあげるから持っといて」と言った。物品に対する確執の強い以前のSさんには見られない言葉だった。 

 

 21日には、息子さんご夫婦と、お孫さん、ひ孫さんたちが揃って面会に来る。本人から話すことはなかったが意識はあり、話しかけられると頷いていた。ご家族が帰った後でホーム長と二人になった時に、Sさんは「死にたい」と小さな声で言った。精一杯の気力で頑張ってきて、もう力の限界を感じたように聞こえた。「もういいんですか、心残りはないんですか」と聞くと、「うん」と頷いた。それが最後の言葉だった。Sさんは重い重い人生の荷物をおろし、怒りも憎しみも心残りもなく、やっと楽になったように見えた。

 

 それから夜にかけて足の裏にもチアノーゼが見られ、呼吸数は1分間に30回と早くなり、呼吸が苦しのか両手を胸に置いたり、ベッドに置いたり始終動かしていた。20時頃から2時間ほど寝息を立てて眠っていたが、22時30分に下痢便があり、その後はまた呼吸が苦しいのか手を体の上に置いたり、ベッドの下に置いたりした。

 23時頃から呼吸の仕方が変わった。呼吸は早く、下顎呼吸になり時々舌を出す。夜勤者から家族、ホーム長、看護師に連絡する。

 ホーム長や看護師がきて呼びかけても返事はない。最高血圧は100台を保っているが、SPO2が下がり80台になる。37度台の微熱も出始めた。23時40分には、SPO2が70台、60台と下がっていく。そして最後に大きく息を吸いこみ、目を開き、目と口を閉じる。23時49分に看護師が呼吸停止を確認し、医師に連絡する。

 その後に家族が来られて、まだ生きていると思い声をかけた。本当に眠っているような安らかな顔だった。0時49分に医師の死亡診断があり、看護師が旅立ちの支度をする。

 

 Sさんが「私が亡くなったら着せて欲しい」と言っていた、青地に蝶の紋を染め抜いた浴衣を着せる。Sさんの実家の紋で、女性がそれを身に着けるのだと聞いていた。Sさんは一晩ホームで過ごし、翌日ホームの皆に送られて旅立たれた。

 

(※当日の夜勤者M職員の感想―自然死の本を読んだり、食べられなくなってからの様子をずっとみてきたので、最後の日も気持ちが動転したり不安になることはなかった。呼吸が苦しそうだったのは最後の30分ほどで、穏やかに最後を迎えられたと思う)

 

(※作者名の前のSはスタッフ、Rは利用者さんの印です。利用者さんの言葉を575にし、川柳や俳句にしてみました)

 

ー川柳の部ー 

 

 寝なさいと 電気消される 夜勤かな  ーS笑むー

                

            

 苗字より 名前で呼ぶと 返事あり  ーSゆきのりー

 

 返事あり それが今日のトピックス  ーSまりこー

 

 同じ年? と聞かれ失礼ね とも言えず  ーSかなえ

 

 五本指 履かせて一本 指余り  ーSひろこー

 

 引き出しで 電話器見つけ 大手柄  ーSみちよー

 

 

 雛祭り 白酒飲んで 紅ほっぺ  ーSいちごー

 

 梅を見て 桜餅食べ 春を知る  ーSいちごー

 

 ああ美味し 思わずとび出す この言葉  ーRコスモスー

 

 毎食を スッキリこっきり 食べてます  ーRコスモスー

              

 

 百歳と聞いて自分がびっくりし  ーRきみこー

             

 

ー短歌の部ー

 

 記憶よりペンネームふとい出し この幸せは我のみぞ知る

                                                            ーRコスモスー

 

 わが吾子の黒き瞳の可愛さよ ああ我のみぞ知る幸せよ

                                                            ーRコスモスー

 

 我見よとばかりにホームに花咲きて 人の温もり思う春の日

                                                           ーRコスモスー

 

ー俳句の部 春 ー

 

 たんぽぽや学校帰りに友と積む  ーRきみこー

 

 梅の花ただただきれいに咲いている  ーR千恵子ー

 

                                                            

 

梅を見て飲むコーヒーの美味しさよ  ーRiwaoー

 

 もうひとつお代わりしたい桜餅  ーRコスモスー

 

 桜咲く池田小学校を思い出す  ーRれいこー

 

 

