初期のエルサレム教会について【詳細】
目次1. 初期のエルサレム教会とは2. エルサレム教会の足跡 2-1. ナザレ派の詳細 2-2. エビオン派の詳細3. ヤコブについて4. ペトロについて5. ヨハネについて 5-1. ヨハネの手紙一について[番外]1. 初期のエルサレム教会とはエルサレム教会といっても、初期ではエルサレムの各家に集まり、家を拠点としたようです[使徒2:46,12:12-13]。初期は人数が120人程(使徒1:15)で、ペンテコステの日に聖霊を受けた時はマルコ母宅だったか不明ですが、120人が座れるほどの部屋があったのでしょうか。その音を聞いて大勢が集まってきた状況を考えると、室内だったとするのは不自然にも思えますが、中庭か家の前の庭に120人が集まり座っていた可能性はあります。エルサレム神殿はサドカイ派が取り仕切っていましたが出入りは自由なため、ペトロやヨハネは神殿で宣教や癒しなどを行っていたようです[使徒 3章〜5章]。後年には会堂から主イェシュアを信じる者は追い出されたため、家を会堂代わりにするしかありませんでした[ヨハネ9:22,12:42,16:2]。したがって、現代に見られる西洋的な教会建築とは異なります。よって「エルサレム教会」とは、エルサレム神殿の参拝や祈りもしていたとはいえ、基本的にエルサレム周辺にあった「家の集会」です。「教会」と訳されるエクレシアは「集会」の意味です。現代でも、地域によっては広場や簡易テントに集まる例があります。下記も参照。 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 (マタイ18:20 口語訳)迫害によって散らされた時のことも含めて語っておられると思いますが、主の名によって二人、三人集まれば、そこが「集会(教会)」です。紀元70年のエルサレム陥落で物理的な神殿は無くなりましたが、「主イェシュアに結ばれた真の兄弟たちの集まり」が教会であり、神殿に繋がります。下記の三つを参照。 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。 (ヨハネ2:19-21 口語訳) あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。 (ヨハネの黙示録1:20 口語訳) そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。 (ヨハネの黙示録2:5 口語訳)2. エルサレム教会の足跡使徒8:1の迫害で散った時と同じように、紀元70年のエルサレム陥落時の脱出で、数多くの小規模な集会が散っています。ペトロや主の兄弟ヤコブを失った後のエルサレム教会の一部、あるいは大部分は、ヨルダン川東岸のペラの町(エルサレムの北北東)へ行ったとされています。※エウセビオス「教会史」3:5,後述のエピファニウス「パナリオン」29章7を参照。よって、エルサレム教会のその後は、ローマなど西方ではなくシリア周辺の東方に着目していきます。エピファニオスの著書「パナリオン(異端反駁書、375年頃)」の内容で、おおよその見当がつきます。ただし、内容が膨大で、一次資料と二次資料が混在し、誇張・誤解・伝聞が多いため鵜呑みはできません。本記事ではコチラの英語版『パナリオン』を翻訳して使用します。パナリオンは80種の異端と判断された派閥を記載した書ですが、その中でユダヤ系で、かつキリスト信仰に入り、律法を守り、エルサレム教会に関連していそうなのは「ナザレ派,エビオン派」の二つに絞れます。エルカサイ派もありますが、エルサレム教会との関連が薄いため、ナザレ派,エビオン派の二つに絞ります。簡易的な説明の前に、まず重要地点の地図を掲載。エルサレムの北北東へ約85km → デカポリスのペラ。南周辺がペレア。エルサレムの北北東へ約95km → バシャン地方のコカバ。エルサレムの北北東へ約500km → アンティオキア。アンティオキアの東へ約90km → シリアのベレア。シリアのベレアの北東約180km → エデッサ。(1)ナザレ派(Nazoraeans)発祥:ペラ。活動地域:ペラ,シリアのベレア(現アレッポ),ペレア,バシャン地方のコカバ。※「パナリオン」29章参照。特徴:神は唯一、主イェシュアをメシアで神の子と告白し、復活を信じ、律法遵守を継続。パウロに関してどう考えていたか不明。ヘブライ語に精通しており、律法・預言者・諸書をヘブライ語で読んでいた。ヘブライ語マタイ福音書を使用。「エビオン派では削除されている冒頭の系図」がナザレ派では削除されていたかエピファニオス本人は未確認と書いているが、同時に全文を保持していたと書いている。※引用か伝聞と思われる。