「創造者」のところで以下のように書きました。
「確かにその行為の中心には伝えたいものがあるのでしょうが
そこにある動機は人を感動させようとか、誰かの目を気にして良い評価を受けよう
とかそういうものはないように思いました。」
私は何かをするとき、行動するときの動機は凄く大切なものだと思っています。
で、思い出したのがパリサイ人のことです。
パリサイ人は教えの本質を捉えず、表面的な解釈しかできなかった人たちとして
聖書に出てきます。
(以下の抜粋はAIより)
パリサイ人(ファリサイ派)は、イエス・キリストの時代のユダヤ教で、
モーセ律法(成文律法)と口伝律法の厳格な遵守を掲げた熱心な宗教グループです。
その名は「分離された人」を意味し、律法を守らない人々から自らを「分離」して
清さを追求し、一般民衆からは尊敬されていたが、イエスからは形式主義と偽善を
批判された。
パリサイ人の主な特徴、イエスとの対立
「分離された人」:不浄な存在や律法を守らない罪人と関わるのを避けるため分離
していた。
イエスとの対立:形式的な安息日やきよめの掟(おきて)を重視し、本質的な「愛」
を説くイエスと対立し、しばしば偽善者と批判された。
(抜粋終わり)
律法、教えの中で最も大切なものは
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これがもっとも大切な第一の掟である。
第二の掟もこれと同じよう大切である。
『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』
これに対して律法を厳格に守るパリサイ人は、本質を実践しない偽善者です。
頭だけで分かったつもりの人なのだと思います。
本質はシンプルです。
でも実践するとなったらなかなかの学びです。
『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』
イエスは律法を守った方です。
そして、本質の実践もした方です。
言うことと中身が一致しています。
律法も大切だけれど、本質を掴むことの重要性も説いた方だと思います。
律法は本質にたどり着くために守ったほうがよい教えだと思います。
だけれども本質を実践しなければ、それは絵にかいた餅になるように
思います。
知識だけあっても、その本質を捉えて実践することができなければ
その知識は意味をなさないということかと思いました。
イエスは彼らの「内側(心)よりも外側(形式)を清める」姿勢を
批判した、とあります。
「創造者」のところにも書きましたが、本質を掴むことって大切だなあと
思います。そしてその実践も。