諏訪の神の正体 ① | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

私の産土神社である諏訪神社の祭神は

タケミナカタ(建御名方神)です。

 

タケミナカタは古事記では

屈辱的な姿で描かれています。

 

それなのに諏訪神社は全国に

5千を超えて祀られています。

 

これがずっと不思議でした。

 

 

古事記の国譲りの場面でタケミナカタは

タケミカヅチ(建御雷神)と力比べをして、

 

軽々と投げ飛ばされて逃げ去り、

諏訪まで逃げたが追い詰められ、

 

この地から外には出ないと約束して

死をまぬがれた、という情けない話でした。

 

 

不思議の理由の一つが、「古事記」は

ほとんど読まれなかったことです。

 

今でこそ古事記は有名ですが、

読まれるようになったのは江戸時代に

 

本居宣長が「古事記伝」を出してからです。

ですからその影響はなかったということです。

 

 

それにしてもあの神話の内容は気になります。

 

結論としては、タケミナカタは

蘇我馬子に敗れた物部守屋を表しているようです。

 

 

6世紀に仏教を取り入れるかどうかで

大和朝廷は大きな争いが起きました。

 

崇仏派の蘇我馬子に対して物部守屋は廃仏派。

 

最初は守屋の方が優勢で、疫病がはやるのは

仏教が原因だとして、仏殿を焼き、仏像を海に捨てました。

 

 

その後は蘇我馬子が盛り返して主導権を握り、

物部守屋は賊軍とされて、結局打ち取られました。

 

これを機に仏教は全国に広がりますが、

善光寺が長野に創建されました。

 

 

『善光寺の本堂の108本の柱は円柱のものだが、

唯一大黒柱のみが角柱で、

 

これは別名「守屋柱」と呼ばれ、柱の下には

物部守屋の首が埋設されていると伝えられる。

 

また善光寺の本尊は、

そもそも物部守屋が蘇我馬子の寺を破壊して、

 

仏像を難波の堀江に棄てたものを

本田善光なる者が拾い上げて

 

持ち帰ったのに始まると伝えられる。』

 

(~戸矢学著 河出書房新社刊

 『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』より~)

 

 

 

 

守屋の首を埋めてその上に大黒柱を立てる。

反対派を封じて仏教を普及させるという

 

凄まじい執念を感じます。

 

 

一方、無念にも敗れた物部守屋が

死後祟りをなしているという現象が起きました。

 

太宰府に左遷されて怨みのうちに死んだ

菅原道真公が都を祟ったように。

 

それで、怨霊となった物部守屋の怒りを

鎮めるために、

 

善光寺の南にすでにあった諏訪神社の

神域に物部守屋神社を建てて、

 

一族の者に祀らせたようです。

 

 

のちになって、

 

古事記編纂のおりに、守屋を殺して

長野に首を埋めて封じた出来事を

 

タケミナカタが諏訪に逃げて外に出ないと

約束したという神話に表現したようです。

 

そのついでに、藤原氏の氏神である

鹿島神宮の祭神を顕彰するために

 

タケミカヅチを最強の神に仕立て上げた

というのが真相のようです。

 

そして、いつしかタケミナカタが

諏訪大社の祭神になってしまった。

 

 

諏訪の神の祭神決定には3つの

段階があります。

 

1.縄文時代からの「ミジャグチ神」信仰

     ↓

2.物部守屋の善光寺封印と

  物部守屋神社祭祀

     ↓

3.タケミナカタの古事記への登場と

  諏訪大社の祭神への指定

 

 

これでだいたい納得できました。

 

 

しかし、諏訪の神の本質は

縄文時代からの「ミジャグチ神」です。

 

この「ミジャグチ神」がわからないと

本当の諏訪の神はわかりません。

 

これについてはまた次回に。