(2)エビオン派(Ebionites)発祥:パレスチナ地方。活動地域:ヨルダン川東岸(デカポリス周辺),バタネア,パネアス,バシャン地方のコカバ。※「パナリオン」30章参照。特徴:主イェシュアを単なる人間、すなわち預言者・義人と見ており、処女降誕を否定し、パウロを偽使徒として完全に拒否。律法遵守を継続。肉食を否定。系図や処女降誕や他箇所を削除したヘブライ語マタイ福音書を使用。以上が簡易的な特徴です。二つを比べると結構な違いがあります。どちらも地域は被っていますが、ナザレ派の活動地に、紀元70年の脱出先とされるペラが含まれていることから、初期エルサレム教会の後継か、深く関連していると考えられます。エピファニオスもそのように述べています。次にナザレ派とエビオン派の詳細を見ていきます。2-1. ナザレ派の詳細ナザレ派は「ナザレ人(ナザレの者)」という意味で、エルサレム教会を含む最初期のキリスト者たちの呼称です。前述の4世紀頃のナザレ派の表記はΝαζωραῖοι(ナゾライオイ:複数形)、英語表記ではNazoraeansです。使徒24:5ではパウロを異端者としてΝαζωραίων(複数形)でナザレ人たち(の分派)と呼んでいます。これは単に文法的な格変化の違いです。初期から主イェシュアの信仰に入った人たちはそう呼ばれていたということです。詳細に興味ある方は下記参照。福音書では、Ναζωραῖος(ナゾライオス:「単数系」)が「ナザレ人(イエス)」を指します[マタイ2:23(TR&RV底本),マルコ10:47(TR),ルカ18:37(TR&RV),使徒6:14(TR&RV),22:8]。Ναζωραῖονもありますが、単に文法的な格変化の違いです[マタイ26:71(TR&RV),ヨハネ18:5-7(TR&RV),19:19,ルカ24:19(TR),使徒2:22(TR&RV),3:6]。Ναζαρηνοῦ,Ναζαρηνέ,Ναζαρηνός(Nazarenos=ナザレノス)もあります[マルコ1:24(TR&RV),10:47(RV),14:67(TR&RV),ルカ4:34(TR&RV),24:19(RV)]。他には、Ναζαρέτ,Ναζαρὲθ[ヨハネ1:45-46(TR&RV),使徒10:38(TR&RV)]。Ναζωραῖ(ος)は「ナザレ人」で称号的、Ναζαρην(ός)は「ナザレ出身」という意味合いです。名称はさておき、4世紀頃のナザレ派の教義については、主イェシュア・初期エルサレム教会と同様に律法を守っていました。下記参照。 彼らはユダヤ人ともキリスト教徒とも、次の点においてのみ異なっている。彼らはキリストを信じているという点でユダヤ人と異なるが、割礼・安息日・その他、律法に縛られているという点でキリスト教徒とは一致しない。 (パナリオン29章7:5 私訳)上記のように、割礼・安息日・その他、律法を守っていたようです。ヒエロニムス(4〜5世紀頃)も後追いで同様のことを書いています。普通に考えれば、食物規定も守っているでしょう。この時点でナザレ派はパウロ書簡を用いていない可能性が極めて高いです。律法を守っていない異邦人クリスチャンと一致していない(異なっている)ため、「パナリオン」に掲載されたわけですが、ナザレ派については寛容に書かれてあります。とはいえ「パナリオン」はギリシャ語「Panarion(病気の解毒剤)」という意味であるため、印象が悪いです。先の簡易的な説明で記載しましたが、下記二つではこう書いています。 彼らはヘブライ語に精通している。律法全体、預言者、そして詩篇、列王記、歴代誌、エステル記などすべてが、ユダヤ人の間でもそうであるように、彼らもヘブライ語で読んでいる。 (パナリオン29章7:4 私訳) このナザレ派は、コエレシリア近郊のベレア、ペラ近郊のデカポリス、そしてバシャン地方のコカバと呼ばれる場所に存在している。そこがナザレ派の起源である。なぜなら、キリストがエルサレムを去った後、弟子たちは皆ペラに定住した。エルサレムは包囲されようとしていたので、キリストは彼らにエルサレムを捨ててそこから離れるように命じた。彼らはそのためにペラに定住し、先ほども述べたように、そこで生活した。ナザレ派の起源はここにある。 (パナリオン29章7:7-8 私訳)ここまでの記述を踏まえると、エルサレム教会の流れをくむ集団と考えるのが自然でしょう。なぜなら異端要素が全くありません。エピファニオスは、ナザレ派が律法を守っている事のみで「異端」としています。彼自身が、他に違いを見出していません。そもそも律法を守る事で異端になるのは間違いで、本拠地であるエルサレム教会のユダヤ人兄弟が皆、熱心に律法を守っていると使徒行伝に書かれており、マタイ福音書にも律法の一点一画が廃止されないとはっきり書かれています。