“穴無し小町”はウソ
 小野小町が老後は落ちぶれたという話は、色々な書物に出ています。小町を脚色した文芸や脚本が多くありますが、その中で、『卒塔婆小町』には「シラミなど卒塔婆の上でつぶしてい」という酷いことを言った川柳もあります。
 天下の美女が老後に転落し、物乞いになって墓場の片隅で倒れた卒塔婆に腰掛けてシラミをつぶしているとは、何とも情けない情景ですが、これは美女の最後の姿であるところに意味があります。美女に振られて苦い経験をした男が多いだけに、共感を得て「ざまァ見ろ!」ということになったのでしょう。
 小町は男を振ってばかりいたので、ひょっとすると体の大切なところが不具ではないかと、いらぬおせっかいな想像をする者が出て来て、とうとう小町は「穴無し女」だと言う話になり、伝説となりました。
 江戸時代に小町を穴無しにたとえた川柳も多くあります。
  「目に立たぬ 片輪は小野の 小町也」
  「極内で 小町も一度 外科に見せ」(極内は極めて内密なこと)
  「そのわけも 言われず百夜 通へなり」
  「とは知らず 開かずの門へ 九十九夜」
 しかし、これは絶対にウソで、小町の名誉を回復します。私と小町は何の関わりもありませんが、小町に関する史料や歌から、彼女と情交の有った人が判るからです。
 小町が若い時、宮仕えしている頃の愛人に、小野貞樹(おののていき)という、文徳天皇が東宮であったときの下級官が居ます。この小野貞樹は小町と同姓ですが血統が違い、石見王の子孫です。小町は小野篁(おののたかむら)の孫で、受領級下級官の娘です。
 当時の結婚は招婿婚の名残で、男が妻の所に通っていたため、必ずしも同棲はしていませんでした。小野貞樹は貞観2年(860)に肥後守になっています。当時、地方官は実際にその土地に赴任しなければならず、小野貞樹は小町を同行しませんでした。この時の二人の贈答歌が『古今和歌集』にあります。
小町の歌は
 「今はとて わが身時雨に ふりぬれば 言の葉さえも うつろいにけり」
 貞樹の歌は
 「人を思う 心木の葉にあらばこそ 風のまにまに 散りも乱れめ」
なにやら難しい歌ですが、「私が年を取ったので、あなたは心変わりされたのでしょうか」という小町の言葉に、貞樹は「いや少しもあなたを想う気持ちは変わっていません」という言い訳をしている歌です。とにかくこれで、二人の情交は相当永く続いていたことが判ります。
 その間にも、小町に言い寄る男は多かったらしく、深草の少将は僧遍昭(へんじょう)と同一人物だという説もあります。伝説みたいに百夜も通って凍死したのはウソのようです。なぜならば、遍昭は石上寺の僧として健在で、3536歳の時、1819歳の小町と歌の贈答をしています。
 小町の歌は
 「いはの上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を 我にかさなん」
 遍昭の歌は
 「夜を背く 苔の衣は ただひとえ かさねばうとし いざ二人寝ん」
という。小町が「これから岩の上で野宿をするが、寒いからせめて苔の衣でも貸して下さい」というのに対して遍昭は「僧になってしまったので、貸すような余分の衣は持ち合わせていないが、貸さないのも心苦しいので、いっそのこと二人で一つの衣の中で一緒に寝ましょう」とスケベな事を言っています。
 遍昭が悟りの道に徹していたかどうかはわかりませんが、もしそうであったなら面白半分の断りの歌であるし、万一、なまぐさ坊主であったら誘惑の歌となります。どちらを取るかは読む人の自由であるが、とにかくこの歌は女性のほうから誘いかけた歌になっている。そんなことをするから遍昭は百夜通いの主人公と疑われたのです。この歌が贈答された時は、仁寿元年(851)のことらしいのですが、その結果、小町が泊まったかどうかは判りません。とにかく二人が親密であったことは明らかです。
 「今朝よりは 悲しの宮の 秋風や また逢う坂も あらじと思えば」
という小町の歌があります。これは淳和天皇の第四皇子である基貞親王が貞観11(869)に亡くなった時の歌で、この宮様も人目を避けて小町に逢いに来ていた一人です。
 このように、小町が穴無しなどと、何処の馬鹿が言ったのかと思いたくなりますが、江戸っ子は深草少将の振った話だけをしっていたので、つい気を回したのでしょう。
 とにかく、小町が絶世の美女であったことは定着していますが、それを実証する史料はなにもありません。小町の肖像画もほとんど後ろ向きに描かれており、顔が見えません。こちらを向いてもらわない限り、美人と決めようがありません。
 
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