法学のテキストは「加工食品」にすぎない | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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今回は、数日前にいただいたコメントに返答する形で記事を書きます。個別の質問に対する回答に留めず、より一般論として展開する意義があると感じたので、独立したエントリーを立てることにしました。

先に内容を簡潔にまとめておきます。

①基本書などの法学テキスト&インプット講義は、本来の目的そのものではない。

 これらは「加工食品」に過ぎない


ところが、受験生の意識は、どうしてもこれら「加工食品」に向かいがち

 だからこそ、「加工食品」ではなく、本来の目的に意識を向けなければならない


以上です。


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【いただいたコメント】


伊藤塾つながりということで、1つお尋ねしたいことがあります。

塾長の書いた勉強方法論本、「夢をかなえる勉強法」のなかに、「全体像を把握するために、まず目次をコピーせよ」というのがあります。

軸となるテキスト(塾生だったら基礎マスターテキストでしょうか)の目次をコピーして、それをいわば「地図と磁石」代わりにして、自分が今学んでいるトピックや論点が、当該科目のなかでどのあたりに移置づけられているのかを、常に意識しながら学びなさい、という趣旨みたいです。

NOAさんは、上記を実践なさっていますか?

もしくは、このアドバイスの当否について、どう思われますか?

 

(コメントおわり)


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その本は読んだことないのですが、塾長の目次重視思想は有名なので知っています。

私も一般論として目次は重要だと思います。

 

同じ本を読む場合でも、漫然と適当に流し読むのと、全体の構造を意識しながら読むのとでは、理解に大きな差が生まれると思います。

私は、司法試験の勉強でも普段の読書でも、目次をコピーするところまではしていませんが、インプットにおいて目次を大事にすべきという点については同意します。

ただ、ここが私が塾長の本を1冊も買ったことがない(買う気にならない)理由なのですが、あと、伊藤塾という予備校全体の問題点でもあるところなのですが、伊藤塾系の講師たちの関心は、このようにいつもいつもインプットばかりに向かうんですよね。

この点に私は大きな不満を持っています。

「なんだ、またインプットの話か・・・」

塾長や伊藤塾講師が何か気の利いたことを言う度に、いつもそう思います。


だって、インプットはほとんどの場合、何かのためにしているインプットなわけです。

試験勉強においては常にそうですし、経済学の勉強でも哲学の勉強でも、インプットのためのインプットなんてものは本来ありません。基本的には、その知識を何らかの形で使うためにインプットがなされるのです。

 

本来、インプットは何かの目的があってのインプットであるはずなのです。

ところが、総じて伊藤塾系の人たちは、おそらくはインプットの教授能力が高すぎるがゆえに
、逆に、この本来的な目的に目が行きにくい人が多いと感じます。

 

その意味で私には、塾長の目次重視思想も、たしかにその限りでは正論だとは思うのですが、どうしても本来の目的から離れた「インプットの、インプットによる、インプットのためのインプット」の話をしているようにしか感じられないのです。

誤解のないように言っておきますが、私は別にインプットが嫌いでアウトプットが好きなわけではありません。単に、インプットは基本的に目的それ自体にはなり得ない、という点を指摘しているだけです。

もし、インプットが目的と直結する試験があれば(そういう試験もあると思います)、インプットに拘ることは何の問題もありません。

私が批判しているのは、多くの受験生の意識が、本来の目的と異なるインプットの次元にロックオンされてしまっていることです。そして、そうなった大きな原因のひとつに、上記のような伊藤塾的発想があると考えています。

司法試験の目的は、あくまでも法を使う(使えるようにする)ことです。

内容を正確かつ効率的にインプットすることではありません。

 

そして、「法を使う」とは、つまるところ条文を使うことに他なりません。そうなると、法律学において、本当の意味で「地図」と呼べるものがあるとすれば、それは条文(条文構造)しかないはずなのです。

他の学問分野においては、条文という制約条件がなく、研究範囲にある程度自由な広がりがあるので、地図=目次と言ってよい(言わざるを得ない)ところが確かにあります。

しかし、法律学はそうではありません。歴史研究で「一次資料」「二次資料」という言い方がありますが、その言葉を借りていえば、シケタイや基本書のような体系書は、条文という一次資料をその人なりの仕方で説明し直した単なる注釈書に過ぎず、その意味で二次資料に限りなく近いものです。

最近、出版会でちょっとしたニーチェブームが起きていますが、売れているのは、ニーチェを切り刻んで食べやすく加工した流動食のような解説書の類です。あれらはただの解説書であって、言うなれば
ニーチェの偽物です。

