「上野東京ライン」「つくばエクスプレス」「地下鉄半蔵門線松戸延伸計画」「有楽町線亀有~野田市延伸計画」

この一見バラバラなものは、すべてある時期のある路線に関係している。

 

ときは、昭和50年代末期。

昭和40年代から50年代に進んだ「首都圏5方面作戦」による、首都圏主要通勤路線の輸送力増強は「焼け石に水」であった。

とくに常磐線がひどく、昭和59年には常磐線快速の混雑率が284%になってしまった。5方面作戦開始前の水準である。

 

開発が他線区にくらべて立ち遅れていた常磐線は、並行私鉄もなく、土地が大量に余っているため潜在的な開発能力は「首都圏随一」であった。

そこに襲来した「バブル景気」

常磐線快速は昭和62年から15両編成化が始まったが、いずれパンクすると考えられていた。

 

常磐新線(つくばエクスプレス)は、そんな時代に計画が進んだ。

それでも、常磐方面は輸送力不足が予想されたことから、地下鉄の2路線の延伸計画が付け加えられたのだ。

 

昭和62年には、国鉄時代から構想されていた「東北縦貫線」計画についてかなり具体的な発表がJRからあった。

「秋葉原までまず常磐線快速を延伸、その後秋葉原~東京間を結ぶ」という計画で、思えば上野東京ラインはここがスタートだった。

 

ただ、まもなくバブル崩壊の時代を迎え、都心回帰現象が1990年代半ばから顕著になると、常磐新線以外の計画はいったん後退した。

常磐新線もルートが二転三転して、当初は守谷まで・・・いやいやつくばまでいかないと意味がない、じゃあ建設費を浮かすため半蔵門線を流山に伸ばして相互乗り入れを・・・・埼玉県八潮市などがその案に反発するという有様であった。

 

東北縦貫線も秋葉原先行開業計画が事実上白紙となったが、上野から3路線(東北・高崎・常磐)が山手線に乗り継ぐ状態は変わらず、この区間がJRの最混雑区間となったことで、2000年ころには再び構想が浮上する。

しかし、今度は東北・高崎線と東海道線主体の相互乗り入れ構想であり、常磐線については特急のみと大幅な後退であった。

この常磐線にとって、一転して地獄の東北縦貫線計画は、2009年度開業を目指していた。

 

なぜ、常磐線は東北縦貫線計画で置き去りにされたのだろうか。

実は、当初混雑緩和のみが目的であったこの計画について、別の経済的な要素が絡んできたからである。

 

東海道線は、都心の田町に広大な車両基地を持っていた。

 

昭和60年代から平成10年頃にかけ、東京の都心は「西にシフト」していた。

有楽町から新宿に都庁が移転し、池袋や渋谷など山手線の西側の開発、再開発が進んだ。

恵比寿のビール工場跡地に、「恵比寿ガーデンプレイス」が造られ、埼京線も新宿から恵比寿、さらに大崎から臨海線に乗り入れを開始した。新宿のステイタスが高まるとともに、貨物線を経由して東海道線からは「湘南ライナー」が新宿を結び、東北・高崎線は池袋まで乗り入れを始め、やがて「湘南新宿ライン」へと発展する。

 

バブル期の都心側は、臨海副都心が気の毒なくらい開発が進まなかったが、バブル崩壊とともに都心再開発の足かせとなっていた地価高騰が落ち着き、やがて都心回帰が起こって、中央区や港区の臨海部などが再開発されるようになった。

汐留貨物駅跡地の再開発が成功したことで、都心部に広大な土地をもつJR東日本が、田町の車両基地をなんとかしようと考えるのは、自然の成り行きである。

 

2000年代に再び動き出した東北縦貫線計画は、要するに「田町の車両基地を郊外に移転」することが真の狙いであった。常磐線は東海道線とは違う形式の電車を使っているため、田町の代用にはならない。この計画で当初常磐線が「冷や飯」を与えられたのはある意味当然であった。

 

 *歴史にifは禁物だが、もし常磐線が勝田あたりまで直流電化なら、複々線化は総武線快速のように113系で行われただろう。そもそも、北千住から柏間の連続して10分も停車しない区間を、トイレなしの通勤型が終日全便運行している路線が他にあるだろうか。