大正8年3月 帝国劇場 市村座引越公演③ | 栢莚の徒然なるままに

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今回は久しぶりに市村座の役者達の公演を紹介したいと思います。
 
大正8年3月 帝国劇場
 
演目:
四、三人形
 
本編に入る前に前回紹介した大正7年2月から今回までの約1年の間に起きた事について紹介したいと思います。
 
参考までに前回の市村座の筋書

  

大正7年2月公演の後、3月は今回と同じく帝国劇場への引越公演を行い、4月の勝負月には日本晴伊賀水月の通しと市村座では2度目となる菊五郎の助六をぶつけて歌舞伎座と帝国劇場相手に善戦しました。そして珍しく5月にも公演を開き鳩の平右衛門や花川戸身替お俊といった珍しい演目を出しました。
その後またも珍しく市村座は3ヶ月連続で休場し8月の帝国劇場の引越公演を含めて役者達は各々巡業などに励んでいました。
そして秋に入ると10月が菊五郎の狩猟の為に休みになった以外は毎月公演を行い一見するといつもと何ら変わらない様に見えましたが、既に事は静かに水面下で進行していて12月公演が終わった直後にまず勘彌が田村成義の元を訪れて辞表を提出しました。理由としては新劇関係に取り組みたいと演芸画報に手記を寄せていますが、勿論それだけではなく長年に渡り菊吉三がトップを独占する市村座の現状に不満を抱いた為なのは明らかでした。
そして時同じくして坂東彦三郎も似たような理由で市村座を脱退し赤坂にある演技座へと拠点を移しました。
この2人の脱退について吉右衛門は後年
 
この時分から、市村座の全盛もそろそろ下り坂となる兆が見え始めてたのではなかったのではなかったろうかと思はれます。」(吉右衛門自伝 より)
 
と述べていてこの2人の脱退とこの年の8月に起きた事と相まって市村座の崩壊へとカウントダウンがスタートする事になります。
 
伊賀越道中双六
 
一番目の伊賀越道中双六はこのブログでも何度も紹介した時代物の演目です。今回は岡崎の上演となります。
 
市村座で行われた前半の通し

 

今回は唐木政右衛門を吉右衛門、女房お谷を菊次郎、山田幸兵衛を東蔵、和田志津馬を時蔵、幸兵衛女房おつやを菊三郎、幸兵衛娘お袖を国太郎がそれぞれ務めています。
既に何度も手掛けていてお手の物であった吉右衛門ですが劇評は
 
政右衛門の吉右衛門が期待してゐたほどの出来ではなかった。数年前、勘彌が幸兵衛に扮った時の方が、旨かったやうに思はれる。
 
と意外な事に前回の通しの時の方が良かったと言われるなど不評でした。劇評ではその原因について2つほど挙げていて
 
一般にこの政右衛門は世話の調子が勝ち気過ぎてゐたやうである。幸兵衛に向って「先生」と呼び掛ける白や、まめまめしく立ちはたら科が、非道く気が利き過ぎて、町人染みた心もちに見えたのは、この人持ち前の愛嬌が然わらしめる所か。
 
と1つには彼の持ち前のきびきびした動きが武士というより町人らしく見えてしまった事があるのと
 
惣じて、この役は鴈治郎や仁左衛門の取り扱ったやうに、昔風の、少しはくさい技巧を用ふべきものではなからうか。吉右衛門が常套としてゐる現行の人間を重きに置いたやうな技巧は、遂に破綻を来す慎がないでもない。
 
ともう1つに彼が影響を受けている九代目式の肚芸がこの場では不向きであると指摘しています。
 
吉右衛門の唐木政右衛門
 
この様な理由で評価が今一つだった吉右衛門に対してこの場のもう1人の主役であるお谷を演じた菊次郎も
 
菊次郎のお谷、特色のない出来栄えである。訓練の行き届いた兵隊が、閲兵式に出て来た時のやうに、不断 (普段)から習熟した技巧を、過不及なく用ひてゐるまでのことである。

