障害について考えること。

障害について考えること。

障害の特性や社会について、
たどたどしいながら考える。

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自閉症と診断されたまたはその傾向がある方は決まった行動を行う。

 

 

例えば、ドアはすべて鍵まで閉めて中に入るとか

 

ある一定の距離や自分の求めている人が近くに来ると

服のにおいを嗅ぐだとか

 

服の畳み方は毎回同じ畳み方をするだとか

 

 

それらは人によって異なるが、同じものに執着するという

障害特性を持っている。

 

 

ある男の子は同じ質問を何度も繰り返し、

人にも○○をやってほしいと強制する。

 

ある女の子は自分の着ている服やあるいは

他人が着ている服にさえ曲がっているところや

折れているところがあると直そうとする。

 

ある男の子は玄関で靴投げることが習慣的に

身につきそうになっている(やめさせようとしている)

 

 

こう見てみると、問題行動と言われ困ったことだと思う。

 

学校や家庭やその他機関の者はその困った問題

(特に他に不快感・嫌悪感をもたらすもの)については

やめさせようとする。

 

 

しかし、日常的になっていたことができないことや予定が

見通せないと癇癪を起こしその場で暴れたり泣いたりする。

 

これを「問題行動を起こしてよくない人だ。

なんできちんとできないのか」と思うとその支援者は

福祉教育が不十分だと思われる。

 

 

問題行動=その人の人柄、人格 だと思ってはいけない。

 

 

なんで○○をやってほしいと強制するのか。

強制する相手が好きだから一緒に遊びたいと思っている、

反応が面白くてやってしまう、

仲良く遊んでいると思っている

 

なんで靴を投げてしまうのか。

次にどうするればいいのかわからないから、

靴で遊んでしまう、

不快感があるから

 

 

行動をする根本的な問題に目を向けることが必要である。

 

また、よく言うエンパワメント(その人の強み)を

見つけることも大事である。

 

 

服の曲がっていることが嫌いな女の子は

細かい作業や単純作業が得意で手先が器用である。

 

別の子は、歌を歌うと音程がとてもよく取れていて

レパートリーも豊富である。

 

 

と、いいところや生かしていける強みを発見することが重要になる。

 

 

人は、難しいところやできないこともあるし

 

逆に他人より得意なことやいいところがある。

 

 

○○をしているだけではなくその先の

 

「なぜ○○をしてしまうのか」

 

「その子の家族背景や感情にはどういったものがあるのか」

 

原因を特定した対処の仕方を考えることが必要なのである。

 

 

 

木曜ミーティングより

 

 

 

自閉症の子なんかに多い、金切り声や奇声はお店やお隣が近いご自宅ではなかなかハラハラします。

 

私の働いている児童施設でも週に1回買い物出かけるんですが、テンション上がっちゃってたりとか完全に自分の世界に入ってしまってたりするとそれはもう賑やかで周りの方が驚いています。

 

静かにしてね、なんて言っても全然ダメだわってなった時は、こちらの注意の声を小さく小さくしたりして傍で言ったりすると、オウム返しする(こちらが言ったことを繰り返して言う、言葉の最後を繰り返して言う)特徴が出ている子はマネして小さくなったりします。(それも一時的ですが)

あとは、自閉症じゃなくても「アリさんの声ね」なんてその子が物体を想像しやすいものを言ってあげると「静かに」と抽象的な言葉より想像しやすくなってさらにあまり否定的な感じにとらえられずに一石二鳥です。

 

自閉症の子が苦手な、見通しが持てない=抽象的な言葉が理解できないのはなるべく何かに例えて促していくようにというのが基本です。

 

まあ、できない子もいるのでそれはそれで「仕方ないなぁ」と諦めてお買い物するのですが、こちらが予期しないタイミングで静かになったりします。天邪鬼め。

 

 

 

3年と少し前、初めて障害者支援施設に就職して働いたとき、一番初めに思ったのは「私はここで働いていけるのか」「先輩たちとうまくいっているのか」よりも先に利用者の方を見て「怖い」と思ったのが印象的であった。

