短命に終わった初号機 、その後を継いだ壱号機 は共にバラードスポーツと言うように、バラードの一派生車の扱いだった。
その壱号機も、3年目の車検を過ぎ、4年目には65,000kmに近い走行距離を示していた。
そんな折、1987年にシビックシリーズのフルモデルチェンジを受け、CR-Xもモデルチェンジをしていた。
すでに1986年にバラードが廃止されていたため、単にHONDA CR-Xとしてベルノ店から発売されていた。そのキャッチコピーからサイバーCR-Xと呼ばれていた。
当時、アコードなどにも採用されていた4輪ダブルウイッシュボーンのサスペンションを取り入れていた。
F1などのスポーツカーでは、定番のダブルウイッシュボーン
マニアの心をくすぐるには十分は響きだった。エンジンはSiは、前期型から引き継いだZC。
親に借りた分を返しながらも貯めた資金はあった。乗り換えるのに、さほど決心はいらなかった。
壱号機の車検を1年残し、買い替えを決めた。
ホイールベースは2,200mmから100mm伸ばされて2,300mmに、トレッドも広げられて全体として一回り大きくなった感じだった。
コーダトロンカと言うリアを断ち切ったスタイルは継承されていたが、懸念だった後方視界は、エクストラウインドウを付ける事で、かなり解消されていた。
エンジンは壱号機と同じZC型だが、135psから130psと数値的には下がったように見えたが、これはそれまでのグロス表示からネット表示に変わったことによるもので、実質にはパワーアップが図られていた。
ボンネットのパワーバルジもそのまま継承された。
足回りの改良で、壱号機から比べると格段に旋回性能は向上した。が、当時のHONDA車の宿命とも言えるサスペンションストロークが短いと言う欠点があった。
それ故に、ちょっと荒れた路面だと簡単に破綻をきたす事があった。重量配分が前後で2:1と言う事も影響はしていただろう。
モータースポーツの世界では、逆にその性質を利用してジムカーナでは敵無しの性能を誇っていた。
筆者の個体のタイヤは、ラインオフでBSのレグノが付いていた。正直、車の性格には大人しすぎるタイヤだったと記憶している。
タイヤの溝が無くなった際に、同じBSのポテンザRE71に変えて、格段に速くなったことを覚えている。
この弐号機も、通勤に、遊びに、そして夜の峠にと活躍してくれた。
そして、弐号機に乗り換えて2年目の秋、時は1989年、思いがけないメーカーから、衝撃的な車がデヴューした。その時はまだ、その車がいずれ、自分の参号機になるとは夢にも思っていなかった。あくまでも筆者はHONDA党なのだ
時を同じくして、CR-XにもVTECを積んだSiRが追加されていた。これも気になる車だった。しかし、軽量のFF車に160psは必要ないだろうと自分に言い聞かせていた。
それから1年、弐号機は、そのまま乗り続けるつもりで、車検を取った。走行距離が60,000kmを超えていたので、ダンパーの交換もしてやった。
弐号機の車検も通して3ヶ月ほどたった、とある休みの日。。。暇だったので、そのメーカーのその車を見に行くことにした。
1人、CR-Xを走らせて店に向かった。そこにたたずむのは、コンパクトなオープンツーシーターだった。
そう、MAZDAが生み出した名車・・・ユーノス・ロードスター
この車が、HONDA党の筆者の参号機になるのに、さほど時間は必要なかった。。。そのいきさつは、『マイカー参号機』にて語ろう。