下記では批判があります。 しかし、彼らが割礼を誇るのは誤りであり、彼らのような人々は律法を全うすることができないゆえに、今なお、呪いのもとにある。なぜならエルサレムの聖地において「年に三度、無酵母パンの祭り、仮庵の祭り、ペンテコステの祭りに、主なるあなたの神の前に立たなければならない」という律法の定めを、どうして守ることができるだろうか。 (パナリオン29章8:1 私訳)他の宗派についても律法を守っている事で非難しているため、上記ではただ割礼を守っていたゆえに書いたと見るのが妥当です。律法を守っているだけで「律法に頼っている」「割礼を誇っている」と言う人は昔からいますが間違いです。上記内容はともかく「律法を全うすることができないから律法を守らなくてよい」とするのは論理の飛躍になります。また、小さな戒めや難しい戒めを挙げて「じゃあ〇〇〇も守りなさいよ」と文句を言うのも詭弁になるため、気をつけた方が良いです[マタイ5:19]。紀元70年にエルサレム神殿は破壊されエルサレムを離れたわけですが、その後に長老たちが「割礼、安息日、食物規定などをやめるように」と教えたとは考えにくいでしょう。したがって、エルサレム神殿が無くなり物理的に守れないことがあるとしても、そのまま律法遵守を継続していると見るのが最も整合し、エルサレム教会(Ναζωραῖοι)の後代の姿がナザレ派(Ναζωραῖοι)と考えられます。「ユダヤ人ともクリスチャンとも一致していない」と書かれてありましたが、実際に歴史的に見ても、律法を守るエルサレム教会のような信徒は、主イェシュアを信じないユダヤ人からは罵られ、異邦人クリスチャン(の一部)からは「異端」と罵られるという不憫な立ち位置です。どちらにも属していないゆえ中途半端に見られてしまうのかもしれません。それから下記のようなことも書かれてあります。 しかし、ユダヤ人にとって彼ら(ナザレ派)は大いなる敵である。ユダヤ人は彼らに憎しみを抱いているだけでなく、夜明け、正午、夕方、一日三度、会堂で祈りを唱える際に立ち上がり、彼らを呪い、破門する。一日三度、「神よ、ナザレ人たちを呪ってください」と唱えるのである。 (パナリオン29章9:2 私訳)ヤムニア会議(90年)以降に「מינים(ミーニーム):異端者」としてユダヤ人キリスト者へ呪いが追加されました。そのことを書いているのだと思われます。ローマ軍が攻めてきた時に協力せず逃げたとして恨みを含んでいるかもしれませんが、会堂からの排除が第一の目的と考えられます。それから、二〜三世紀頃に「נוצרים(Notzrim):ナザレの者たち」として追加され呪っています。※135年のバル・コクバの乱以降の会議で追加か。ナザレ派がエルサレム教会の後継だとエピファニオスも分かっていたようなふしがありましたが、次はエビオン派を見ていきます。2-2. エビオン派の詳細エビオン派は『パナリオン』において、強く異端視され激しく非難されています。後発のヒエロニムスもエピファニオスとほぼ同様の立場で、ナザレ派については寛容で、エビオン派を完全に異端としています。エビオン=Ebionitesはヘブライ語で「אֶבְיוֹן:貧しい者」の意味です。エピファニオスによると、ナザレ派とエビオン派は共にヘブライ語マタイ福音書を用いていたとあります。ただし、エビオン派の方は改変が多くあったようです。例えば、冒頭の系図や処女降誕の箇所を削除するなど、ギリシャ語マタイ書に比べて削除や改変が多く見られたとあります。エビオン派は、処女降誕を否定し、主イェシュアをヨセフとマリアの間に生まれた普通の人間と見ており「水の洗礼の時に神の御霊を受けて、メシアになった」という解釈を持っていたためです。また「人生の徳によって神の子と呼ばれるようになったと解釈していた」と書かれてあります。エビオン派も律法遵守ですが「サマリア人の慣習も受け入れている」と書かれてあります。また律法の戒めに規則を追加したり、戒めをより厳格にしたりしています。例えば「異邦人に触れないよう注意する」という規則を加えたり、肉食否定(菜食か)で、それにより洗礼者ヨハネの食べ物「イナゴ」の箇所を削除改変していたようです。また水の清めを過度に重視していたとあります。下記参照。 そして、男が女と交わりその女から離れたなら、毎日、水に身を浸さなければならない。海であろうと他の水であろうと何でもよいと。さらに、もし浸礼と水浴から戻る途中で誰かに出会うと、彼は再び浸礼を受けに走り戻ってもう一度浸かるのである。しばしば服を着たままで。 (パナリオン30章2:4-5 私訳)上記はクムラン教団に見られるミクヴェの慣行による影響でしょうか。下記では、エビオン派を紹介する冒頭に、気になることが書かれてあります。 これらに従い、彼らと同様の見解を抱いたエビオン派の創始者エビオンは、やがてこの世に現れた。