記念すべき初出勤の1日、30年前ではあるが僕ははっきり覚えている。

緊張して何も役に立てなかったが、唯一接客したお客様がスーツを購入してくれた。

そしてその日は暇だったために僕の売り上げが大半を占め、先輩社員たちから拍手を受けた。


朝の掃除を終える頃に先輩社員が出勤し始め、口々に『おっ、洗礼を受けてるな』とか『掃除が嫌で辞めたやつがたくさんいたよな』など、僕の先々を危ぶむ声が聞こえたが、伊良地さんの言うことは至極常識的なように思えたので、とても勉強になった。

ただ、非常に物事の考え方が極端で、本人がアル中であることはすぐにわかるのだが。

当の本人は開店すると、他のショップ回りやと言い残して出かけたまま、その日は戻って来なかった。

どうせ競馬かパチンコだろうよ、と皆口を揃えたが、まさかそんな仕事中にと思っていた。

果たして閉店前に帰ってきた伊良地は、明らかにイライラしていた。

『クソッ、あの落馬さえなかったら今夜は美味いもん食えたのに』
とぶつぶつ言いながら赤ペンでビッシリ文字が書かれた新聞を放り投げた。

『しゃあないな、今夜はいつもの居酒屋で』ほな先に行ってるでと店を後にした。

はぁ~と先輩がため息をつく。
『今夜はデートやったのになぁ』

『何があるんですか』と訝しい顔をする僕にデートの先輩が頭を小突いた。

『おまえの歓迎会やがな。今日は帰って来ないことを祈ってたのに、しかも負けて機嫌悪いし』

と言う会話の後、閉店前の来客で混雑し、初日は1時間残業となった。

先輩たちはあわてて急げ急げと帰り支度をしている。

その意味がわからずどうしたんですかと尋ねる僕に、一番年下の立石さんが言った。

『店の外で待ってるからな、閉店後電話がジャンジヤン入ってたやろ。忙しくて取らへんかったけど、あれ全部おっさんからやで』

走って外に出ると雨がシトシト降っていて、蒸し暑い大阪の空気に思わず咳き込んだ。

約束の居酒屋の前に伊良地は腕を組んで仁王立ちしている。

『お前ら何時間待たす気や、このカスが!』
足元は濡れ、汗をブルブルかいて決してつぶらなとは言えない目をひんむいて鬼の形相で口汚く罵る姿は、どこから見てもヤクザそのものである。

あの、お客さんがと言いかけた僕の口を、立石さんが即座にふさいだ。

すんません、以後気を付けます!

全員声を揃えて頭を下げると、
『おう、わかりゃええねん。ほな飲もか』

とにこやかに暖簾をくぐった。
『おまえなぁ、ややこしいこと言うたらあかんぞ』
立石さんが囁いた。
『素直に謝っておだてときゃ機嫌よく奢ってくれるから。怒らせたら説教のあげく割り勘やからな』

『しかしなんで外で待ってるんですか』

『一人で店によう入らんのや。なんでかわからんねんけど』

わかったようなわからんような、誠に深い、いや理解しかねる人物像であることが徐々にわかってきた。

その後乾杯して間もなく、伊良地はイビキをかきはじめていた。

帰ろかなと言う立石を、先輩の橋田が止めた。

『おれらがとばっちり食うからやめろや』

全員諦めムードでおかわりを注文し、僕はこの恐るべし上司がいい人なのか否かわからなくなっていた。

その夜気づかなかったことは、この飲み会は毎夜開催されるという事実であった。