 

 

当時は福祉の社会には全くの無知で、私がそこで働こうと思ったのは求人票の一覧を見て自分の嫌いなものを排除していった結果である。

営業・販売・製造・事務 等仕事のほとんどは嫌だと思うもので、逆に条件として休日が土日以外でもよい、給料も問わない、出勤時間も夜勤があっても構わない 等使用者としてはとても扱いやすい人材であったと思う。

一番は、「自分が面白いと感じるところ、成長を感じられるとこ」とはっきりしていた。

 

 

そこで目に留まったのが障害者支援施設である。

条件の中でざっと見て福祉系が一番理想に近いと思ったこと、父の影響でなんとなく施設の雰囲気は想像できたこと(ただし介護は避けたかった)、その時にはまっていた本にとても興味を惹かれていて「障害児」教育に関われる機会があればいいなとぼんやりと思ってたことを含めてそこへ就職した。

 

 

そこで、感じたことが冒頭のことである。

 

 

福祉に何もかも無知で、日常生活において障害者と接する機会もなければ街中でもどちらかといえば「避けてきた」傾向にあった私にとっては自然な反応である。

 

実際に今でもその反応は正しかった、と断言できる。

 

なぜなら街中で少し歳が上の方がフリフリピンクのスカートをはいていたら少なからず変わっているな、と思うし、毒づいてばかりいる人には近づきたくないなぁと思ってしまう。「自分と違う者、違う感性の者」がいればそこに「何か」を感じるのは当たり前だと思っている。し、関わらないようにしようと思うのも当然である。

 

 

当時と変わったことは、「知ればそれがさもあったかのように受け入れられる」と学んだことである。

 

フリフリピンクのスカートの人も「これは私が自分を表現するために行っていて、自分が満足しているもので、例えばそこにあなたが少しでも面白いなと感じてくれればなお良いな」なんて言ったとすればわたしは簡単に受け入れられる。

 

その人の考え方を知って、人柄を知ると途端に初めに感じた「何か」は薄れてなくなってしまい、後は理解や親しみや信頼に代わっていたりする。もちろん同じクラスに初めてなった人ともこんな感じで友情を育むものである。

 

 

だからこそ、障害は「個性」と考えてもいいんじゃないかと思う。

 

いきなり奇声を上げたり、落ち着きなく動き回ったり、独り言を言っていたりいろいろな人がいるけれど、こうしてみると世の中も私も含めて変な人ばかりである。自分以外の人はみんな変と感じてしまうである。

 

 

その人のことを知れば、嫌なことがあったから奇声を上げていたり不安であるから落ち着きがなくなってしまったり、時には会話をしたくて独り言を繰り返している人もいる。

 

その人たちを知る機会があって、障害のことを知っていれば他と同じように親しみや信頼に代わって感じた「何か」はなくなる事をわたしは知っているしそれを知らない人にはぜひ知ってほしいと思っている。

 

 

もちろん知ったところでその人を「好きになれるか」はわからない。

例えで言えばフリフリスカートさんが「私は周りに不快感を味合わせるためにやっている」「このスカートは試着したまま盗んできた」なんて言おうもんなら私はその人を軽蔑するし決して仲良くなろうとはしない。

 

だから、知る努力は必要だけれど好きになる努力は必要ない。

その人を好きな人がいれば、嫌いな人もいる。それが「普通」なのである。

 

今一番問題なのは、知る努力をせずにまたは知る機会が無く遠ざけてしまうことである。

 

 

今では辞めてしまったが、その施設の中にも優しく面白い人もいたし、苦手だなぁと思う人もいた。

だからこそ、困っていれば職員として手を貸すけれど苦手であれば基本は近づかないことも視野に入れていたし、私がたとえ近づかなくても他の職員が仲良くしていて支援できるならばマイナスイメージの私が支援するよりもその方はよっぽど幸せに過ごせると思っている。

 

 

人は、体と性格、遺伝と個性でできている。

それらを育んでいるのは生活環境と社会である。