ニューヨーカーの行動は早い。さすがアメリカはボランティアの国だと感じた。
義援金活動のメールが矢のように降ってくる。連日どこかしらでチャリティイベントが開催され、
ニューヨーク在住の若者達も一致団結して頑張っている。今の若者も捨てたものではない。

こんなときだからこそ我々ができることは何か。
3月11日NY異業種交流会を開催した。日本の被災を知ったその日の朝、悩んだが、
開催を決行した。
こういう時だからこそ情報を交換するとともに、ニューヨークからエールを送りたいという思いが
強かったからだ。そして私は地震の翌日の便で成田空港へ向かった。

数時間の飛行機の遅れはあったが、なんとか東京に着いた。東京は静まりかえっていた。
フェイスブック等のソーシャルネットワークをみていると、日に日に人々から元気がなくなるのを感じた。

実際東京では、計画停電、余震に悩まされた。この状況下、すべての仕事のアポイントやイベントは
キャンセルとなり、私もどっしりと落ち込んでしまった。

翌週に予定していた東京での異業種交流会も、延期を決定。
これは9年前の開催以来初のことだった。これまで、ニューヨークで94回、
東京で18回開催してきた交流会。天災や人災など様々なことがあったが、
一度も中止をせずに頑張ってきた。

そもそもこの会は9・11の同時多発テロがきっかけで始まり、
心が傷ついた同胞たちが集い励ましあえることを主旨としてきたからだ。

今回の東京でも、震災に負けず頑張ろうという思いから開催に向けて尽力したが、
電車は不定期、食材も限定される状況だった。

せっかく参加してもらっても、帰りの足がないかもしれない、開催中に余震が起こるかもしれないという
安全面での不の要素が多すぎた。そして節電の必要性なども考慮すると、延期するという結論に至る。
断腸の思いだった。

自分はなぜ、今ここにいるのだろう。何故こんなことが起こるのだろう。
最初は落ち込むばかりだったが、徐々に、自分にできることは無いだろうかと一生懸命考え始めた。

まわりでは、東京は危険だからと関西に移住する人もでてくる。
外国人は、急いで母国への帰国準備を始めた。9・11のときもそうだった。
あんなにニューヨークが好きだと言っていたのに、夢を語っていたのに、
危険だからと言って日本へ帰国する人が後を絶たなかった。
それはそれで仕方ないと思ったが、自分はその一人にはなりたくないと思った。

そして震災の10日後、日本滞在中に私ができること、ニューヨークに戻ったら伝えたいこと、
それは何かを考えた末、被災地に行こうと決意した。

しかし被災地に行こうと思っても交通手段は限られている。
電車はない。バスも臨時便はでているが、予約は取れない。

行くにはレンタカーを借りるしかない。しかし、高速道路は封鎖され、ガソリンや宿、
食事も確保できないと聞いた。それでも、とにかく行けばなんとかなると決意し、
被災地に向うことにした。

レンタカー業者に問い合わせると、ガソリンが確保できるか定かでないため、
当日まで車を手配できるか分からないと言われた。幸運なことに、出発前日の夜再び問い合わせると、
の手配ができたという返事をもらった。

ようやく借りられた車は派手な黄色の車体に「XXレンタカー」とかかれた車両。
街中ではとても恥ずかしくって乗れたものではないが、そんなことは気にならなかった。

トランクいっぱいに、紙おむつ、ウエットティシュ、マスク、ホッカイロ、医薬用手袋などの
救援物資を詰め込み、プレス報道IDを車に貼り付けた。

この派手な車のお陰か、検問ではなんとか緊急車両扱いにされ、東北自動車道を無事走り抜ける
ことができた。東北自動車道は、自衛隊の派遣車や東北電力の車両、救援物資を運ぶ大型トラック
が物々しく北上していて、まるで戦地の様だった。ガソリン車、仮設トイレを運ぶ車、重機車両などもあった。

