Mr.Aの部屋 -3ページ目

ジーン・ケリー

例えばビートルズなら「ジョン・レノン派かポール・マッカートニー派か」というのがある。
ビートルズというバンドのファンということは同じであっても、個性の違いに対して嗜好が分かれるわけだ。
昔の読売ジャイアンツなら「長嶋派か王派か」。あとは「大鵬派か玉子焼き派か」(嘘)。



ハリウッドのミュージカル映画黄金時代に関して云えば「フレッド・アステアかジーン・ケリーか」。これがあることは間違いない――二人の天才が同じ時代に同じ分野でその至芸を遺憾なく披露したというのは奇跡的なことだろう。タイムリーにその時を過ごしていなくとも想像するだけで興奮する。

こんなブログをコソコソ書いているのだから僕がアステア派であることは云うまでもない。

だからといってジーン・ケリーのことが嫌いなのかというとそうではない。
そもそも「どっち派か」という比較・議論が起こるという時点で、双方の実力や才能・功績を認めているということに他ならず……



……いや、モトイ。

やっぱり僕はジーン・ケリーが嫌いだ。
$Mr.Aの部屋
{理由:カッコ良すぎるから}


アステア好きを公言する者にとってケリーを観ることは危険過ぎる。
『That's Entertainment!』シリーズでのダイジェスト的な映像では勿論何度も繰り返し観ているし、『雨に唄えば』、『踊る大紐育』、『パリのアメリカ人』、『舞踏への招待』も観た。
しかし実際のところは、これらの素晴らしい作品を“身を乗り出して”というよりは“片目を瞑って”観たという感じだ。


僕などは単純で影響を受け易いから、きちんと鑑賞したらアッサリやられてしまうのではないかという危機感があるのだ。
アステアを「観る」だけでなく、無謀にも「同じように踊りたい」と思ってしまった僕は、アステアの映像で自らを洗脳しようと努力している……その密かな企てを揺るがす魅力がケリー作品には溢れている、と思う(きちんと観ていないから断言はできない)。


「ジーン・ケリーを観て彼の素晴らしさを知れば、もっとアステアの良さも見えてくると思うよ」というアドバイスをいただいたことが何度かある。
おっしゃる通りかもしれない。
だが、まだまだ未熟者の僕にとっては「迷い」が生じるリスクの方が大きい。



『ブリガドーン』と『カバー・ガール』(かの名作!!)も何処かにしまってあるが未見。
……僕がジーン・ケリーをきちんと観るのは、体が動かなくなって自分では踊れなくなってからかもしれない。

Mr.Aのコピーを踊るということ ①

(ちなみに6月22日はアステアの命日である)

僕の憧れの持ち方は真に稚拙で、誰かをその対象とすると「あんな風に素晴らしい○○になりたい」ではなく「あの人になりたい!」となってしまう。
そんな人間にとって、自分の最大のアイドル、フレッド・アステアと同じナンバーを踊ることがどれだけ嬉しいことか!


スタジオ・TAP INの門を叩いた当初、そして二度ほど遠ざかって“三度目の正直”と戻った際にも、僕は自分が“アステア好き”ということは口にしなかった。

何故ならそこは、趣味・嗜好は個人の勝手とはいえ、ダンスを少しでもやる者が「フレッド・アステアのように踊りたいんです」(さすがに「になりたい」ではない)と云ってしまうことの大胆さと無謀さを畏れさせる雰囲氣を持った、並外れたレヴェルを持ったタップダンススタジオだったからだ。

ところが、そのTAP IN(JAM TAP DANCE COMPANY)で初めて本格的に立たせてもらった舞台で踊ったメインのナンバーが「Puttin' on The Ritz」だった(加藤邦保先生振付によるオリジナルヴァージョン)。

僕はたいそう感激し、何かの加減で自分のアステア好きが知れたのだろうと思ったので、公演後、或る機会にそのことのお礼を云うと「え? そうなの? それは知らなかった」と加藤先生。
何たる偶然! と驚きつつも「しまった…」と焦ったものだ。

普通ならここで「あんな凄いダンサーに憧れたって無理だ」と(言葉にはしないまでも)思われて、この話はおしまいになるはず。
ところがその後、加藤先生とカンパニー代表の保戸塚千春さんは「アステアになれ! …いや、やるならアステアを超えろ!」と多くのチャンスを与えてくれたのだ。

