フランクルの「主体性」 | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

 

ビクター・フランクルの

『夜と霧』を読みました。

 

山本七平のフィリピンでの

戦争体験を思い出しました。

 

飢餓状態のなかでの

体力を消耗する行軍。

 

戦闘で敵に殺される恐怖、

病気にかかって死ぬ恐怖、

 

いつ終わるともわからない中、

人間の限界を試すかのような試練。

 

仲間のなかから、脱落して死んでいく

ものが出るのが普通の日常。

 

そういった、いつ死んでもおかしくない

「極限状態の連続」が共通しています。

 

フィリピンでは熱帯の熱さが脅威ですが、

強制収容所の場合には凍傷にもなる寒さ

の違いがありますが。

 

 

 

限界を超え、耐えられなくなると

朝起きることを拒否して動かなくなる。

 

どんなに脅しても、懇願しても、

殴打しても、身動きもしない。

 

『彼は自己を放棄したのである!』

 

そしてその人は死んでいく。

 

 

そうした絶望的な状況のなか

フランクルは内面に「自分の世界」

をつくって積極的に自らを守った。

 

 

『私のあらゆる思考が毎日毎時

苦しめられざるを得ない

この残酷な強迫に対する嫌悪の念に

私はもう耐えられなくなった。

 

そこで私は一つのトリックを

用いるのであった。

 

突然私自身は明るく照らされた

美しくて暖かい大きな講演会場の

演壇に立っていた。

 

私の前にはゆったりとしたクッションの椅子に

興味深く耳を傾けている聴衆がいた。

 

そして私は語り、強制収容所の

心理学についてある講演をしたのだった。

 

そして私をかくも苦しめ抑圧する

すべてのものは客観化され、

科学性のより高い見地から

見られ描かれるのであった。

 

このトリックでもって私は

自分を何らかの形で現在の環境、

現在の苦悩の上に置くことができ、

 

またあたかもそれがすでに過去のことで

あるかのように見ることが可能になり、

 

また苦悩する私自身を心理学的、

科学的探究の対象であるかのように

見ることができたのである。』

 

(~ビクター・フランクル著

 みすず書房刊 『夜と霧』より~)

 

 

劣悪な環境のなかで

未来の希望を失い、

生きる意味を剥奪されて生きる。

 

人としての尊厳を奪われても

「心」をすべて奪うことはできない。

 

心の中に「自分の世界」をつくり、

自分で意味をつくり出していった。

 

 

やはり、苦難は人を磨きますね。

常人では行けない高みに到達します。

 

「主体性」がすべての始まりです。