ブログネタ:銭湯行ったことある? 参加中本文はここから
最近、なぜ自分はこんな自分なのかと思う。
そしていろいろ思い出した。
私は朝鮮戦争帰りの米兵がたくさんたむろする佐世保にその頃生まれた。
町をうろつく米兵は私にとっては非常に恐い人たちだった。
3歳までその町で育った。
だから生まれた頃からずっとジャズは私の中に生きている。
でも体が大きく力が強そうで、きっと殺伐としていた米兵から来る「戦争」のイメージは私にとっては生々しい「恐怖」そのものである。
3歳で長崎市浦上に移った。
父の転勤について行ったのである。
浦上は瓦礫の町。
浦上天主堂の瓦礫の間で遊んだ。
平和祈念像も近くだった。
そしてまた引越ししたところで小学校に入学した。
私の入学したZ小は被爆した校舎で授業をしていた。
今でも原爆反対の授業で有名な小学校だ。
翌年また転勤した。
しかし私の中に「核戦争」の恐怖はしっかりと染み付いている。
そんなこともすっかり忘れ、福岡市で見合い結婚した。
夫の母は広島の出身だった。
たくさんの親戚を原爆で亡くしていた。
姑は幼い頃すでに福岡市に一族で移り住んでいたのだが親戚の悲惨は十分に知っていた。
だから私に聞いたのだと思う。
「あなたのお母さんは長崎原爆の時どこに住んでいらした?」と。
私は初めなんでそんなことを聞かれたのか分からなかった。
「母は佐世保生まれで佐世保にずうっと住んでいました」
この会話を今でも覚えているのは、つまり「風評」
姑にとっては孫が心配。
結婚後すぐの会話である。
こうやって様々な不幸な会話が本人も気がつかないようなところで繰り返されていく。
風評と真実は違う。
真実を知りたいと思う。
こういうことも今の私を作っているんだと思う。
父方の祖父は佐世保から私の長崎の家に遊びに来るのが好きだった。
内風呂があったのだが、すぐ近所の銭湯に行くのが大好きだった。
特に祖父のお気に入りは「薬湯」だった。
ある日祖父は薬湯に漬かったまま亡くなっていた。
銭湯にとっては大変迷惑なことだと思う。
しかしなんだか時代がおおらかだったようで、「自分で湯かんまでして」みたいなことで終わったような気がする。
今大切なのは、おおらかに受け入れる心なのかもしれない。
長崎の町で生母と祖父を亡くし、弟が2階の窓から転落するという大事故を起こし、父はすぐにまた転勤したのだ。
私の中に悲しみはない。
でも長崎の町はずっとどこかに悲しみを持っている。
そんな町がもうこれ以上増えないことを祈る。