彼は様々な形態を持つ怪物であり、神話に登場する多頭のヒドラの蛇のような姿を体現した。彼はナザレ派に属していたが、彼らとは異なる教えを説き、教えたのである。 (パナリオン30章1:1 私訳) 彼はサマリア人であるにもかかわらず、その呼び名が不快なので拒絶している。そして彼は自らをユダヤ人と称しながらも、ユダヤ人とは反対の立場を取っている。 (パナリオン30章1:5 私訳)上記が事実であれば、エビオン派は創始者がいたようです。そして、エビオンがサマリア人であり元はナザレ派に所属していたとあります。エビオン派は、エイレナイオスの「異端反駁」(紀元180年頃)で既に異端として書かれており、それが初出です。下記参照。 エビオン派と呼ばれる人々は、世界が神によって創造されたことに同意するが、主に関する彼らの見解はケリントスやカルポクラテスの見解と似ている。彼らはマタイによる福音書のみを用い、使◯パウロを律法からの背教者であると主張して否定する。預言書については、やや特異な方法で解釈しようと努める。彼らは割礼を行い、律法によって義務付けられた慣習を厳格に守り、生活様式は極めてユダヤ的であり、エルサレムを神の家であるかのように崇拝するほどである。 (異端反駁1巻26:2 私訳) ※◯の箇所は筆者除外上述により、紀元180年より前にエビオン派は存在しており、それより前にナザレ派も存在していたことになります。紀元70年のエルサレム脱出から、紀元180年頃までは、まだ約110年しか経過していません。先のナザレ派の詳細で書いたΝαζωραῖοι(ナゾライオイ)、すなわちマタイ書や使徒行伝などでも出てくる彼らは、100年後であっても各地へ散った数万人の子孫や新たな仲間が、それぞれ集会を形成して残ります。それから、ナザレ派については異端としてパナリオン(375年頃)が初出です。それまで出てこなかったのは当然で、エルサレム教会の後継教会を「異端」と言う信徒は、普通いません。出てくるとすれば、律法を守っているエルサレム教会のような正統教会を、否定せずにはいられない時期が来た場合です。では時期はいつかというと、「ラオディキア会議(紀元364年頃)第29条」で安息日を守らないよう反律法の規定が設けられ「パナリオンが375年頃」であり、時期がほぼ一致します。また正典認定もこの時期です。実際、後には律法を守っているだけで「ユダヤ化した」として異端認定し、罰金→財産没収→追放→処刑(一部地域で)される時代が来たわけです。エビオン派の詳細に戻りますが、パナリオンで下記のように書いています。 彼らはアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、アロンを認め、ヌンの子ヨシュアをモーセの後継者と認める。ヨシュア以降の預言者は認めず、ダビデとソロモンでさえ破門し、嘲笑する。同様に、彼らはイザヤとエレミヤ、ダニエルとエゼキエル、エリヤとエリシャを無視する。なぜなら、彼らに注意を払わず、彼らの預言を冒涜し、福音だけを受け入れるからだ。 (パナリオン30章18:4 私訳)律法を守ること自体は良いですが、記述どおりであれば、さまざまな点で逸脱が見られます。なぜなら、マタイ5:17では主イェシュアが「律法(トーラー)と預言者(ヨシュア記〜マラキ書)を廃するために来たと思ってはならない」と引用されており、12:39で預言者ヨナ(ヨナ書)について語っておられ、22:44でダビデの詩篇(諸書)の引用もされています。エビオン派は過激な印象があり、ナザレ派は穏健な印象がありますね。上記内容が先の「サマリア人の慣習」と関係していると思われます。サマリア人はサマリア五書(トーラー)のみを受け入れ、預言書や諸書を受け入れないからです。※現代のサマリア人も同様。次に、下記ではこのように書いています。 しかし、反論する者もいるかもしれないが、ヨハネ福音書もギリシャ語からヘブライ語に翻訳されて、ユダヤ人の宝物庫すなわちティベリアの宝物庫にあるのだ。あるユダヤ人改宗者たちが私に詳しく話してくれたように、そこに秘密裏に保管されていると。それだけでなく、使徒行伝もギリシャ語からヘブライ語に翻訳されて宝物庫にあると言われている。私に話してくれたユダヤ人たちは、それを読んだことによってキリストに改宗したのである。 (パナリオン30章3:8-9 私訳) ※6:9でヘブライ語マタイ書もあったと書かれている。マタイ書だけでなく、ヨハネ書と使徒行伝のヘブライ語版があったようです。この証言は直接見たわけではなく伝聞ではありますが、信憑性が高そうです。誰がどういう経緯と理由で保管していたかは不明です。ティベリアはガリラヤ湖(ティベリア湖)の西岸にあり、ナザレの約25km東の位置です。