継続支援が大切

3月20日、4月20日、5月16日と3か月続けてニューヨークから救援物資を届けに被災地を訪れた。継続した支援をしようと自分に約束したのだ。3回目の今回はなぜか気持ちが楽だった。今回も都内のディスカウント量販店やドラッグストアなどで色々な物資を買い込んだ。
5月16日。初夏らしく緑がまぶしい。田んぼには水がはられ、とてものどかで懐かしさを感じさせる田舎風景である。被災地へ行く道のりとは思えないが、相変わらず自衛隊の災害派遣車がものものしく通過する。震災から2か月たった現在、今までと明らかに違う光景は仮設住宅が設置され始めたことだ。これは東北自動車道を北上したときから感じた。仮設住宅の資材を運ぶトラックを何台も見かけた。

強烈な異臭

東北自動車道を一気に北上し、最初に訪れたのは岩手県の大船渡市だった。山道を越えて、大船渡港の看板。どこに海があるのかと看板を右折すると、耐えられぬほどの悪臭が。今までは気温も低かったが、5月になり初夏に入った為か、強烈な磯臭さが鼻をつらぬいた。ここまでの臭いは被災地では初めての体験だった。この辺りは水産加工業でもあったのではないだろうか。悪臭に耐え切れず漁港に行くのは断念し、そのまま丘の上に行くと大船渡中学校があった。学校自体は通常通りに授業をやっていた。お昼近かったので給食のいい匂いがした。それとは対照的な体育館の非難場所。窓は目隠しのように段ボールで覆われ、そのまわりには洗濯物が干されていた。そして体育館の横に仮設住宅地ができていた。
中学校は丘の上にあり、そこからは大船渡港が一望できた。港は瓦礫の山で、まるで戦場の焼け野原のようだ。しかし津波に被害のないところは美しい緑と海である。美しい町であったことがうかがえる。

4才の男の子

避難所に入ると、そこにいたお年寄りがすぐに挨拶をしてくれた。その避難所には先週までは140人が非難していたようだが、今はそのうち70人が仮設住宅へ引っ越されたそうだ。そこで4歳の少年に出会った。私に向かって「つなみ、かじゅ(火事)、4才」といいつづけたゴン君(仮名)。「いっしょにあそぼ」とゴン君は私の手をもってしきりにひっぱるのであった。『大きなくりの木の下で♪』を歌って喜んでいた。手を引っ張られるままについてゆくと、とそこにはプレイルームがあった。救援物資として寄付されたのか、ぬいぐるみ等いくつかのおもちゃがある。ここの避難所には小さな子供がいないようで、いつも1人で遊んでいるようだ。鯉のぼりがあり、それを元気よく指差してくれた。おじいちゃんとおばあちゃんが見知らぬ私に警戒したのか、一人で遊びに行っちゃダメだよと言われていた。

 今回はここに救援物資を渡そうと決めた。ゴールデンウイークでずいぶんと慰問者やボランティアがここ被災地へ訪れたようだが、ここのようにまだまだ物資が行き届いてないところも多いと感じだ。前回届けた所では直接受け取とらず、集中センターへ届けてくれと断られたのだが、ここは喜んで受け取ってくれたからだ。

避難所として体育館の空間を上手に使っているのが印象的だった。とてもきれいに整頓され、医務相談所などもあった。壁面には各地から届いた無数の応援メッセージ。体育館の舞台には共有のキッチンとしてカセット式ガスコンロが並べられている。舞台の袖には、ジュースや食事等の箱が山済みになっていた。ドーム型テントや間仕切りのダンボール、そこにビニールシートで上手に寝床を仕切っているが、隣との間は20センチほど。人が通るのがやっとの間隔だ。プライベートを保つのは本当に難しいだろう。お年寄りが多く、他人同士が集まっている。音は全く遮断されない空間で、いびきや子供の声など、就寝時は精神的にかなりの負担であるのは間違いない。

印象的だったのは、入り口に「今日は5月17日です」と日付を知らせるカレンダーが張ってあったことだ。まるで無人島の漂流のようだ。ここにいると日付感覚等がなくなってしまうのだろうか。

キャンディーなどたくさんのお菓子を持っていったのが喜ばれた。校庭では体育をやっていて、優雅なピアノが流れているのと対照的で、目の前の光景が非現実的で不思議な感じがした。そこから突如現れたあの人懐っこいゴン君は、今思うとまるで妖精のように思えた。おじいちゃん、おばあちゃんは私が見えなくなる坂の下まで頭をさげていた。ゴン君はずうっと手を「バイバイ」と叫んで手を振っていた。