 M様(享年90歳)
 Mさんは87歳でさんふらわぁに入所され、90歳で当ホームで自然死を迎えられた。来られた時は介護度4で、認知症のために言葉をだいぶん忘れており、会話は噛み合わないこともしばしばあった。しかし、目があった時のMさんは、相手のすべてを受け入れるような満面の笑顔を向けてくれた。Mさんの目は、「私はあなたに関心があるの」「あなたと話がしたいの」「あなたは今どんな気持ち?」「あなたと楽しい時間を持ちたい」と無言のうちに語りかけてくれる。

 昔、学校の先生をしていたというMさんは、散歩の時など気分がいい時によく歌を歌った。特に好きなのが「浜千鳥」で、その美しい歌詞ともの哀しいメロディは、Mさんの澄んだ高温の声とよく調和していた。どうしてMさんが浜千鳥の歌が好きだったのか定かではないが、想像すると、親を失くして彷徨う小鳥の内容が、Mさんの母性を深く揺さぶったのかもしれない。たぶんMさんが先生をしていたのは終戦の頃であり、教え子の中には親を失くした子供たちもいたのだろうと思われる。Mさんのすべてを受け入れるような笑顔もまた、その深い母性が醸し出したものかもしれない。

 Mさんは、若い職員が介助する時に、「可愛いねえ」とよく頬を撫でていた。職員も介助しながら、Mさんの笑顔に癒されることが多かったが、自分の意に添わない介助、例えば眠たい時におむつ交換などをした時は、とても怒って抵抗するという強い意思も持ち合わせていた。Mさんには息子さんが一人、娘さんが二人いたが、ご主人も含めて、Mさんのことをとても愛しているのが、面会の様子でよく感じられた。娘さん達は、「私たちはみんな母親が大好きなんです」と言われた。

 そんなMさんにも、心身の高齢化による体力の限界が近づいてきた。その初めの兆候が、血液検査のアルブミン(血液中のタンパク質)の減少である。Mさんは食べるのが好きで、食事はいつも「美味しいねえ」と言いながらほとんど完食していた。それでも身体の方は栄養を吸収できなくなってきていた。主治医から家族に話があり、家族は何とかMさんに元気でいてもらいたいと、高栄養のサプリメントを毎月届けてくれた。Mさんはその思いに応えるように、筋力が低下してきた手でお茶碗とお箸を持ち、「美味しい」と一生懸命食事をとっていた。しかし心身の機能は次第に低下していき、1年後には、嚥下が困難になってきた。

 ミキサー食はもとより水分さえ摂取するのが難しくなったのは、逝去されるひと月ほど前だった。主治医より「このままだと余命は後1週間ほどなので、家族に延命治療をしないことについて再確認したい」との申し出がある。長男さんより、ご家族の話し合いの結果延命治療はしないという意思表示がある。この問題については長男さんは以前から本人の意思が確認できないためにずいぶん悩まれていたが、主治医に「もし自分ならどうしたいと思われますか」と聞かれて、はっきりと「延命治療はしたくない」と言われ、決断がついたようだ。

 「本人が食べたいものを、食べられるだけ口に入れてあげて下さい」という医師の指示で、いろいろな食べ物や飲み物を試みたが、Mさんは2,3口は何とか飲み込むが、後はいつまでも口に溜めたままである。そんな状態でもMさんは職員の声かけには笑顔で応えてくれた。

  ある日、娘さんがMさんが大好きだったというピオーネを持ってお見舞いにこられた。昼食時でリビングに座っていたMさんを見て、娘さんは、「ずっと寝たきりだと思っていました」と喜ばれた。Mさんは傾眠状態でなかなか食事を摂取できない状態だったが、娘さんが、「お母ちゃん」と呼ぶと、フッと目が開き笑顔になった。娘さんは涙ぐんだ。

 その夜、夜勤職員が、水分を摂れないMさんに、たぶん無理かもしれないと思いつつ、ピオーネをミキサーにかけて食べさせてみようと試みた。「娘さんが持ってきたんですよ、お母さんが好きだからって」とすすめると、Mさんは口を開き食べ始めた。その後も自分から口を開き、合計20粒ほども食べて職員を驚かせた。ただ、翌日は痰がよく出て、Mさんはもう食べようとしなかった。

 スタッフは、娘さんの持参したピオーネをMさんに無理なく食べてもらう方法を話し合い、その結果、ミキサーにかけて濾して粒々をなくし、凍らせてシャーベットにしてみた。それを少しずつMさんの口に入れたところ、Mさんは咽ることもなく、美味しそうに飲み込んだ。その後も自分から口を開けてくれた。逝去される⒑日ほど前のことである。