 

偽物も本物の風情を残しているからこそ偽物たり得るのだとはいえますが、どこまで行っても偽物は偽物でしかありません。本来、偽物は本物に至るための通過点に過ぎないはずです。偽物のあと本物に移行するのでなければ、いったい何のための偽物だったのか分からなくなってしまいます。

しかるに、司法試験業界においても、ニーチェブームと同様、本物をなおざりにして偽物の意義ばかりを強調する学者・予備校人が多すぎます。受験生の側も、(特に問題を解くことから逃避しがちの人に多いですが)彼ら「偽物業者」の宣伝に易々と乗せられる人が多すぎます。

 

この点はもっと問題にされなければなりません。

受験界には、初学者を脱してなおインプット学習にこだわり続けるインプット大好き受験生が多いです。

彼らは、偽物ばかりを勉強し続けた結果、いつしか、偽物を学習し続けることが学習の本分だと思い込んでしまっているようです。

このことによって利益を得るのは、本物(条文)を加工した流動食(基本書)を顧客に提供することを生業にしている加工業者(法学者)です。

あるいは、流動食(基本書)の美味しい食べ方を顧客に指南(講義)することを生業とする加工業者の子分(予備校)です。

 

予備校は、加工食品(基本書)を更に加工することを得意とする、れっきとした加工業者の一味です。

ここで「加工食品を加工する」とは、ようするに、流動食(基本書)をさらに食べやすくすることです。

食べやすくするための商品とは、あるときにはシケタイであり、あるときには基礎マスターであり、そしてまたあるときには「目次を大事にせよ」などの「食事マニュアル」であったりします。

 

彼ら偽物業者は日夜、「加工業者が製造した加工食品を通してしか、本物に触れることはできません」と顧客を欺罔(脅迫)し続けています。それが彼らの食い扶持(あるいは存在意義)なのだから当然です。
 

 

 本物加工食品の図】

    条文           ⇒こちらが本物(基本)

     ↓ 加工
基本書&予備校本   ⇒こちらが加工食品(応用)


もっとも、ある程度実践的な勉強が進んでくると、彼らの宣伝活動の嘘に気づく受験生が一定程度でてきます。
具体的に問題解く段階になると、シケタイや基本書のような「内容」しか記載されていないテキストの使い勝手の悪さが分かってくるからです。

問題を解く際に必要なのは、具体的な条文の具体的な文言(≒要件・効果)です。

シケタイや基本書のような「内容」ばかりが書かれているテキストを読んでも、「何となく理解した感じ」あるいは「非常によく理解した感じ」にはなりますが、その「理解」と「条文を使う」ことの間には、ほとんど関係らしい関係がありません。

 

法学のテキストで習得した理解・記憶をもって、司法試験の問題を解くことはほとんどできません

一部の(優秀な)受験生は、一定の実践的段階に達して、ようやくそのことに気づきます。

 

彼らの最終使用教材が、(基本書やシケタイのような「内容」が整理されたテキストではなく)条文が整理された短答六法になることが多いのは、その意味では当然といえるでしょう。

ここで、過去に少し持ち上げすぎた基礎マスターの批判をしておきたいと思います。
具体的には、私が最高レベルでおすすめした呉先生の講義内容についてです。

 

呉先生はテキストの内容を加工することに定評のある講師です。しかし、実はあれだけ内容の加工に情熱を注がれる方であるにもかかわらず、「条文というテキスト」にはほとんど加工の指示をしません

内容の整理を重視する姿勢に比べて、この条文の絶対的軽視ともとれる姿勢は一体なんなのだろう…とそう思わずにはいられません。

伊藤塾の他の講師、そして他校の講師も、ほぼ100%そんな感じなので、今までこの点は不問にしてきました。しかし、本来の目的に則した“本当に分かりやすい講義”というものがあるとすれば、それは内容ではなく、条文を分からせてくれる講義であるはずです。どれだけ
内容(加工品)を分かりやすく整理・理解・記憶させてくれたとしても、それは目的に則したインプットとは言えないからです。

