すでに始まっていた始まり(エセ哲学小説1)
それは最初とてもとても小さな点でしかなかった。
その小ささは、「世界」、世界があるとするならば、その世界のあらゆる物質と比較しても、なおその物質の方がより小さいと言える程の小さな点だった。
それは見方によっては、世界の始まりの存在の点と言っても良いのかもしれなかった、……世界に始まりと終わりがあるのだとするなら。
世界に始まりがあるとする。ならば、それには始まりの始まりがあるはずで、その小さな点にも始まりはもっと小さな点があったのだろうし、そのもっと小さな点はもっともっと小さな点に始まっているはずだ。
そう、それが何時始まったのかは永遠に知ることは出来ないのだ。
ならば終わる瞬間はどうだろうか?これも完全な終わりかを見極めるのは難しい。
これが人間世界に例えると、死が最終地点に思えるかもしれないが、それさえも人間が作った定義で、あくまでこれでお終いと言って見せてるだけであり、結局は本当の終わりの瞬間が何時なのか分からない。
心臓が停止すれば終わり?火葬され、肉体が無くなれば終わり? いや、それも所詮人間が作った一つの節目にすぎない。
ともすれば、世界とはつまり、真実の始まりも終わりもない、真実の生も無ければ死もない、ただ延々とスパイラルだけが存在しているだけということになる 。
人間という存在が、他の存在とはっきり関係を隔てているという認識をしたからといって、それは世界全体からすれば、認識するということ自体さえも何ら特別視しない。ただのサイクルの一つなのである。
つまり、最終的には人間の生死がどうだとかは、人間自身にとってだけ特別に感じられるだけで、なんら世界全体には特別なことは何もないのである。
もし、神が人間や世界全体を作ったのなら、その神をつくったのは一体誰なのだ?
答えるなら、一番最初に始まりの神を作ったのは、他ならぬ人間自身である。
そう、神ですらも世界の始まりをはっきりさせたいという欲求が生み出した産物にすぎないかもしれないのだ。
仮に神が存在したとして、世界の始まりを作ったのなら、それにはやはり0=ゼロ(何も無い)が存在しなければならない。その0という存在自体滑稽だが、無いという存在自体一体誰が作ったのか?
……最初に話を戻そう。それは確かに小さな点だった。だが、その周りにある無の空間もやはり存在するのである。つまるところ世界というモノは決定的に始まりも無ければ終わりもないのである。あると言っているのは人間という存在が、勝手にその区切りをつけているにすぎない。
繰り返して言おう。世界に始まりも終わりもないのだ!
例えば人間世界の数字というもので1を3で割ってみよう。0.333333……が永遠に続き、終わりはない。物質界で見てみよう。最小の原子がある。その周りにある、何も無い空間には何が存在するのだ?この物質界に何もない所があるというのは妙なのである。何もないということがあると認めるのだから。
つまりは、世界の真性、たとえ世界の始まりと終わりでさえ、すでにサイクルの一部である人間には解き明かせないようになっているのだ、少なくとも人間の言語では。(あるいは人間の使えない言語でこの世界を解き明かすことが出来るなら、それこそ神の言語といえるのだろう)
無理に逆説的に解き明かそうとするならば、人間には何も完全に解き明かすことが出来ないことこそが、この世界の成り立ちなのである。
その証拠に、真実、人間こそ完全に解き明かせない矛盾に満ちた生き物なのだ。
だが、その矛盾に満ちた世界の無限の連なりの理の外に存在することが出来るとしたら?その可能性が無いわけではない。なぜなら人間の世界はとどのつまり矛盾でなりたっているのだから。
これはそんな世界の外からやってきた、あるいは存在しないという矛盾から想像された、そんな存在にまつわる一つの物語である……。
あるいはそんな存在こそが・・・・・・。