紀元135年にバル・コクバの乱で鎮圧された後、ユダヤ人はエルサレムから追放されて立ち入り禁止になり、エルサレムには異邦人が入植しました(おそらくサマリア人も)。その後ティベリアをユダヤ人の活動拠点とし、ユダヤの口伝律法である「ミシュナ,タルムード」が編纂されました。上述の流れを考慮すると、このあたりでサマリア人がエビオン派に繋がると推測されます。※サマリアはエルサレム,ティベリア,ペラとの中間点で近いのも考慮。下記ではこういうことも書いています。 しかし彼らは、彼(イエス)は父なる神から生まれたのではなく、天使長の一人として創造され、天使たちおよび全能者のあらゆる被造物の支配者であると主張している。そして彼が来て、私たちにいけにえを廃止するよう教えたのだと言う。 (パナリオン30章16:4 私訳)「天使長ミカエル=イエス・キリスト」という見解は現代では、セブンスデー・アドベンチストとエホバの証人がその立場です。セブンスデー・アドベンチストは天使長が役職で被造天使ではないと見ているため三位一体と矛盾しないという見解で、エホバの証人は三位一体を否定のため被造物の天使とする見解です。「天使長ミカエル」と訳すか「大天使ミカエル」と訳すかの違いでしょうか。エビオン派は上記や主イェシュアに対する見方を考慮すると、エホバの証人の見解に近いです。ちなみに第一エノク書では、ミカエルは天使です。四大天使(ミカエル,ガブリエル,ラファエル,ウリエル)として書かれており、後世に補足なのか追加されて七大天使となっています。七天使といえば、黙示録1:20(2:1)の「七つの星=七つの教会の天使」ですが、同一でしょうか。七つの星は主イェシュアの右手に持っていると書かれてあります。それから主イェシュアは崇拝されており、天使とは存在が違います。エビオン派の詳細に戻りますが、下記でこういうことも書いています。 「彼(パウロ)がギリシャ人であり、ギリシャ人の母と父を持つ息子であったが、エルサレムに上りしばらくそこに留まり、大祭司の娘と結婚したいと望み、そのために改宗し割礼を受けた、と彼ら(エビオン派)は言う。しかし、それでもその娘を得られなかったため怒り狂い、割礼と安息日と律法に逆らって書いたのだ、と。」 (パナリオン30章16:9 私訳)エビオン派は紀元180年には存在し、パウロを否定していました。上記は本人証言などとは違うため、エビオン派による創作と見られています。本人が「ヘブル人の中のヘブル人でベニヤミン族で八日目に割礼を受けた」とフィリピ3:5で言っているため、そこは大きく違います。前述で「エビオンはサマリア人でユダヤ人と自称していた」とあり信憑性に問題が出てきます。一応、黙示録2章では「使徒と自称し実はそうでない者たち」それと「ユダヤ人ではないのにユダヤ人と称する者たち」がいました。使徒22:27では「ローマ人なのか」と聞かれて「そうだ」と答え、次節で「生まれながらにローマ市民権を持っている」とあるため、父親がユダヤ人であったかはともかくローマ市民権は世襲と見られます[iustum matrimonium参考]。21:38では暴動を起こしたエジプト人(エジプト出身?)と初対面で誤認されているため、見た目がエルサレムのユダヤ人とは異なっていた可能性はあります。使徒行伝によると、ヘブライ名サウロは「パウロとも呼ばれていた」と記されています[使徒13:9]。改名したとは書かれておらず、ローマ市民であったことから、ローマ風の名を元々持っていた可能性はあります。エビオンが元々ナザレ派にいたのが事実であれば、ナザレ派がパウロを偽使徒としていてそれを受け継いだとする見方もありますが、ナザレ派がパウロを偽使徒と見ていたかは書かれてありません。ナザレ派は律法を守るユダヤ人を主体とする集団であったことから、パウロ書簡は初めから無視していたと見られます。そもそも彼らには不要なため書簡自体を所持していなかったでしょう。エルサレム教会を含む、律法を守る立場からすると基本的にそうなります。シリア周辺の[アンティオキア都市城壁外,べレア,エデッサ,メソポタミア]では、聖書「古シリア訳,ディアテッサロン,ペシタ訳」をおもに用いていたと考えられています。下記を参考。 古シリア訳(2〜3世紀):シリア語版シナイ写本とキュレトニア写本があり、どちらも四福音書のみ。 ディアテッサロン(2〜4世紀):四福音書を一つに編纂(単一の物語に)。異邦人のタティアヌス作。 ペシタ訳(4〜5世紀):シリア語訳。27巻ではなく全22巻。ペトロ第二,ヨハネ第二・第三,ユダ,黙示録を欠く。西シリア教会で6~7世紀頃に残り五つを受容。旧約版ペシタ訳もある。ナザレ派,エビオン派が、古シリア訳を所持していた可能性はあります。