その手紙は同じ小学校に通うキャプテンの6年生からのものだった
かわいい便箋に2枚の手紙には、やさしく長女を思いやる言葉がちりばめられていた
そして、今度の練習は長女とパスをしてくれると書かれていた。
先日、昔話を長女とした際に、このことを聞くと
彼女はいまだにこの手紙を大事に持っていた。
そして、その手紙は彼女のその後の大会にいつもバックにいれてあったそうだ
長女の人生に今までいくつかの岐路があったと思うが、この時 この手紙がなかったら
きっと彼女の人生は大きく変わっていたことだろう
そして、このことだけが原因ではないが家族との時間をもっととれるように
以前の会社から今の外資系企業に転職を私が決意したのもこの年の暮れであった。
やさしくしてくれた6年生最後の大会も終わり、新チームへの移行
結局この年は県大会への出場はなかった
BチーはMさんを中心にいよいよ盛り上がってきていた。
長女と家の前で練習を始めたのはこのころだったと思う
運動が苦手な長女だったが徐々にではあるが上達して
サーブがようやく入るようになったのもこのころではなかったかと思う。
そして一年前と同じように親子バレーがあり上達した長女たち3年生
当時 Mさんは40代半ばの身長150cmもない小柄で華奢な元気なおばさん バレーボールの経験などなく、見よう見まねの指導であったが
ただその指導は、熱心そのもので、見ていて気持ちのよいものだった。
ただ成長した3年生達にとってMさんの指導では限界に差し掛かっていたのも事実であった。
思うように指導のできないMさん、自分の子供だけでなく他の子供たちへも情熱を注ぎ真剣に悩んでいた
それと呼応して、帰宅後の夜の反省会も毎週のように開催されていたらしい
その話題の中心は、いまの3年生たちで全国大会(ペプシカップと呼ばれていました)出場と
上の子がいる母親たちからの監督の指導への不平不満
女性コーチがいた頃はコーチが仕切っていた練習や子供たちのお行儀面の指導も
おとなしい監督には望めないと事あるごとに私もしらふのMさんから何度も聞かされた
そして、再三にわたるMさんのオファーに私は思い腰を上げて指導者の道の第一歩を踏み出したのだった。
バレーボールに関しては素人同然の私にはどんな練習をすればよいかは全くわからず、
ただただMさんのリクエスト通りの練習をMさんがやるより激しく、素早く模倣したに過ぎないものだった
そして監督とも男同士ということもあって、次第に打ち解けて話をしはじめたのもこのころだったと思う。
今思うとたいした指導ではなかったけど自分としては一生懸命に子供たちのためにやっていた
どんな大会があるのかもどんなチームがいるのかもわからず、ネットの張り方やラインテープの引き方、フリーポジション制
ラリーポイント制などのルールも次第に覚え、持ち前の社交性を発揮して地区の指導者の方々とも親しく話をするようになったのは
3月から4月にかけてのころだった
やってみると様々な裏方仕事があり、いままで何も知らなかった自分自身が様々な形で多くの人たちにお世話になっていたことに気づかされた
そして、仕事とは全く違うコミュニティーを持つ喜びも感じ始めていた。
大会が終わった後の飲み会や地区の役員会後の飲み会などに参加させてもらい
年齢関係なく新入りとしていろいろな指導者の方々にたくさんのことを教えてもらった。
と同時に一種独特の違和感のある雰囲気も感じていたのも事実であった。
その時の私にはなぜ多くの指導者の方たちがかくも真剣にたかだか小学生のバレーボールに夢中になっているのか?
自分の子供もいないのに休みの大半をボランティアとして捧げている人たちがいることが不思議に思えてならなかった。
その感覚は多分経験した人にしかわからないものだろう しばらくして私もそうなっていくのだから
ただそこに大きく分けて2種類の人種がいることに気づかされたのは、もうしばらくしてからの事となる。
長女が4年生なり、6年生だけで12人いるチームは春の新人戦で地区2位となり、県大会も夢でなかった
長女たちBチームもこのころになると同地区のAチームといい勝負をするようになって、親たちの期待もますます膨らんで行ったような気がする。
そして5月 我が家の次女が1年生となりジュニアに入部することとなった。
続く