・Begin the Beguine(BROADWAY MELODY OF 1940)
・Puttin' on The Ritz(BLUE SKIES)
・Pick Yourself Up(SWING TIME)

と、次々にコピーナンバーを舞台で踊らせてもらった。様々な方の協力を得てできあがった作品である。幾度感謝しても足りない。

残念なことにフレッド・アステアというダンサーは、今の日本ではそれほどメジャーではない。
もしかしたら(いや、十中八九そうだが)これが、僕が「恥ずかしげもなく」コピー作品をできる理由かもしれない。
僕のコピーをきっかけにアステアを知ってもらいたい、などという大それた考えはない。彼を観て知ってしまった人間が、当然のように魅了され、迷いなくその姿を追っているというだけのことだ。そして、それを観客の前で披露するという得難い機会を与えられて、観てくれる人がいる幸運……これを決して忘れてはならぬと自分自身に繰り返し云い続けたい。

コピーはもうやめて、次はそれを自分のスタイルにどう昇華(消化)していくかだ、と云って下さる方々がいる。嬉しい言葉だ。勿論、コピーだけをやっていくつもりではないが、僕はこう答えたい――

「いくらやっても大丈夫です。一生かかっても完璧なコピーはできないでしょうから!」







Mr.A誕生日

1899年の今日5月10日はフレッド・アステアの誕生日である。
生まれたのが前々世紀、ということに軽い驚きを覚える。


この機会に僕の「アステアとの遭遇」について文章にしておこうと思う。


ご多分に洩れずそれなりに「多感だった」高校生時代。
なんとなく厭世的であった僕は、現実逃避的に深夜映画を毎晩観て、学校の授業中に睡眠をとるというのが日課になっていた(当時は今ほどバラエティ番組やアニメ作品は盛んではなく、深夜放送といえば映画放映だった)。

今からすると我ながら呆れるが、多いときには月間40本近く観ていたと記憶している。


そんなある年(恐らく1988年か89年)の正月、故・水野晴郎さんが日本テレビで担当していた深夜映画番組でアステア=ロジャース特集があった。

地上波(という言葉も一般的でなかった)しかなかった当時の番組表の午前0時以降は映画放映でひしめき合っていたし、またその頃の僕はミュージカル映画というものに若干の抵抗があったので、この特集は「とりあえず録画しておいて後で観てみる」という扱いだった(悲恋のラブストーリーやフランス映画の方が好みだったのだ)。


初めて観たのが『CAREFREE』(1938年作品・邦題「気儘時代」)。
これはアステア=ロジャース作品としては晩作の方で、どうしてこの作品から観たのかは定かではない。放映順がそうだったのか、録画したのでテキトーな順に観たか。

ミュージカル映画にしては曲数も少なく、名曲も「Change Partners」くらいのもの(アーヴィング・バーリン作品なのに)。アステアも“踊りまくる”という感じではない。今あらためて観るとジンジャー・ロジャースの可愛さが目立つ作品という氣がする。


この作品が初めてとなると、アステアとの遭遇は自動的にこのナンバーとなる――――




上記のような生意氣な批評をしているのは今だからで、当時の何の免疫も持たない男子高校生をアステアの魅力に感染させるのに、このナンバー(タイトルは「Since They Turned Loch Lomond Into Swing」というんだそうだ)は充分すぎた。

「なんだこれ・・・・・・楽しいっ!!」


JAM TAP DANCE COMPANYの公演に際して、演出の加藤邦保先生が出演者によく口にする言葉がある・・・

「タップの舞台なんだから、タップを見せる必要はない。タップで何を見せるか。曲ごとの、曲の中での自分の役割を考えろ」

そして先生自身も、ジーン・ケリーに遭遇した時「なんだかわからないが観ていて楽しかった。観終わって楽しかった。思い返して考えてみたら、それがタップだったと氣付いた」という経験を持っているそうだ。


僕もこの初めて目にしたアステアの姿を“タップダンスとして”観た記憶はない。
「楽しい!・すごい!」の氣持ちで何度も繰り返し観るうちに、ステップに合わせて音が出ていることを発見したくらいだ。

「楽しい!・すごい!」が「やってみたい!」になるのには、それほどの時間は必要なかった。

そして、今日に至る。と。



「やってみたい!」は未だ達成・完成されることはなく、111年前に生まれた故人に対する憧れは強まることはあっても弱まることはない。