 その後、Mさんは他の物は口にしないが、ブドウシャーベットだけは食べてくれた。メロンも好きであると言うことが判り、Mさんの食事はメロンとブドウのシャーベットになった。1回で食べる量は50㏄程度だが、「美味しい」と言う言葉も出て、笑顔になる。多い日はトータルで500ccほど摂取してくれる。昼夜とも体は楽そうで、表情も穏やかだった。座位もとれるために入浴もしてもらう。入浴中も「ありがとう」と職員にはっきり言ってくれた。
 
 亡くなられる1週間ほど前にも、娘さんがいつものようにピオーネを持ってお見舞いにこられた。帰られる時に、「今日はよくお喋りしてくれて嬉しかった。皆で仲良くしてねと言って、まるで以前の母に戻ったようなしっかりした口調でした」と言い、涙ぐまれた。

 その3日後に、Mさんは37度台の熱を出したが、苦痛の表情は見られなかった。職員が昼ごろ訪室すると、じっと窓の方を見ている。「どうですか、しんどくないですか」と声かけすると、涙ぐみ、「ありがとうございます」と言った。解熱剤の処方で夜間は発熱もなく安定していた。ただ、葡萄シャーベットは1個か2個食べるが、「もういい」と言う。夜勤職員がご主人の写真を見せると、手で撫でていた。ベッドの見える所に置いておくと、じーっと見つめて涙を流した。

  翌日、長男さんに家族の写真を持ってきてもらうように電話を入れると、すぐに持ってきてくださった。長男さんをしっかり見て頷く。「助けてもらって・・・」と言うような言葉も聞かれた。その後も、目が開いている時はベッド柵にかけてある家族の写真をじっと見ていることが多かった。

 Mさんはその後は葡萄シャーベッドを食べる量も減ってきて、1日のトータルで150㏄ほどになる。2口、3口食べて口を閉じる。「もういいんですか」と聞くと頷く。「しんどくないですか?」と聞くと、「大丈夫」と答える。傾眠状態が多くなり、37度台の熱が再々出る。そんな時でも長男様が面会に来られると笑顔で挨拶する。職員の声かけには笑顔で応えて、手を握ると握り返してくれる。パット交換時などはしきりに「ありがとう」を繰り返す。

 亡くなられる前日には、久しぶりに食欲が戻り、プリン1個と葡萄シャーベット120㏄食べる。看護師より、顔貌が変化してきており、鼻、手足が冷たく白っぽいので様子観察を密にするようにとの指示がある。ただ表情は良く、バイタルは正常値なので、入浴をしてもらう。入浴中に職員が「どうですか」と聞くと、「ええよ」とニッコリ笑った。昼ごろにメロンシャーベットを60㏄食べるが、それからは傾眠状態が続く。夜間は目が開いていても意識がぼんやりした感じで、視線も1点を見つめて動かない。何回か声かけすると、少し目が動く。顔色も少し浅黒い。21時30頃に、少し肩呼吸のような感じが見られるが、よく眠っていた。SPO2は96と正常値。葡萄シャーベットは覚醒していた23時に1口、2時に1口食べる。もう1口すすめると首を横に振る。目を開けて家族の写真を見ているので、ご主人と二人写した写真も見せると、「ありがとう」と小さな声で言う。

 亡くなられる当日、日勤職員が出勤して来て順番に声かけすると、ほほ笑む。何か言おうとするが聞き取れない。訪問理容の日だったので、ヘアカットをしてもらう。リクライニングの車椅子であるが座位の保持はできている。顔は下を向いたままだが、気持ちよさそうな表情だった。その後、葡萄シャーベットを2口摂取し、入眠する。13時 パット交換し、名前を呼ぶと「朝?」と聞くので、もう昼ですよと答えると微笑んで頷く。ベッドの傍に置いたCDデッキから唱歌が流れているので、「歌好きですか」と聞くと、「はい」と言う。笑顔が出るがいつもより弱々しい。16時10 体熱感があるのでバイタルを測定。熱は36.5、血圧は121/73、脈は65、spo2は95と正常値の範囲内。声掛けには頷いてくれる。葡萄シャーベットを少し口に含んでもらうが、喘鳴音があるために中止する。17時20分 訪室すると顔色が少し悪く、肩呼吸が見られる。体温37.1 脈65 血圧153/64だが、Spo2は70と極度に低くなっている。呼吸数33/分 チアノーゼは無し。すぐに家族や関係者に連絡する。 「もうすぐ息子さんが来られますよ」という職員の声かけに、Mさんは声は出ないが口を開けて「はーい」と一生懸命答えようとした。しかしご家族が来られるのが間に合わず、17時53分に、職員に看取られながら呼吸が停止する。静かに眠っているようにしか見えない穏やかな表情だった。

