切腹した別式女(べっしきめ:女武芸者)
江戸時代後期の寛政年間(1789~1801)に書かれた『黒甜瑣語(こくてんさご)』という随筆のなかに「諸大名の中に「別式(べつしき)」といって、大小を差した女がいる。眉を落として、眉を引かず、青く眉の跡が残っている。着物もきりっと着て、長い裾を引きずってはいない。まことに女らしいところなど全然無く、勇ましい格好をして、どの女も利かぬ気な顔をしている。尾州・紀州・水戸の御三家をはじめ、加賀・薩摩などに特に多い」とある。
この「別式女(べっしきめ)」という勇ましい女性が登場したのは、江戸時代前期の延宝年間(1673~1681)以後の事である。
八王子の馬喰の娘で「すえ」という女性がいた。上野で花見の時に荒れ狂った放れ駒の前に出て大手を広げ、見事に馬を取り押さえたばかりではなく、馬に飛び乗り、清水観音堂のかげで駒を止め、桜の枝に手綱を結びつけて帰った。これを見た加賀藩士の話で推薦され、一躍奥女中になった。
「すえ」は、馬術はもとより、剣術も男顔負けの腕前であり、加賀藩随一の別式女として城の警護に当たった。
咲いた桜に なぜ駒つなぐ 駒が勇めば 花が散る
誰が詠んだのか、この歌は、暴れ馬を簡単に取り押さえた「すえ」の勇姿をたたえる歌として、江戸の巷で流行った。
ある日、「すえ」が外出した時、大小を差した街のならず者数名に絡まれた。「すえ」はかまわず通り過ぎたが、あまりのしつこさに刀を抜いた。男三人が切られ、二人は逃げ去った。しかし、「すえ」は主人から頼まれた書状を、この争いの中で紛失してしまった。「大切な書状を紛失して申し訳ない」と、その場で割腹した。いかに別式女とはいえ、女の切腹とは、前代未聞である。