昭和時代には、二度ほど維新があった。
一つは、1970年(昭和45年)11月25日 三島由紀夫氏によるもの。
もう一つが、1936年(昭和11年)2月26日の青年将校によるもの。
未完となっているがその魂は永遠に語り継がれている。
辞世
我れ狂か愚か知らず 一路遂に奔騰するのみ
野中 四郎(のなか しろう、1903年(明治36年)10月27日 - 1936年(昭和11年)2月29日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大尉。 2・26事件 自決。事件決行当時満年齢32歳。
河野寿 (こうの ひさし) 明治40年3月27日-昭和11年3月6日
陸軍航空兵大尉。割腹自決。事件決行当時満年齢28歳。
遺書
父ハ無限ノ怨ヲ以テ死セリ。父ハ死シテモ国家ニ賊臣アル間ハ成仏セズ、君国ノタメ霊魂トシテ活動シテ之ヲ取リ除クベシ。
清美殿(娘)
茂殿(息子)
香田清貞(こうだ きよさだ) 明治36年9月4日-昭和11年7月12日
陸軍歩兵大尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢32歳。
辞世
尊皇討奸
尊皇の義軍やぶれて寂し春の雨
国体を護らんとして逆徒の名
万斛の恨 涙も涸れぬ ああ天は
安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)
大日本帝国陸軍の軍人。陸軍歩兵大尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢31歳。
遺詠
君が為捧げて軽きこの命
早く捨てけん甲斐のある中
道の為身を尽したる丈夫の
心の花は高き咲きける
栗原 安秀(くりはら やすひで、明治41年(1908年)11月17日 - 昭和11年(1936年)7月12日)
大日本帝国陸軍の軍人。陸軍歩兵中尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢27歳。
最期の手記
「お母さん、継夫は馬鹿者でした。不幸の罪を許して下さい。申し訳ありません」
弟たちよ、母へ孝養をたのむ。今日死刑の宣告を受け、涙を以て之を書いている。
(獄中所感より)
竹嶌継夫 (たけしま つぎお) 明治40年5月26日-昭和11年7月12日
陸軍歩兵中尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢28歳。
遺詠
日は上り国の姿も明るみて
昨日の夢を笑う日も来ん
ひと粒の種はくさりてちよろづの
実を結ぶこそ誠なりけれ
対馬勝雄 (つしま かつお) 明治41年11月15日-昭和11年7月12日
陸軍歩兵中尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢27歳。
絶筆
只今最後の御勅諭を奉読し奉る。尽忠報国の至誠は益々勅々たり、心境鏡の如し
七月十二日午前五時
中橋 基明(なかはし もとあき、明治40年(1907年)9月25日 - 昭和11年(1936年)7月12日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸軍歩兵中尉、近衛歩兵第3連隊第7中隊。陸軍歩兵中尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢28歳。
妻への遺詠
身とともに名をもけがして大君に
つくす誠は神や知るらん
強く生き優しく咲けよ 女郎花
昭和十一年七月九日
誠忠
丹生誠忠 (にぶ まさただ) 明治41年10月15日-昭和11年7月12日。陸軍中尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢27歳。
遺書
死がやって参りました。孝子の腹巻きに御守りが這行って居ります。
広大無辺の御仏の御慈悲に浸り、唯忠を念じて瞑目致します。前途を祝福して下さい。
坂井 直 (さかい なおし) 明治43年8月13日-昭和11年7月12日。陸軍中尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢25歳。
辞世
我はもと大君のため生れし身
大君のため果つる嬉しさ
たらちねの親の恵みの偲ばれて
只先立つて我は淋しき
八日朝
田中勝(たなか まさる) 明治44年1月16日-昭和11年7月12日
陸軍砲兵中尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢25歳。
中島莞爾(なかじま かんじ) 大正元年10月9日-昭和11年7月12日。陸軍工兵少尉。
2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢23歳。
絶筆
白妙の不二の高嶺を仰ぎつつ
武さしの野辺に我が身はてなむ
