ワタクシの病室は4人部屋でした

ベッドは奥の右側、窓際の場所で、端から端まで、3~40センチくらいの出窓のようになっています

ワタクシは車イスで出窓のところに行くと、両手を出窓の上に置いて、立ったり座ったり、立ち上がる練習をよくしました

去年の7月の始めの頃です

練習に疲れて車イスに座り、窓から外の景色を、まともに見えるのは空くらいですが、青い空に白い雲がゆっくりと流れていくのをボンヤリと眺めていました

後ろから声をかけられて振り向くと、看護師のTさんでした

早番の看護師さんから中番の看護師のTさんに交代するという連絡や、体温と血圧を測り体調を聞くという、いつものヤツをやるために廻ってきたようです

卓球の愛ちゃんをオバさんにしたような看護師のTさんは、ワタクシの血圧を計りながら、愛ちゃんに似たニッコリとした笑顔で

「もう、いつでも家に外泊して来てもいいですよ」

「あ、はい」

「ずっと病院だから、気晴らしにでも行って来たら?」

「はあ」

ワタクシが煮え切らないような返事をしてしまったのは、いきなりそんなことを言われて驚いたからではなくて、戸惑ってしまったからです

そうだよな、看護師さんは知らないから

言われなくたって、帰りたいに決まってる


Tさんに言われたよりも、もっと前に、ワタクシの奥さんにも言われました

「家に帰ってみない?」

「・・・・・・」

「私が付いているから、だいじょうぶ」

「まだ、ムリだって」

ワタクシは少しだけイラッとして、奥さまのお誘いを断わりました

ワタクシが家に帰るためには、もうちょっと時間が必要だと思ったからです

イラッとしてしまったのは、ワタクシがどんなに望んでがんばっても、実現することが超難しいことを、サラッと簡単そうに言われてしまったからです


ワタクシの家は、賃貸の3階建てのマンションの3階で、もちろんエレベーターなどある訳もなく、階段に手すりすら有りませんでした

杖を2本使って、なんとか歩けるようになったばかりのワタクシが、3階まで階段を昇り降りなんて、誰が見ても無謀としか思えないのが当たり前です

リハビリの療法士の先生たちに階段のことを話すと、みんな一瞬ビックリして固まってしまうのが、先生たちは平静を装いますが、ワタクシは感ずいてしまいます

だいたいワタクシのような患者が退院して帰宅するときは、家の中をバリアフリーに改築したり、必要な用具を揃えて、患者が転倒してケガをしたりするリスクを減らすということをしてから、帰宅させるのが普通の手順のようです

リハビリの理学療法担当のA君が困ったような顔で

「マンションの階段に手すりを設置することって、できますかね?」

「それは、ちょっとね~」

賃貸だし、補助金が出ても費用が高額になりそうだから、いっそ引っ越したほうが、でも引っ越したばかりなので、またすぐ引っ越しはちょっと難しいです


ある時は、先生たちにへんなウワサが流れたことも有りました

たまにお世話になっている先生に

「1階に引っ越したんでしょ?」

「いや、引っ越してませんよ」

「ウソ!」

なんで、こんなウワサが出回ってしまったか

やはりワタクシのような障害があって、マンションの階段を3階まで上がるというのは、浅田真央ちゃんのトリプルアクセル並みの難易度の高い技のようです

ワタクシは、家に帰ることができるのかしら?


担当してくれている理学療法士のA君に、やけくそと冗談の半分半分で言いました

「歩けなかったら、3階までお尻で登っていきますか?」

「それも有りですね」

「ヘッ?」

階段に座って、両腕でプッシュアップしてひとつ上の段にカラダを持ち上げて、右足は引き寄せられるからいいけど、動かない左足は手で持ち上げるか、奥さまに協力してもらうかして、エビのように後ろ向きで階段を登る、冗談のつもりがホントに練習しました

思った以上にキツくて、時間もだいぶかかるので、これは最後の手段にとっといたほうがよさそうです


その次はカラダを横向きにしてカニのように階段を昇り降りするというやり方でしたが、これはワタクシにはできない動きでした


いろいろと試行錯誤した結果、普通に前向きでも階段を上がることができるようになりました

といっても、4点支持の杖を2本使って、動きのましなほうの右足を上げてから、動きの悪い左足を右足の横に上げるという、1段ずつカメのようにユックリとしかできませんが


問題は階段を下りるほうです

難しいのは、前向きに階段を下りるときは、動きの悪い左足から下ろしますが、動きが悪いので足を下ろせるところまで前に、左足を出すことがまず難しいということと、左足を前に出したまま、左足が下の段に着くまで、右足を曲げていくことが難しい

最初の手術の後は、リハビリをがんばってなんとかできるようになり、希望を持つことができました

しかし、2回目のカテーテルの手術の後は希望がどこかに消えてしまいました

動きの良かった右足が、左足と同じくらい動きが悪くなってしまい、動きの悪い左足は、さらに悪くなってしまった

なので、階段を前向きに下りることはムリになってしまい、結局、後ろ向きで下りるのなら、なんとかできるようになりました


しかし、3階という高さはちょっとした登山をするくらいのスタミナを必要とします

えっ! しない?

ワタクシは、するのです

スタミナをつけるのに、もう少し時間が掛かります、それと自信です

階段を上って行くのは、まだいいです

倒れても前にいきそうだから、なんとかなりそうな気がします

しかし、下りて行くのは少し恐怖を感じてしまいます、特に同じ段に2本の杖と両足が揃ってしまうときが、不安定な感じで後ろに倒れたらと思うとゾッとします、一巻の終わりになってしまうかもです

自信をつけて、度胸をつけるには時間が掛かります

歩く練習はひとりでしてはダメでも、コッソリやってしまいますが、階段はムリなのでリハビリの時間にしかできません

はやく帰りたい気持ちはありますが、押さえ込んでガマンしました

前向きに上がって、後向きに下りて行く

ちょっと見てくれは悪いけど、気にしない気にしない


ガマン、ガマンの毎日でしたが、すごく羨ましく思ったことがありました

ワタクシの向かい側の患者さんは、皮膚ガンを患っていて、32回の放射線治療のために入院していました

そのおじいさんは毎週末、土曜日の朝に娘さんに迎えに来てもらって家に帰って、日曜日の夜に病院にもどってきました

奥さんを1年前に亡くして、2人の娘さんはお嫁に行き、家に帰っても1人だけど、それでも外泊する日は、朝からワクワクしながら帰る支度をして、娘さんにどこまで来たか電話して、嬉しそうに帰って行くのを見たら、ムチャクチャ羨ましかったデス


そして

ワタクシが家に外泊しに帰ったのは、9月の始め、リハビリ科の家屋調査で数人の先生たちがワタクシの家に行くので、ワタクシも一緒に行って、ついでに外泊することにしました