 18時20分 主治医による死亡診断。死因は老衰。享年90歳。翌日、ホームの職員や利用者さんに見送られながら、大好きなご家族とともに帰路につかれた。
Mさん(享年96歳)

 Mさんは93歳の春にグループホームさんふらわぁ石橋入所され、96歳の夏にホームで最期を迎えられた。老衰による自然死だった。Mさんの印象といえば、いつも笑っているような細い目、「ありがとう、嬉しいわ」とことあるごとに口から出る感謝の気持ち、それと嬉しい時にいつも歌う「酋長の娘」という歌である。散歩に出てきれいな空や道端に咲く草花を見たり、皆でお喋りしたりして楽しい気分になった時には、Mさんは必ずといっていいほど、昔、ご主人と一緒に会社の永続勤務の記念旅行でアメリカに行った話を語った。その後で「♪私のラバさんは酋長の娘~、色は黒いが南洋じゃ美人~」と歌い始める。そして「♪踊れ踊れ踊らぬ者に~誰がお嫁にいくものか」という段になると、ソレソレと手を頭の上でひらひらさせて満面の笑顔で踊りだした。

 Mさんは自分から積極的に他の人に話しかける方ではなく、いつもニコニコと他の人たちが話すのを聞いていた。Mさんが自分から話し出す時は同じ話の繰り返しが多かったが、いくつかのパターンがあった。楽しい気分の時は、ご主人とアメリカに行った時の思い出、職員の介助や周りの人の優しさが嬉しかった時は、両親や子供の頃の思い出がよく語られた。「お父ちゃんは村の世話役で、お母ちゃんも面倒見が良くて、家にはいつも近所の子供がたくさん遊びに来ていた」「夏には円山川で泳いだり、魚をつかまえた」ことが何度も話された。また、故郷の話以外によく出てくるのが、自分の以前に住んでいた家がS中学校の近くであり、中学生が「おばちゃん、こんにちは」と言ってよく遊びに来た話をし、「可愛かったわぁ」と懐かしそうに言った。一方、普段は穏やかでいつも笑顔のMさんではあるが、他の利用者に注意されて気に入らなかったりすると「馬鹿にせんといて」と怒って言い返す気丈さも持ち合わせていた。

 そんなMさんがある日行方不明になった。職員2人がホームの利用者さんを5人連れて、近所の商店街へ行ったときのことだ。皆でホームに植える花を選んでいる時に、Mさんがいなくなった。Mさんは大人しく、歩行などの身体能力はしっかりしている人だったので、職員は介護度が重度の利用者に気をとられておりMさんがその場を離れた時に気付かなかった。皆が総出で1時間ほども近辺を探したが見つからない。そこで、近くのタクシー乗り場で立ち話をしていた運転手さん達に訊ねると、一人の運転手さんが同じ年頃で、痩せ型のおばあさんをS中学校の前まで乗せて行ったと教えてくれた。それはいつもM さんが話していた家の近所の中学校だった。Mさんはお金を持っていなかったが、一緒にいた若い男性がお金を払ったと言う。

 職員がMさんの以前に住んでいた家の近くに行くに駆けつけると、Mさんが若い男性に手を引かれて、自分の家を探していた。その男性に事情を聞くと、商店街で道に迷った様子のお婆さんがいたので声をかけると、S中学校の近くの家に帰りたいが道が判らないというので、自分もそちらの方面に行くところなので送ってあげましょうと言って、タクシーで一緒に来たのだという。ただ、家の場所がはっきりと判らないようなので、一緒に探していたのだと言う。職員は「良かった、会えて」とMさんに抱きつき、Mさんは「迎えに来てくれたの、ありがとう」と、ほっとしたような顔で言った。後日、その青年にはホーム長が会って、お礼を言った。

 その事件がきっかけで、娘さんからMさんが今まで語らなかった悲しい思い出を聞くことになる。Mさんの息子さんは中学校の時に、体育の時間に突然死されたと言う。MさんはS中学校の話やおばちゃんと慕ってくれた生徒たちの話はよくしたが、亡くなった息子さんの話は一度もしたことがなかった。また、Mさんには再婚歴があり、以前のご主人を若くして亡くされ、そのご主人との間に生まれた息子さんも幼い頃に夭折されたという。Mさんのいつも笑顔が絶えないような表情からは想像できないような悲しい過去のできごとである。しかしMさんの口から、辛い、悲しい思い出やその言葉すら聞いたことがない。いつも笑顔であり、いつも口にするのは、「ありがとう」「嬉しいわ」という感謝の言葉である。そして楽しい思い出を繰り返し噛みしめるように語り、気分が高揚すると「酋長の娘」を歌った。Mさんは辛く悲しいことを人一倍体験してきた。だからこそ、感謝や喜びも人一倍深く味わう事ができたのかもしれない。

