中野正剛の批判精神の片鱗 修猷館長批判の檄文 | 『玄洋』を読む

中野正剛の批判精神の片鱗 修猷館長批判の檄文

『玄洋』第8号(昭和56年4月1日)を読む
 4頁に、「奮い立った中野先生」という記事が載っている。
 明治41年3月、中野正剛 の母校修猷館 の卒業生が1000人を突破したのを記念して、盛大な祝賀会が催された。ところが、その余興で柔道場の畳替えを請け負っていた西新町の畳屋が小娘たちに、最も陽気な踊りと言われるカッポレを躍らせたのである。これに卒業生や父兄らが「不届千万」と騒ぎ出した。
 このとき、修猷館の同級生、阿部真言とともに奮い立ち、修猷館を批判する激烈な論文を書いたのが、当時早稲田大学学生だった中野であった。
 中野と阿部は、2600字に及ぶ檄文を書き、当時修猷館長だった西村謙三を激しく批判した。「大奸は大忠に似たり」と題された檄文は福岡日日新聞編集長に宛てられ、同紙に掲載するよう依頼している。後に「戦時宰相論」で東條英樹首相に迫った中野の激しい批判精神の片鱗を見せた、この檄文は『玄洋』同号5頁に収録されている。
 そこには、「余輩は館長西村先生を目して、人気取りの大奸物、古小民主国の所謂デマゴーグ、胡澹菴の所謂、一狎邪の小人、市井の無頼なりと断言するを憚らざるなり」といった批判の言葉がある。


福岡日日新聞編集長宛ての書状
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早稲田大学時代の中野正剛(左)、緒方竹虎(中央)、阿部真言(右)

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