念ずれば花開く?なのか?(笑) | ピアニストで牧師 森下滋の日々雑感

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2020年11月から日本基督教団の牧師となりました、ピアニスト、作編曲家である森下滋のblogです。
韓国滞在記、演奏のスケジュール情報、日々雑感等。

やっと昼過ぎに喉の痛みも、のど飴舐めてればさほどではなくなり、鼻水の色もサラッと透明に変わってきたので、ナメコとほうれん草という謎の組み合わせだが味噌汁を作って食べて、午後から少しずつ事務仕事他を開始。昨夜寝る時に、こもっている熱を出すためにあえて薄着にして、掛け布団も薄めにして暖房も控えめにしたのが、結果的には良かったようである。身体は動かしづらかったのでカントの純粋理性批判の解説YouTubeも見終わって、本文は7冊のうち2冊を読んだ。少しずつカントと距離が近くなってきたのは確か。カントって、意外と人情あるなってのが少しずつ見えてきた。博士課程のゼミでカントの「永遠平和のために」について発表したことがあるが、教授ほかゼミの人たちにも反応は薄かった。何か、現実主義的でもなく、かと言ってヒューマニズム的な理想論でもない、という感じは、私もまとめながら感じていた。その時にもNHKの教養番組を全部見て、テクストを読んで考えたのではあるが、世界共同体論においては、ラインホールド・ニーバーの「光の子闇の子」からちょこちょこと提示されるもののほうが、ニーバーにしては裏付けがなく語っているのは、未来への提言であるから仕方ないにしても魅力的だと思っていた。しかし、一応テクストも読み進めて、概要を掴んだとするならば、それは、全然違ったのだということに気がついた。それはカントの言う所の、まさに純粋理性が要求するところの実践理性の働きとして、法と自然の只中に生きる、われわれ人間が、道徳的に生きる、すなわち最高善を求めて生きるというプロセスの中で重要な概念、すなわち永遠平和だったのだ、ということに、気がついた。何を言ってるのだという感じだろうが、カントは道徳的に生きることが幸福の単純な条件であると言っているのではない。認識論では否定されるものとされた存在をマルクスはベタ塗り上書きで消そうとしたのだ。I am who I Am.喜びの音色は時に呪いのハーモニーなのだろう。https://www.instagram.com/p/C1HYTSGR3Zn/?igsh=MTc4MmM1YmI2Ng==