 高齢ではあるが身体能力は高く、日常生活動作も自力でできることが多く、食欲もあり何でも「美味しいわ」と食べていたMさんだったが、96歳になった頃から食事をよく残すようになってきた。食欲の低下だけでなく、麺類などは食べ方が判らないようで1本ずつ食べ、すぐに箸を置く。箸に麺を絡ませて「ツルツルと吸って下さい」と言うと、2,3度はできるがまたすぐ箸をおく。カレーライスや天ぷらなどの元来好きな物は食欲が活性化するようで残すことが少なかった。またマヨネーズ味が好きなので、食欲がない時はマヨネーズをかけると食べることもあるが、全体的に食事量は落ちていった。その頃から歩行のフラツキや、夜間にベッドから起きる行為、夜間の独語などの言動も見られるようになってきた。(それまではトイレの声かけ時すらなかなか起きず、朝まで失禁がなかった)平成25年8月、心配していた居室での転倒事故が起きた。大腿骨骨折のために入院するが、高齢で心臓が悪いこともあり、手術せずに2週間ほどでホームに帰る。

 退院した後のMさんは車椅子の生活になる。日中はあまり痛みの訴えはなく、リクレーションに参加したり、ホームの納涼大会にも参加して盆踊りの歌に合わせて手を動かしていた。ただ、夜間に眠れないことが多くなり、パジャマを脱いだりオムツを外したり、大きな声で誰かに話し続けたり、「お母ちゃん」「怖い、怖い」と叫んだりするようになった。認知症が進行して、かってはよく口にしていた故郷の村の名前も忘れてきていたが、一日だけとても意識がしっかりしている日があった。その日は故郷の村やご両親の名前も言えた。そして「お母ちゃんは本当のお母ちゃんではなかったけど可愛がってもらった」と初めて語った。Mさんが最近になって、夜中に「お母ちゃん、お母ちゃん」と子供に返って叫ぶ時は、どちらのお母さんを呼んでいるのだろうかとふっと思った。そんな独語や夜間妄想がある時でも、職員が水分補給に行くとMさんは、「美味しいわ」と喜び、排泄介助等すると、「よくしてくれてありがとう」といつも労いや感謝の言葉を述べた。

 Mさんはその後、9月3日に老衰により他界されるが、その1週間前頃からは食事を摂ることを拒否するようになった。職員が介助しても、「もういいです」と口を閉じて開けない。以前のMさんだと食べたくない時でも、「美味しそうやわ」と一口でも口に入れようとするところがあったが、頑として拒否した。水分だけは少しずつ飲んでくれ、「美味しかった」と喜んでくれることもあった。昼夜、独語や興奮が続く日があるかと思うと、傾眠状態がずっと続いたりする。また時おり、以前のMさんのように穏やかな落ち着いた表情の時があり、皆と一緒に小さい声ではあるが、歌ったりすることもあった。

 もとより重い心不全の持病があるMさんだが、8月31日から喘鳴が始まり、呼吸が苦しそうになる。医師の指示により酸素吸入が始まる。食事はもとより水分も拒否するようになったので、ガーゼやスプレーで口を湿らせた。家族と主治医の話し合いにより、本人の苦痛の軽減を第一に考えて、痛み止めと睡眠薬を増やしていくという方針が決まる。亡くなる前日からは昼夜入眠状態になり、苦痛の表情は無くなる。

 9月3日の朝から高熱が出始めるが、本人には苦痛の表情は見られない。ずっと娘さんがベッドのそばで付き添ってくれる。枕元にラジカセを置き、Mさんの好きな音楽を流した。10時頃より血圧が下がり始め、足先にチアノーゼが出始める。13時頃にはバイタルの測定ができなくなるが、弱い呼吸は続いている。本人は眠ったままであるが、時おり大きく息を吸う。脈は次第に弱くなり、15時30分頃にふっと触れなくなる。本人は意識がなく眠ったままの状態で、呼吸が自然にすっと止まる。リビングからは利用者さんたちの歌声が聞こえていた。16時02分に主治医より死亡診断がなされ、看護師がエンゼルケアを行う。その夜に、娘さんの希望で、MさんはS中学校の近くの懐かしい我が家に帰られた。