ひたち野うしく駅の西口に、ひっそりと万博中央駅の記念碑が立っている。
実はこの記念碑は、万博中央駅がなくなった後に建てられており、当初は線路際にあったため、列車で通過するとよく見えた。
また、周辺にはなにもないから、よほどの物好きでもなければこんな荒野には近づくことはなかった。
そのため、この碑の存在は知っていても、何が書かれているかまで知ってる人は少なかった。
内容は、「かつてここに万博中央駅があった」から始まり、万博中央駅ができた経緯などを淡々と記録しているだけである。
何も知らない人が読んだら、多分面白くないだろう。
私が、最初に読んだときも似たような感想をもった、最後を読むまでは。
最後はこんなしめかたをしている。
しかし、最後の日付をみたときに、実は単に自賛をしているのではないことに気づいた。
「万博中央駅」は科学万博が開催された、1985(昭和60年)3月17日から9月16日まで営業した臨時駅である。
もし、単純に駅の記念碑ならば、3月17日か9月16日に建てるだろう。
なぜ、昭和61年の5月8日という日に建てたのだろうか。
この碑に書かれている「牛久町」に注目してほしい。
稲敷郡牛久町は、昭和61(1986)年6月1日に市制施行したのである。
昭和61年5月は牛久町としては最後の月であった。
牛久町は、この万博中央駅の恒久駅化を万博開催前から、国鉄などに陳情していた。
牛久と荒川沖の駅間は6.6キロと離れており、中間駅を設けることで、町の北部を開発する狙いがあった。
しかし、夢はかなわずに駅はなくなった。
旧牛久町にとってはこの碑は、駅を残せなかった無念の表明であり、新しい「牛久市」に引き継いだ課題でもあった。
最後の五行で、そのことが読み取れるのだ。
万博中央駅がなぜ恒久駅にならなかったかというと、周辺に人家がほとんどなく、大半が平地林で覆われた「秘境」だったからである。
常磐線の上野から土浦の間で、もっとも寂しい風景が展開したのが、この牛久から荒川沖の間であった。
万博がなかったら、あんなところに駅を作ろうと考えること自体が、地元の人間からみてもすでに笑い話であった。
ご覧の通りである。線路の上側に平行するように建物が並んでいるのが国道6号のある場所だが、主にドライブインやガソリンスタンドなどで人家は少なかった。
当時は国道6号に、土浦駅から牛久駅までの路線バスがあったが、荒川沖駅までは毎時3本だったバスが、荒川沖駅から牛久駅間では二時間に1本くらいになる。(なお、現在は土浦駅から荒川沖駅間も含めて廃止されている)
新しい牛久市が旧万博中央駅の場所に駅を開設するために、本格的に始動したころ時代は昭和から平成に変わった。
旧住宅都市整備公団(現UR)と茨城県を巻き込んで、大規模ニュータウンを計画、当初は人口3万人と近隣の竜ヶ崎ニュータウンくらいの規模を想定した。(竜ヶ崎ニュータウンは7万5千の当初規模を昭和末期には半分に縮小した。皮肉にもバブル期に居住者が激増する)
しかし、そこに襲来したバブル崩壊。
土地神話が崩れ、都心回帰が始まる逆風のなか、ニュータウン計画は紆余曲折を経て、時間ばかりが過ぎていった。牛久市はこの計画に1990年代のほとんどを費やしたと言っても過言ではないかもしれない。
コピーライターの糸井重里氏が命名した「人人ニュータウン」という名前はほとんど定着していないが、ようやくニュータウン開発が始まり、規模を大幅に縮小をしたにもかかわらず、当初は国道6号より東側の開発が遅々と行われたに過ぎなかった。
だが、ニュータウンの目玉として、1998(平成10)年3月、ついに念願の新駅開業にこぎつけた。
万博中央駅廃止後、実に12年半かかったのである。
「ひたち野うしく」と名付けられたこの駅は、万博中央駅の復活ではなく、全くの新駅である。
万博中央駅は、もともと線路がある場所に、仮設のホームを設けただけの駅であった。
しかし、ひたち野うしく駅は上り、下りで特急列車の通過待ち(待避)ができるよう、ホームが4つある。そのため、新しくポイントも作られた。
旧万博中央駅は南側の西大通りまでホームが達していなかったが、ひたち野うしく駅は西大通りをまたいでホームが存在する。
西大通りの陸橋上でポイントを作らないように駅を全体的に南にずらしたのだろう。
ホームが西大通りより北側にあるのがわかる。
ひたち野うしく駅開業時
わかりにくいが、西大通りをまたいで駅が作られているのがわかる。
ひたち野うしく駅周辺は、平成10年(1998)でさえこんな閑散としていた。
しばらくは都心回帰による需要減に悩まされ、開発が止まった場所が目立ったが、2005年つくばエクスプレス開業で、つくばエクスプレス沿線に比べて割安、駅まで歩けるひたち野うしくは居住者が増え始める。
以後、商業施設などがどんどん集中し、かつての何もなかった頃の面影は完全に失われた。
今や「牛久の中心はひたち野うしく」と言われるくらい(新設された牛久警察署はひたち野うしく地区にある)しっかりした街が出来上がりつつある。
令和を迎えたとき、平成をテーマに何か書きたいと思ったまま3ヶ月が過ぎてしまった。
常磐線沿線で、平成30年間で最も変貌したひたち野うしくをテーマにすることで、平成のまとめにしたい。