ストーリー「ニュースステーション」時事ネタのアイデア(その11) | 作家養成塾『遊房』の公式ブログ 「めざせ!公募小説新人賞」門座右京監修

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「蛙」?知らない大学生35%

大学生の3人に1人は、「春はあけぼの」の意味が分からない――。国立国語研究所の島村直己主任研究員らの研究グループが17日、千葉市で開かれた日本教育社会学会でこんな調査結果を発表した。
現代文は高校生より正答率が低く、研究グループは「大学生の活字離れが深刻になっているのではない
か」としている。それによると、古文では、枕草子の「春はあけぼの」の意味を「春は夜が明け始めるころが素晴らしい」と正答できた大学生は62・9%。松尾芭蕉の俳句「古池や蛙飛び込む水の音」の「蛙」について「カエル」と答えたか「かわず」という正しい読み方を答えた学生は65・3%。
(読売新聞) - 9月18日10時16分更新


最近、いくつかのサイトでチャットに参加しています。それぞれの会話をつなぎ合わせてみると、まったく内容に脈略のないことがわかりますが、彼らは通じているわけです。本来、会話というのは、私がAについていうと、その応答としてA’を送り、自身のBを付け足す。それを向けられた私は、Bをダッシュで答え、Cの話題に転じる。というのが最低限のお話のルールなのですが、チャットの中ではどうだといいますと、私の投げかけたAには答えず、いきなりBの話をはじめる。他の話を受け付けずに、いいたいことだけをいうという傾向が顕著にみられます。

つまり冒頭の漢字が読めないレベルではなく、会話もできないレベルであるということのほうが、私は問題だと思うのですが。

文章の最後に(笑)というのがあります。おそらくシナリオの(笑)からきていると思うのですが、彼らの(笑)は自分が笑っているという意味なんでしょう。実は脚本の世界では(笑)は、ここで笑ってくださいの指示であり、自分の会話で自分が(笑)を書かねばならないほど惨めなものはないはず。
会話そのもので自然と笑いがこみ上げてくれば、わざわざ(笑)としなくても笑ってくれるはずです。

最近、面白いコマーシャルに出会って、秘かに私は楽しんでいます。ししおどしが「こん」と鳴る。座敷に場面がパンして、お見合いの席。眉太の娘さん(どうみても美人じゃない)が笑顔で座っている。突然、全員が立ち上がり「あなたも私もポッキー」と連呼するわけです。
私が秘かに楽しんでいるのはお見合いの席で「あなたも私も勃起」といっているようで、よくぞCM倫理に引っ掛からなかったなと思うからです。ポッキーというのは、もともと「プリッツァ」という細い棒状を意味することばではいいにくいということになり、プリッツという和製英語が作られ、その後、ポキンと口に中で折って食
すという意味で、音感から「ポッキー」とネーミングされ、現在はすべからく細い棒状のものはポッキーといわれます。セロテープはセロハンテープの商標でしたが、今は普通名詞化しています。

「かわず」と読めず「かえる」と読むとしても、彼らが通じていればそれでいい。という考え方も成り立ちます。少なくとも平安王朝の雅びことばを、今の私たちは理解できないのですから、「かわず」と読めることが、どれほど大事かを論じる問題ではないはずです。ことばというのは変遷しているのですから。

私はことばは相手に意思伝達するコミュニケーションツールと思っています。原則的にいえばわかればいいわけです。「かえる」ということば以外に「かわず」ということばもある。そう考えてもいいと思うわけです。関西弁に「捨てる」という意味で「ほかす」ということばがあります。関東でそれをいいますと、「保管する」と勘違いするかたがいるようですが、もちろん方言ではなく、立派な古語です。「ほかす」というのは「放下する」からきたことばで、放下、つまり下に放つ、捨てる意味です。古都1000年の王朝文化を築いた京都に残っている古語のひとつですが、このように使っていれば残る古語も多いわけです。つまり読めないと嘆く大人たちは、若者に対してことばを教えなかったわけで、私に言わせれば、この記事を書いた大人が、自分の指導力を恥じるべきではないかと思うのです。

短編小説の名手といわれた星新一先生が、晩年、自作が風化しないようにと、死語になるであろうことばをすべからく書き直されたそうです。電話をかけることを、ダイヤルを回すともいった時代がありました。ダイヤル式の時代ではおかしくもありませんが、今はプッシュホン、押す時代であり、さらにいえば電話というものもなくなるだろうことを考え、通信機に置き換えられたそうです。今は通じているがいずれ通じなくなるのがことばです。昔、チョベリバということばが流行りました。超ベーリーバット、つまりもっとも悪い状態ということだったそうですが、そのことばを今、発信源である若者たちですら使いません。「かわず」がいえなくてもいいわけです。いずれ半世紀もすれば、今の若者が大人になり「かえる」ともいえなくなる若者と対面したとき、それに気付くのもいいんじゃないかと思います。

要は通じればいい。ことばの大原則を考えないと、ことばを紡ぐ作家という仕事はできません。その意味では「かえる」以外に「かわず」ということばもある。そういうことを考えられる人であっていただければと思います。


戯作者
MONZA 門座右京(もんざ うきょう)

MONZAの由来は私の敬愛する近松門左衛門のせめて足下に及ぶこと叶いたいという意識からです。
くれぐれも江戸の名物「MONJA」とお間違えなきよう。