最後に。

もちろん、私だって、基本書やシケタイや基礎マスターといった偽物あるいは加工食品(流動食)の存在を全否定はしていません。その有用性についても認めます。

しかし、それは早くそこから脱することができてこその有用性です。

単なる手段(≒偽物)として利用できてはじめて、「有用」といい得るものなのです。
 

目的-手段の関係、本物-偽物の関係を逆転させてはいけません。

繰り返しますが、法学テキストは、本来、条文の加工品(注釈書)に過ぎないものです。
条文が主テキストはただの脇役、だったはずなのです。

それがいつの間にか、加工業者の台頭とそれに伴う利権構造の構築によって、ただの脇役にすぎなかった法学テキストが、気がついたら「主役づら」をし始めていたのが、法学&司法試験の歴史です。


加工業者には加工業者の事情があるでしょうから、彼らが彼らの業界内部で加工食品を神聖化するのは勝手です。しかし、条文を使うことを生業とする法律実務家を目指す受験生までが、加工業者たちの事情に振り回される必要はないはずです。いかに彼らが加工食品のご利益を説き、加工食品の習得の仕方を熱く語ったとしても、我々受験生は本物に意識を向けなければなりません。

加工業者にとっての利益と
、受験生にとっての利益は、ほとんど重なっていません。

その現実に、受験生たちはもっと自覚的にならないといけません。

 

加工業者は、あくまでも加工業者の切実な利益を基に語っています。

それは、彼らが加工業者である限り当然のことです。

 

↑ここボヤっと聞かないでください。本当に当然なのですから。

もし、彼らが学生のことを第一に考えているように見えるとしたら、それは彼らの語り口が強い切実さを帯びているからです。

しかし、彼らが切実に語るのは、学生のためではありません。自分たちのためです。

 

もし、彼らが本当に日本の法曹志願者の幸福を考えるなら、ロースクールの廃止を主張するべきです。

お金と時間がないというだけで自分の目の前に座ることができなかった貧乏人たちを真に思うなら、そうすべきです。

本当に誠実な学者はきちんとそう主張しています。そう主張することが、もはやできなくなったというわけではないのです。

ロースクールを廃止しても、修習所があれば困る人は誰もいないのですから(ローの教授は少し困るかもしれませんが)。


だからこそ受験生は、より自覚的に、受験生の切実な利益に基づいて考えなければなりません。

 

加工業者にとっての加工食品とは、主役と同じ、あるいはそれ以上に大切なものです。

彼らは一貫してそういうスタンスで語っています。

 

受験生は、そういう加工業者の圧力に抗して、本来の主従関係を分からせてやらなければなりません。

 

加工食品に対して「お前は脇役なんだ」と言ってやること。これは受験生の義務です。

流動食の食べやすさ吊られて流動食を食べ続けていたら、いつまでも日常生活(=本来の目的)に復帰できません。流動食はあくまでも病院を出て社会に復帰するまでの「つなぎ」に過ぎません。流動食は、「つなぎ」として利用する限りで価値があるものなのです。

そのことを忘れて、流動食の美味しい食べ方」などを追及していくのは、完全に本末転倒です

加工業者がそういうマニュアルを提供したがるのは、彼らの立場上の問題なのであって、利権構造の外にいる我々一般人がそんな話に付き合わされる義理はないのです。

しつこくて申し訳ありませんが、目次を大事にすることは、それはその限りでは当然良いことです。

しかし、目次を大事にすることに必要以上に意識が行ってしまうのは、もう既に良いことではありません。目次を大事にすることに何か巨大な意義があるのではないかと考えてしまうくらいなら、目次なんか大事にしないほうがまだマシかもしれません。それは本来の目的とは何の関係もないことだからです。


人によっては、今回の話は極めて小さい話とお感じになる方がいるかもしれません。目次が大事であることを肯定してるなら、それ以上に話を広げる必要はないじゃないか、と思われるかもしれません。

 

しかし、私は、「目次が大事である」などという本来はどうでもいい話に意識が「グー」っと寄っていってしまうような人は、気の持ちよう or 試験に臨む姿勢として、試験対策という勘所を完全に外しているようにみえます。そして、どこか一ヵ所で外している人は、たぶん、その他数百ヵ所でも同じように「外している」に違いないと思います。

 

人の本性はディティールに全て表れます。

今回の話はそういう観点からお読みいただければ幸いです。

受験生は早く、本来の目的に復帰すべきです。

それは、

①法律の勉強においては、法律(条文)をきちんと学ぶ(使う)ことであり、
②試験勉強においては、試験問題(過去問)を解くことです。


重要なのは、

加工前の食品(条文)を、一日でも早くきちんと味わえるようになることであり、

②流動食を一日でも早く卒業して、本来の目的(過去問を解くこと)に向き合うことです。


「流動食の美味しい食べ方」なんて、そんなのどうでもいいことです。