とこちらも吉右衛門に付き合っている事もあり落ち度はないものの、その代わり何処か光る所もない普通という評価でした。
 
菊次郎の女房お谷
 
そんな主役2人がパッとしなかったのに対して脇役はというとまず志津馬を演じた時蔵は
 
時蔵の志津馬は、一癖ありげな容貌に、一種の敵役めいた色若衆の風情があって、奇異な感を催した。白廻しは他日一層の努力を俊つ。
 
とこちらも兄吉右衛門と似た様に役の性根と彼のニンが合っていなかったらしく菊次郎と同じく微妙な評価となっています。
しかし、幸兵衛を演じた東蔵は
 
東蔵の幸兵衛は大いに腕を揮って、車輪になってゐる。この人は勘彌が退いて以来、油がのって来たやうなところがあるのは、更に一層の努力を強ひてもいいと思ってゐるが、この幸兵衛の役は、熱心のあまり、少し政右衛門の領分を犯してゐるやうに考えられる。世間では、この役が非道く評判がいいやうであるが、矍鑠たる老人の表現に専らになって、他を等閑に附してゐるやうに見える。
 
と役者が去りポジションが空けばそこに新たな役者が納まるのは常という事で勘彌の脱退によりその座に入ってきたのが彼は大役幸兵衛を演じるとあって大車輪で演じて少々オーバー過ぎる所は批判されつつも概ね好評でした。
東蔵はこの頃から勘彌が去った市村座の中で徐々に存在感を増して行き、この翌年師匠の許しを得て大名跡を襲名する事となりますのでその時改めて紹介したいと思います。
 
この様に東蔵の幸兵衛こそ評価されていますがそれ以外はどれも芳しくない結果でしたが、見物としては表面上は変わらぬ勢いの市村座の熱狂的な贔屓層に支えられた事もあり受けそのものは良かったそうです。
 
芋掘長者
 
中幕の芋掘長者は岡本柿紅の書いた新作舞踊でこの公演の半年前の大正7年9月に市村座で初演され今回は約1年ぶりの再演となりました。
今回は芋堀藤五郎を菊五郎、友達治六郎を三津五郎、緑御前を男女蔵、狭山左内を時蔵、侍女松葉を国太郎がそれぞれ務めています。
さて、この演目はどうかと言うと
 
この喜劇じみた所作事は、多年菊五郎が創作してゐる新しい舞踊劇の中で、尤興味深い主題を取り扱ひながら、形式としては最失敗してゐるものである。
 
と内容についてかなり辛辣な評価を下しています。そして演じる菊五郎についても
 
菊五郎の芋掘踊りなるものは、天衣無縫の境地に達してゐない憾みがある。自由と奔放とは、この種の所作事に見ると等しく、闊達と自在とを具(そな)へてゐるが、自然に滲み出して来る面白味は、ついに発見する事が出来ない。芋堀踊りを踊るまでの菊五郎が、わざと不自然な緊縛の態を学んでゐるのも快く思はれない。
 
と意図的に芋堀踊りを華麗に踊ろうとしてその前の部分をわざと下手らしくしているのがわざとらしい等、なまじ踊りの才能がある分その才能を見せつけんばかりの態度が透けて見えるとこちらもかなり酷評されています。
 
菊五郎の芋堀藤五郎、三津五郎の友達治六郎、男女蔵の緑御前
 
この後、この演目は1回だけ再演されましたが菊五郎と市村座の迷走の煽りを受けてすっかり埋もれてしまい、今回演じている三津五郎の曾孫で先日亡くなった十代目三津五郎が手を加えて復活させたのを機に今日でも見る事が出来ますが当時の評価を見るに菊五郎の作った創作舞踊の中では当時から評価はあまり高くなかった様です。
 
人情噺文七元結
 
二幕目の人情噺文七元結は大圓朝の落語を基にした世話物の演目です。
腕は立つものの博打好きな為に借金まみれの大工長兵衛が娘が遊郭に身を売って得た金で借金を返そうとするも身投げしようとしている文七を助ける為に与えてしまい、それが原因で妻お兼から詰られ喧嘩になるも文七が貰った50両を返し、更に遊郭から娘を身請けして妻にした事で目出度く家族は1つになるという人情物で亡くなる直前に五代目菊五郎が初演して以来六代目が受け継いで再演を重ねて洗練させていった事で今では音羽屋のお家芸の一つでもあります。
 
市村座で上演された時の筋書
今回は五代目菊五郎の時に和泉屋清兵衛を務めた松助が加わった他に長兵衛を菊五郎、女房お兼を菊次郎、手代文七を三津五郎、角海老亭主文蔵を吉右衛門、鳶石町の伊兵衛を東蔵、女房おこまを国太郎、番頭平助を新十郎がそれぞれ務めています。
さて舞踊ではここ数年では珍しいまでに酷評されてしまった菊五郎ですが世話物はどうだったかと言うと
 