蓮田のサービスエリアでガソリンや食料が調達できるサービスエリアのマップを貰う。
これが後に非常に役に立った。サービスエリアも断水のためトイレは仮設。
普段は人であふれるサービスエリアは閑散としていたが、有難いことに食事を提供していた。

ハンドルを握り、とにかく北上した。
導かれるがごとく、津波の被害がひどい仙台若林区、塩釜、東松島、石巻などへ辿りつく。

正直、想像を絶した光景に言葉をなくした。まさに地獄絵とはこのことだ。まるで戦地。
津波の威力を目の当たりにし、足がすくむ。途中吉田川では川の両岸に車や家屋が浮いていた。
恐らく津波の影響で川も氾濫したのだろう。人々の悲しいうしろ姿にカメラを向けるのを躊躇した。
しかし、ジャーナリストとして、涙ながらにシャッターをきる。

そして被災がひどく、物資も届いていないという石巻高校に仮設置された市役所支援本部(避難所)
に救援物資を届けることができた。

10年前のニューヨークの9・11を思い出してしまう。規模は全く違うが、自分が経験した2つの災難、
9・11と3・11とを比較し、自分なりにいろいろ考えた。実は9・11で会社がつぶれた後、傷心で仙台
と松島を旅行し、この場所に随分癒された思い出がある。その地がこんなことになってしまうとは。

被災地の人々にも話を聞いた。
石巻の避難所の前で、凍てつくような寒空一人で立って交通案内のボランティアしているおばさんがいた。
話を聞くと、彼女自身も命ひとつで逃げ出してきた被災者だった。

仙台では石巻出身の在日韓国人の方に会う。
彼は「津波の威力はまるでジャンボジェット機が250機突っ込んだのと同じくらいの威力だ」と感じたという。
ごぉーっというものすごい音と共に、波が分厚い壁のように押し寄せてきたのだと。

本当は今どういうことを感じているかなどを聞きたかったのだが、
心情的なことにはとても触れることができなかったというのが実情だった。

9・11同様、現状とマスコミとの報道と伝わってくるものとの温度差を感じた。

ニューヨークに戻ってきて思う。

ビジネスマンとしてできることは何だろうか。私のビジネスのクライアントの多数は日本(人)であるため、
我社も今回の被災により大打撃を受けた。

今、実業家としてできることは、しっかりビジネスをし、利益をあげて従業員を解雇することなく、
社会へ貢献することだと思っている。
例えば大幅ディスカウントや自粛をするというような方向よりも、何よりもしっかり儲けて利益をだし、
そしてその利益を被災地へ届けることだ。元気な人が元気を失ってはいけない。
本業をおろそかにして他人を助けることはできない。

こんなときだからこそ、海外で日本の文化や日本の商品をしっかりと販売しよう。
今回の被災は長く復興にかかるだろう。風化させることなく、長いサポートが必要だ。

直接的な被害を受けた人たちだけではなく、脚光は浴びないが、間接的に大きな被害を受けた人たちも多い。徐々にボディブローがきいてくる。心のケアも必要になってくるだろう。9・11のときもそうだったように。

今、私たちのできることとは何か。
プロフェッショナルは、その専門を生かしていけばよい。
そして、そうでない人たちは、焦って事を起こさなくとも、きっとこれから役に立つことがあるだろう。
アンテナを伸ばしてそれを冷静に待つべきだ。

在米23年間、9・11のテロを体験しても、私は日本への帰国は考えたことはなかった。
しかしこの震災を体験して大好きな日本へ帰国した気持ちが湧き出てきたのだから、おかしなものだ。

少しでも被災地の人々の役に立てるようにと思い、私の立ち上げたNPO法人JaNetでも
東北関東大震災対策室を設置し、義援金活動を積極的に行なっている。
粘り強く皆で頑張っていきたい。

初出:月刊アメリカン★ドリーム 4月1日号

 

 

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