今年は雛人形を飾った。


娘が亡くなった平成8年以降出していなかった。


平成5年の秋に誕生した娘は翌日すでに自力呼吸をしておらず、髪の毛より細い血管に点滴の管を入れる同意書を記入した記憶がある。 


やっと年末を迎えたが暮れも押し迫った頃「この調子だと年越せそうですね」と主治医に聞いてみたが「明日のことは分かりません」と言われた。


正月が過ぎ、巷に雛人形のチラシが出回る頃、父に孫のために雛人形を買ってほしいと頼んだ。およそ親に物をねだったことがなかったので、とても喜んで「どれでもいい買ってやる」と言ってくれた。
私は箪笥の上に置ける程の真太呂人形にした。家族や親戚みんなが3月3日まではきっと生きていてくれるように祈っていると言うことを娘に伝サンダルウッドの玉手箱-雛人形えたかった。


娘不在のまま我が家に雛人形を飾った。

1年間未熟児室の保育器の中にいた娘が

酸素ボンベとともに我が家にやってきたのは

1歳の誕生日だった。この酸素ボンベを返すときが別れの時なんだと覚悟した。


娘が生きて病院を出られる可能性はほとんどなかった。それが退院でき、家族一緒に暮らせる日が来るなんて思っても見なかった。


しかしすぐに肺炎にかかり退院後6ヶ月間に7回の入退院を繰り返した。そのたびに幼い3歳と5歳と12歳の兄たちは母親不在の自宅で留守番だった。

でも娘が生きていてくれるというのはどんなに幸せなことだっただろう。


2歳の誕生日も過ぎ、酸素ボンベも返せるほど自力呼吸できるようになり、そろそろ予防接種も受けて外出できる準備をしましょうと言われるまでになっていた。


2酸化炭素がうまく排出できず、数値上では意識を失うほどの高濃度でも、お兄ちゃんたちがそばにいるとはっきり目で追い、笑いかけるので、主治医は「この子は常識が通用しないので数値は無視しましょう」と言っていた。


不自由な体でこの世に生きることはとても苦しかったと思うけれどいつもニコニコとして朗らかな子どもだった。


ところがある日の朝、一人で逝ってしまっていた。誰も気がつかなかった。

雛人形は彼女が生きている間3回飾った。                                                                         
サンダルウッドの玉手箱-雛人形


去年、長男がこの世で生きていくために、

小さな店を建てた。長男は就活ができない

性格だった。


ある日店の建築を頼んだ工務店の社長が

「雛人形と5月人形預かってくれん?」と言って

大きな箱を3個持ってきた。「お得意さんから

処分してくれと頼まれたけど捨てきらんけん」 

と言っていた。

「店に飾ってもいいですよ」と言ったけれどまさか

こんなに場所をとるとは・・。


しかもお得意さんは末期がんらしくて飾っている

ところを見に来れる日までがんばると言っている

らしい。先週2人がかりで飾った。ついでに私が

生まれた時の50年以上たった小さな雛人形も飾った。いろいろあって仲の悪い父だけれど、この世にたった1人の親。生きているうちに仲直りしたい。



何時間もかかったけれど雛人形を出すのは楽しい仕事。幼い頃のままごととちっとも変わらない気分。


お得意さんは子どもや孫とどんな関係になり、なぜ処分しなければならないのかを考えると大変だなあと思う。