原爆資料館。

入館。

 

 

インバウンドの声がうるせ〜です。

自分の常識は他人の常識ではありませんが、

日本人ならその距離でその声でお話はしない。

 

でも、インバウンドが入って来て

嬉しい日本であるのも確か!

 

 

 

 

 

 

遺品は語る

 

原子爆弾は一瞬のうちに街のほとんどを壊滅させ、

老若男女の区別なく、多くの生命を奪った。

そのため死亡を確認することができず、

遺骨はおろか遺品さえ残すことができない人たちも多かった。

平和記念資料館には約2万点の被爆資料がある。

これは家族のもとに戻ることができた

わずかな遺品や被災の痕跡が残る資料であり、

自分たちが経験した惨劇や悲しみ、苦しみを

二度と経験しないための証となってほしい

との願いを込めて、

現在も寄贈の申し出が耐えない。

 

 

 

 

黒い雨

 

炎から逃れる人々の上に

黒い粘り気のある雨が降りました。

傷ついた人々は雨に打たれながら、

乾いた喉を潤すため雨粒を飲み込みました。

この雨は放射能を帯びていました。

 

 

 

 

爆心地から1キロメートル以内で被爆した男性。

腹巻で覆われていたところだけが、火傷をしなかった。

爆心地から約1.2キロメートル以内で、

遮るものがないまま熱線の直射を受けた人は、

皮膚が焼き付くされ、

体内の組織や臓器までも障害を受け、

そのほとんどが即死、または数日内に死亡した。

 

 

銕谷伸一ちゃん(当時3歳11ヵ月)は

三輪車に乗って自宅前で遊んでいる時に被爆し、

同日夜死亡。3歳の子供を1人で墓に入れるのは

かわいそうだと、

父親が亡骸と三輪車を一緒に

自宅の裏庭に埋めていた。

40年後の1985年(昭和60年)の夏、

庭から掘り出して、遺骨を墓に埋葬し、

三輪車を平和記念資料館に寄贈した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが

 

 

こう。

 

 

 

 

 

 

被爆遺構展示館

 

当時この地にあり地下に埋もれていた

旧中島地区の痕跡を展示した資料館になります。

この展示をするにあたり

60〜90センチほど地面を掘りおこして

焼土層や炭化した畳、板材が発見されて

それを展示しています。

 

 

 

 

ずっしり重たい

100分でした。

 



ランチでお好み焼き食べにいこ!