我を愛せむより国を愛するの
至誠に殉ず
昭和十一年七月十二日
死刑前五分 安田 優
安田 優(やすだ ゆたか) 明治45年2月1日--昭和11年7月12日。陸軍砲兵少尉。
2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢24歳。
遺書
うつし世に二十四歳の春過ぎぬ
笑って散らん若ざくら花
み光を蔽へる雲をうち払ひ
真如にすめる今ぞのどけし
昭和十一年七月八日 高橋太郎書
高橋太郎(たかはし たろう) 大正元年1月1日 -昭和11年 7月12日
陸軍歩兵少尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢23歳。
母への遺詠
御心をやすむる時もなかりしが
君に捧げし此の身なりせば
母上様に捧ぐ
昭和十一年七月十一日
八郎
林 八郎(はやし はちろう、1914年(大正3年)9月5日 - 1936年(昭和11年)7月12日)
日本の陸軍軍人。陸軍歩兵少尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢21歳。
「遺書」
維新ノ為メニ戦フコト四周星今信念ニ死ス 不肖ノ死ハ即チ維新断行ナリ 男子ノ本懐事亦何ヲカ言ハン
村中 孝次(むらなか たかじ、1903年10月3日 - 1937年8月19日)
戦前日本の軍人。元陸軍歩兵大尉。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢32歳。
辞世
国民よ国をおもいて狂となり
痴となるほどに国を愛せよ
三十二われ生涯を焼く情熱に
殉じたりけり嬉しともうれし
天つ神国つみ神の勅をはたし
天のみ中に吾等は立てり
磯部 浅一 (いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日 )
元陸軍一等主計。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢32歳。
遺詠
四つの恩報い盡せぬ嘆きこそ
此の身に残る憾なりけり
昭和十一年七月十一日
光佑コト善助
直指道光居士
渋川 善助(しぶかわ ぜんすけ、1905年12月9日 - 1936年7月12日)元陸軍士官学校生。
2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢30歳。
遺詠
国の為よゝぎの露と消るとも
天より吾は国を守らん
大御心雲さいぎりて民枯る
死しても吾は雲をはらわん
昭和十一年七月八日
源一書
水上源一(みなかみ げんいち) 明治41年9月28日-昭和11年7月12日。民間人。
2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢27歳。
遺書
大輝よ、此の経典は汝の知る如く父の刑死する迄、読誦せるものなり。汝の生るると符節を合する如く、突然として父は霊魂を見、神仏を見、此の法華経を誦持するに至れるなり。 即ち汝の生るるとより、父の臨終まで読誦せられたる至重至尊の経典なり。父は只此法華経をのみ汝に残す。父の想ひ出さるる時、父の恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、迷へる時、怨み怒り悩む時、又楽しき嬉しき時、此の経典を前にして南無妙法蓮華経と唱へ、念ぜよ。然らば神霊の父直ちに汝の為に諸神諸仏に祈願して、汝の求むる所を満足せしむべし。経典を読誦し解脱するを得るの時来らば、父が二十余年間為せし如く、誦住三昧を以て生活の根本義とせよ。即ち其の生活の如何を問はず、汝の父を見、父と共に活き、而して諸神諸仏の加護、指導の下に在るを得べし、父は汝に何物をも残さず、而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり
昭和十二年八月十八日
父 一輝
※大輝・・・北の養子
北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)
1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)。民間人。2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢52歳。
辞世
限りある命たむけて人と世の
幸を祈らむ吾がこゝろかも
君と吾と身は二つなりしかれども
魂は一つのものにぞありける
吾妹よ涙払ひてゆけよかし
君が心に吾はすむものを
西田 税(にしだ みつぎ、明治34年(1901年)10月3日 - 昭和12年(1937年)8月19日) 元陸軍少尉。
2・26事件の判決により銃殺刑。事件決行当時満年齢34歳。
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