なお、ナザレ派のヘブライ語マタイ書の言及はありますが、他の福音書をヘブライ語翻訳し用いていたとは言及されていません。地域や個々によっては用いていたものが違う可能性はあります。エビオン派は先の異端反駁の時代では「マタイ福音書のみを用いた」とありました。そしてパナリオンでは、ヘブライ語マタイ書と、クレメンス書の「ペテロ旅行記」のみを用いていたと言及があります。※おそらく「Clementine Homilies / Recognitions」のこと。なお、ペシタ訳にパウロ書簡が入ったのは、ローマなど西方と同じく東方も、3世紀には大多数が異邦人信徒だったからです。元の人口比もあり、異邦人信徒が多数派になるのは時間の問題でした。1世紀末の時点でユダヤ人信徒より異邦人信徒の数が多いとされ、2世紀には確実と見られています。それから東方も西方も、司祭,司教,主教,教父,教皇と呼ばれる人たちは、ほぼ全て異邦人です。よって聖典の認定作業は、エルサレム教会系列のユダヤ人集会が関与しないまま進められたと見るのが妥当でしょう。余談 パナリオンの別箇所53章1:3では「ナザレ派,エビオン派,Ossaeans(エッセネ派の流れか)がエルカサイの書を用いた」と出てきますが、話に一貫性がなく誤りと見られています。エルカサイ派の偽預言者とされるエルカサイという人物が記した書ですが、ナザレ派の信仰とは相容れません。パナリオンでは、Nazoraeans(ナザレ派)と別の似た名のNasaraeansを混同したと考えられます。3. ヤコブについて時代を戻し、初期エルサレム教会の中心人物を見ていきます。ペトロたち使徒は宣教活動が中心で、エルサレムの集まりから離れることが多いため、別のまとめ役(監督)が必要になりました。誰か一人は常に留まっておく必要がありますが、使徒たちは宣教により無理です。ガラテヤ1:18-19でエルサレムへ上った話によると、使徒たちは不在で主の兄弟ヤコブとしか会えなかったようです。また、回心とされる三年後程であるのに、主の兄弟ヤコブが中心者として登場しているため、早い段階でヤコブに任せていたと分かります。それから、使徒行伝12章でペトロはヘロデによって捕らえられ、処刑されそうになりましたが救い出され、17節で他の所に行った(おそらく避難)とあります。その頃にはエルサレムの兄弟だけで一万人規模になっています。※使徒2:41で「三千人が加わった」、6:7で「エルサレムの弟子の数は非常に増えていった」、21:20で「幾万人の兄弟」。よって、ここまで人数が増えると、ヤコブ一人では教会の運営を担いきれないため、長老が必要になります。※問題対処、会議、推薦状の発行、派遣の決定など。もちろん牧師、司祭、司教、教皇の肩書きの人はいません。なお、使徒ヨハネの兄弟の使徒ヤコブ(大ヤコブ)は、紀元44年頃に殉教(使徒12:2)していますので、主の兄弟ヤコブとは別人で、アルファイの子である使徒ヤコブ(小ヤコブ)も別人です。使徒12:17,15:13を見ると、主の兄弟ヤコブに一定の存在感・発言権があったことがうかがえます。それから教会史(エウセビオス.教会史Ⅱ 1:2)によると「ヤコブは、その徳の高さから『義人』と呼ばれた人物」とあります。伝承ですが「義人」と呼ばれるほど、律法もきちんと守っていたと推測されます。マタイ5:17以降にあるように、律法を守っていくのが良いことであるため、監督・中心人物が律法に疎いとは考えにくいです。律法を熱心に守る幾万人の兄弟たちを引っ張っていくためには、聖書に詳しく、かつ律法を守っていないと問題になります。長老たちも律法を守り、かつ聖書に詳しい人たちとなります。当時、ファリサイ派たちに付いていかない少数派がいたため、そのような見込みのある人々の中から選ばれたのでしょう。洗礼者ヨハネはファリサイ派たちのことを「まむしの子」と言い、見分けができていて、弟子が少なくとも数人はいました[マタイ3:7,9:14,11:2,14:12,21:26,ヨハネ1:35]。加えてエッセネ派もありました。それから、マタイ1:19で「マリアの夫ヨセフは正しい人」とあるため、ヨセフはある程度の律法を守っている人で、子のヤコブは幼い頃から律法を聞かされ育っているはずです。下記参照 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。 (申命記6:6-9口語訳)他に、ヤコブは主の兄弟として血縁関係に基づく信頼と、主イェシュアの幼少期を知っている重要性もあります。以上により、ペトロたち使徒は、本拠エルサレムの兄弟たちをまとめるために、ヤコブを柱の一人として安心して任せたのでしょう。ヤコブが最高指導者の座、教団の座を奪ったわけではありません。柱のうちの一人です。4. ペトロについて使徒の説明から入ります。