被災地からもらった元気 

正直、この数週間はとても忙しく被災地へ行く余裕もなかった。しかし、今回は逆に被災地から元気をもらえたような気がした。災害に負けない努力と復興に対する前向きさに涙がでた。私が9・11の際にある人から頂いた「乗り越えられない試練は与えられない」という言葉を思い出した。私自身この言葉でずいぶんと助けられたのだ。9・11をきっかけに会社は倒産し、億単位の借金を背おった。死ぬのも地獄、生きるのも地獄と思った。しかし、生き残ったものとして、最大限、精一杯生きる。これが使命とあるときから感じた。訪れたみやげもの屋の店頭に「全国の皆さんの応援に感謝・・・」との言葉。そうだ、人は災難にあい、人々に助けられる。その感謝が機動力になる。こんな壊滅的な状態から立ち上がる姿に尊敬の念を抱いた。

瓦礫の中のやすらぎ処

そこから南下し、前回少しだけ訪れた陸前高田に立ち寄った。ここも町がなくなる壊滅的な被災地である。日本百景に選ばれた名勝「高田松原」も無残に削り取られた。約7万本の松林のうち1本だけは津波の猛威を耐え、瓦礫の中で悠々と立っている。その町にぽつんと見える「復興の湯」という手書きの看板。瓦礫の山の中に3つのドラム缶に焚き火。まるでマンガのような光景であった。さきほど訪れた大船渡の被災地では、持っていった幼児のオムツは幼児がいないということで渡せなかった。もしかするとここでは必要かと思い、立ち寄ってみた。

 人のよさそうなおじさんに出会い、このことを話すと、ありがたく受け入れたいとのことであった。おむつを車から運び終えると、「コーヒーでも飲んでいきませんかと」と誘われた。そこにはゴールデンウイーク中にかわるがわるボランティアの人が全国から集まってきて、コーヒー等をおいていったようだ。普段はコーヒーなど飲みそうもないような地元のおじさんが、ドリップ式のコーヒーを器用に入れてくれる。ふと見上げると、壁には「目指せスタバ!!」と思わず笑ってしまうような張り紙があった。今回は被災された方々の話をじっくり聞くことができた。

津波がくるぞ!津波がくるぞ!

 ここで聞けた話はとてもリアルだった。彼は左官屋さんをやっている50代後半のヤマさん(仮名)。津波の起こった当時はこの復興の湯のあたりにいたようだ。当時は5-10メーターほどの津波がくるといわれていた。しかし、目の前を襲った津波は27メートル。そこいらの泥を巻き込んでの波だったので、ヘドロの山が襲ってくるようだったと興奮して語ってくれた。「津波がくるぞ!津波がくるぞ!」と叫び、丘の上まで逃げたヤマさんであったが、「その声をちゃんと聞いた30-40人は逃げて助かったんだ。でも、ほかのばあちゃんたちは、人の話を聞かずにずうっとおしゃべりしていた。そのばあちゃんたちは目のまで流されていったよ」と語ってくれた。やはり人の話はきちんと聞くべきだと。50年前にもこの地域は津波に襲われたことを思い出すという。そのときはまだ小さかったのであまり鮮明には覚えていないが、こんなに海から離れている内陸なのに信じられないよと。「福島の原発もすごいけど、いつか戻れる場所がある。しかし、ここはすべて流されてしまったんだよ」という言葉は胸に響いた。

2人のお坊さん

ここの復興の湯はもともと給水車から汲んだ水であったらしい。しかし驚くことに、ボランティアで愛知県からふらっと来た2人のお坊さんが復興の湯のすぐ横を、たった4メーター掘って水源を掘り当てたと言う。色々なスキルを持った人がいるものだと感心した。お風呂は男女にわかれて20人くらい入れるヒノキの立派なお風呂だった。「石巻ではお風呂がなくてかわいそうだけど、ここ陸前高田はお風呂があるから恵まれているんだ」といっていた。確かに、私も被災地へ来て野宿をするのは耐えられるが、そのあと風呂に入れないのは辛かった。

この地方では地区ごとに七夕祭りをするのが名物のようだ。今年は中止なのかなというヤマさんの悲しげな顔を思い起こす。ここでも東北の人の思いを深く感じた。「お風呂にはいっていってください」と何度も言ってくれた。

頑張ってとはいうけれど

物資を届けた後に交わす言葉がいつも難しい。なんと交わしたらよいのか。頑張っている人に「頑張って」とも言えない。これは私が9・11のときに被災したときに実感したことだった。頑張りたくとも頑張れない。こんなに頑張っているのにまた追い討ちをかけるように頑張れと言われても余計に辛いのだ。私はなんと言っていいか分からず、咄嗟に出たのは「ありがとう」という言葉だった。

チャリティ貧乏

しかし、ニューヨークでは相変わらずどこかしらでチャリティイベントが連日開催されている。不謹慎かもしれないが、ここまでイベントづくしだと「チャリティ貧乏」になってしまう人も多いと、まことしやかに囁かれるほどだ。個人が無理をして負担を感じてしまうような一過性の支援ではなく、無理なく続けられる継続的な支援が大事だと今回の被災地訪問で再認識する。私が9・11の後、交流会を立ち上げ、現在でもしつこく続けている意図はここにあるのだ。 

続く

初出:月刊「アメリカン★ドリーム」2011年6月1日号

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