「国際学術会議(こくさいがくじゅつかいぎ)」の始まり
 大正14(1925)10月に、日本において初めて国際学術会議を開くようになり、子爵加藤高明を総裁として、会長は北里柴三郎博士、副会長は長與又郎博士のもとに、外国人30余名を向かえて、日本人200名が参加して、第6回極東熱帯医学会を東京で開催したのが始まりである。
 次いで大正15年にはさらに大規模な第3回汎太平洋学術会議の主催国になり、閑院宮載仁親王を名誉総裁に若槻礼次郎首相を名誉会長として、各国大公使を副会長にして、桜井錠二博士の座長のもとにオーストラリアのウォーンウイラー博士、海峡植民地(1826年以降にイギリスがマレー半島に設けた植民地の総称で、マラッカ、ペナン、シンガポールからなる)のジャック博士を幹事として、アメリカ、オーストラリア、カナダ、支那、フランス、イギリス、ハワイ、フィリピン、香港、オランダ、インド、パプア、ニュージーランド、オランダ領インド、ペルー、チリ、スエーデンなどから科学の権威150名を招いて、日本の科学者200数名が1030日から1112日に至る10日間にわたって華々しく開催された。
 なお、私が参加した初めての国際会議は昭和41(1966)8月22日から9月3日までの13日間、東京大学で行われた第11回太平洋学術会議で82ヶ国の学者が集まった。
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11回太平洋学術会議での筆者