主の弟子として終始、行動を共にし、教えを受け、目で見て、耳で聞き、手で触れ、復活を目撃したから、証人として完全な福音宣教ができます[使徒1:22,ヨハネの手紙一1:1]。完全ではない場合、アポロのように聖霊のバプテスマを知らなかったり、パウロのように誤った教えを説くことになります。さて、主は洗礼者ヨハネのことを「預言者以上の者で、女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物は起らなかった」と言っておられました[マタイ11:9-12]。そして「天国で最も小さい者でも、ヨハネより大きい」とありますので、ペトロたちは更に大きいことが分かります。主イェシュアは義を全うされましたので、完全なる「義」です。そして使徒たちは主に倣い同じ道を歩みました。義は栄光と関係し、栄光は主から出ているため、全ての栄光は主に帰されます。最も義なのは主ですが、続いて十二使徒たち(他にヤコブ、長老)と考えられます。当時の世界中の人間、約二億人の中から十本の指に入るような人たちです。だから次の世界で主と共に、国を治めることになるわけですね[マタイ19:28,黙示録1:6,2:26-27]。ペトロたちは幼い頃から、多少は律法の戒めを親から聞き、毎週、会堂で律法・預言書を聞き、学んでいます。現代で言えば、聖書通読を少なくとも十回ぐらいはしている感じでしょう。解釈の間違いがあったとはいえ、内容と御言葉はかなり頭に入っていたはずです。福音書内での失敗があったり、田舎の漁師だからと軽く見てはいけません。主イェシュアの行いを直接見、その御言葉を直接聞き、また新約聖書に含まれていない多くの事も見聞きしていたのですから、現代の新約聖書を何百回と通読するより、遥かに質の高い経験です。それからヨハネ1:36-40により、ペトロの兄弟の使徒アンデレは元々、洗礼者ヨハネの弟子だったようです。ペトロも洗礼者ヨハネの弟子か不明で、1:36-40ではもう一人の名が書かれていません。ペトロが出てくる順も不自然な書き方になっているとはいえ、マタイ4:18-20の記述では兄弟二人が一緒にいる所で主に招かれています。弟子になった順も考慮すると、ペトロも洗礼者ヨハネの弟子だった可能性はあります。主から公生涯の間、教えを受け鍛えられ、真理を学び、直接その愛を受け、権威を与えられ、その後の信仰生活、行いも常人ではありません。そして極めつけに聖霊を与えられたのですから、普通の人とは文字通り「天と地の差」があります。とはいえ同じ兄弟ですから、聖人として銅像を立てたり崇拝するのは、いけません。右にも左にもそれず、過小評価も過大評価もしないよう注意する必要があります。5. ヨハネについて使徒ヨハネはヤコブ、ペトロと同じように柱のうちの一人とされます。ガラテヤ書からの資料になりますが、2:9により三人の名が挙げられています。柱は三人のみだったのか見ていきます。根拠としては上記以外に、エッセネ派との関連が見られるクムラン教団が「義の教師」に率いられ、12人の信徒と3人の祭司からなる教団会議を持っていたとされます。[出典:クムラン共同体規則1QS8.1]12人と3人で合計15人であれば厳密には違うように思われますが、エルサレム教会と似ています。洗礼者ヨハネがエッセネ派だったのではないかと考えられていますが、記事では省きます。それから下記も関係しているように思われます。 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 (マタイ17:1-2 口語訳)上記の大ヤコブは主の兄弟ヤコブではないですが、この三人だけが選ばれたことには、何らかの意味があったと考えられます。初期はこの三人が柱だったのか不明ですが、大ヤコブが殉教して主の兄弟ヤコブが抜擢されたのでしょうか。とにかく三人のみが連れていかれたのは意味があります。ヨハネの手紙一についてこの手紙の著者は伝承どおり使徒ヨハネと見られます。なぜなら、初めの挨拶で「聞いたもの、目で見たもの、よく見つめ、手で触れたもの」とあります。これは直に主イェシュアから教えを受け、奇跡や復活を見て、また体に触れたからこその発言です。二回「見る」とあり二回目は原語で「注意深く見る」の意味ですので、主イェシュアの近くにいた人物だと分かります。この手紙の性質はヨハネ福音書と似ています(ヨハネ福音書はヨハネ共同体の後輩が後で編集しているようですが)。なぜなら「初めからあったもの」「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」「新しい掟=互いに愛し合う」「わたしたちが神におり、神がわたしたちにおられる」などの表現が一致します。他には「光と闇、真理と偽り、愛と憎しみ」といった対比表現はヨハネ福音書と重なります。