菊五郎の長兵衛は、怠惰な善人を模し得て妙である。江戸市井の随所に見いだされたと思ふ、この種の凡人の風態を、如実に写し得て至れりといふべしである。菊五郎が写実の技に長じてゐることが、彼最大なる武器であるのは、各人の筆を一にして賞賛する所であるが、この人近来従来の世話狂言中の人物に扮することに、唯単に巧みであるといふより一歩進めて、頗る滋味のある芸風を作り出して来たのは、改めて推賞するに憚らない。歌舞伎の狂言が、時代より、世話に移り、誇張より自然を尚(たっと)ぶ江戸末期の風潮が、五代目菊五郎に至って極まったのであるが、この人はその中核を為してゐる極端な写実の中に一種の味を自得してゐるのは、既に幾多の黙阿弥の狂言中の人物に扮して明らかに証明してゐる(中略)今度も序幕の、酔っぱらって、のそりと我が家にはいって来る刹那から、舞台の上とは思はれないほどの巧みに、その人間になってゐる。殊に二幕目の文七の投身を止める件の、我を忘れて金を恵むまでの心理過程を、細密な、飽く迄自然な表現で一貫してゐるのは、この種の傑作の一つに数ふべきである。唯、この前の場で、痺れを切らす誇大な科は、この劇場の見物を甘くみたお景物であらうが、愛嬌に過ぎたわざとらしさは止してもらひたい。
 
と一ヶ所だけわざとらしい演技があった以外は五代目の作り上げた写実芸を更に一歩推し進めたとまで激賞される程の高評価をされています。そして絶好調の菊五郎を支える脇役もまた好評でまずベテランの松助と新十郎について
 
松助の主人と新十郎の番頭とは、楽々と芸をしてゐるだけのことはある。
 
と双方ともに團菊の芸を知るご意見番とあって極めて自然に演じて評価されています。余談ですがこの2人は老け役で双方のポジションが被る為か犬猿の仲であり、新十郎が松助の事をボロクソに貶しているのが弟子の秀十郎が覚えていて千谷道雄の記した「秀十郎夜話」に記されています。
さて話を戻すと次にお兼を演じた菊次郎も
 
菊次郎の長兵衛女房は大詰の駕籠から出て来た娘に跳びつくところに、己は一種の感慨に打たれて、不用意にも眼を潤ました。
 
と一番目の時は打って変わって水を得た様な演技で帰ってきた娘を思わず抱き寄せる母性を出す場面では劇評も思わず泣かせる程の好演でした。
 
菊五郎の長兵衛と菊次郎のお兼、翫助の家主甚八
 
この様に主役の菊五郎始め脇も含めて好演した事から舞踊での不評を見事に跳ね返し今回の中で一番の当たり演目となりました。
 
三人形
 
大切の三人形は文政元年3月に中村座で初演された舞踊演目です。初演当時は三代目坂東三津五郎、二代目中村芝翫(三代目中村歌右衛門)、五代目岩井半四郎と江戸を代表する一流役者の共演で話題を呼びましたが、今回は市村座の次世代を担う筈だった3人、即ち胡蝶太夫を時蔵、滝澤新之丞を男女蔵、奴友平を米蔵がそれぞれ務めています。
さてこちらはどうだったかと言うと文七元結までで劇評の集中力が切れたのか素っ気ないながら
 
米蔵の奴の生彩ある踊と、男女蔵の美しさとを挙げる。
 
とのみ書かれています。
 
男女蔵の滝澤新之丞、時蔵の胡蝶太夫、米蔵の奴友平
 
時蔵の胡蝶太夫の評価が無いだけに全体の評価が今一つはっきりしませんが若手3人の踊りだけに菊五郎の様な変に技巧に走らない分素直に見れた模様です。
さて、劇評の評価では前半はかなりボロクソだったものの、入りとしては勘彌、彦三郎が抜けた位では客足には然程影響を及ぼさなかった為か市村座の贔屓と帝劇の見物を中心に根強い人気を博し大入りとなったそうです。しかし、この後8月に行われた2度目の引越公演の時に市村座の崩壊に拍車をかけてしまう事となる2つの大きな出来事が起こるとはまだこの時は知る由もありませんでした。