それから「霊」についても鋭く語っています[2:20,2:27,3:24,4:4,4:6,4:13,5:6-8]。霊については御霊を受けていなければ正しく語れません。以上により伝承どおり、手紙一は使徒ヨハネの著作で間違いないでしょう。※口述筆記の可能性あり。さて、十二使徒は各地で殉教している伝承が残されていますが、使徒ヨハネも殉教したと考えられます。なぜなら、マタイ20:20-23により「わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」と主が聞かれて、彼らは「できます」と答え、それから主が「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう」と言われているからです。伝承ではヨハネは長生きしたとされているため、高齢になってから殉教したのでしょうか。番外使徒ヨハネはエフェソへ行ったとされています[エウセビオス「教会史」5巻24.2-3]。これはエフェソの監督ポリュクラテスの書簡(紀元190年頃)に基づく二次伝承です。ポリュクラテスの書簡は残っていませんが、エウセビオスが下記のように長文を引用しており、信憑性が高いと見られます。 “私たちは日を厳密に守り、加えることも減らすこともしません。アジアには、福音に従って過越祭の日を守り、他に何も加えない偉大な光たちが眠りにつきました。その中には、十二使徒の一人であるフィリポがいます。また、主の胸に寄りかかったヨハネ、祭司の衣をまとった者、証人であり教師である彼は、エフェソで眠っています。そして、スミルナの監督であり殉教者であるポリュカルポスもいます。その他に多くの聖なる人々もいます。 そして兄弟たちよ、私は主にあって七十年を過ごした者として、全世界の兄弟たちと相談し、多くの監督を招集し、多くの人々と共に祈りを捧げた。それでもなお、私は世を恐れてはいません。なぜなら、偉大な者たちが、より偉大なことを語ったからです。” (エウセビオス『教会史』5巻24:2–7 私訳)上記が事実であれば、儀式的にではなく「福音により」過越祭を守っていたようです。過越祭を前面に出していますが、過越祭だけでなく安息日なども守っていたでしょう。上記で言及されているのはアジア州の諸教会ですが、エルサレム教会の兄弟たちは皆、律法を熱心に守っていましたね。[使徒21:20]テモテ第二1:15で「アジアにいる者は皆、離れて行った」とあるため、エフェソの信徒がパウロの教えから離れた後、使徒ヨハネがそこへ来たとすれば一応、辻褄は合います。あるいは使徒ヨハネは一度はエフェソに来ていたのでしょうか。ヨハネ19:27で主の母マリアをヨハネが引き取ったとあり、紀元50年頃でマリアの年齢は70歳近いと考えられます。紀元50年頃にマリアが亡くなったと仮定すると、ヨハネは自由に宣教活動を行えるようになり紀元70年の頃には一人でエフェソに行くか、エルサレム脱出より前に既にエフェソに行っていたと見ることもできます。ただ、スミルナの監督のポリュカルポスは、本人が書いた手紙(真筆性が高い)でパウロ書簡から結構引用しているため、整合しにくい部分があります。ポリュカルポスの世代には、アジア州にパウロ書簡がそれなりに広まっていたという感じでしょうか。もしくは「スミルナの監督」というのを過大に見ている可能性でしょうか。なぜなら、「面積:スミルナ約7340㎢。熊本県7400㎢,静岡県7777㎢,東京都2200㎢,大阪府1900㎢,」であるため、人口密度が現代と異なるとはいえ、スミルナに中規模の集会がいくつかあったと見て間違いないでしょう。ポリュカルポスはその比較的規模の大きな集会で監督だったと想定して、他の集会のあまり目立たなかった監督(長老)が他にもいたという可能性です。「ポリュカルポス」という名前がギリシャ系であるため、異邦人の蓋然性が高いでしょう。異邦人信徒の集会の監督だったとすれば、スミルナには、これとは別にユダヤ人信徒の集会があったという見方ができます。ユダヤ人信徒と異邦人信徒の交わりのある集会だったとすると、安息日や食物規定など律法を守っている集会の食卓に、異邦人信徒が最低限の律法の戒めを守った状態で入るかたちになります。その集会で異邦人が長老になるのは考えにくいですが、どうでしょう。終わりに正統教会であるエルサレム教会について見てきました。初期エルサレム教会の流れと、ほかの初期キリスト諸教会の流れとでは、色々と違いがあります。その違いが信仰とその結果にどこまで影響するのかは重要ですので、熱心に改め続け、右にも左にも外れないようにしていきたいですね。以上.seiku2{ 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