浄久寺に伝わるという久代宮家の家臣団に

田邊美作と田邊勘七という人物がいる。

 

始終村に田邉美作、未渡村に田邉勘七。後の資料からいずれも美作守を名乗ったようだ。しかし、始終はのちに美濃守を称し、未渡の勘七殿は広国院誌によれば「未渡合戦」によって天文二十年九月(1551年)尼子側に内通したと謀反を疑われて久代宮家側に討ち取られている。

 

その名は田邉美作守勘七之尉國廣。後に國廣の名をとって広国院の開基となり、その戒名は「廣國院殿開基繁林常栄大居士」である。

 

その戦いの様は三備史略などには次のように語られている。

「田邊美作守をば岡孫八郎が討ち取りたりと呼はって城に討ち入りければ、妻子供らは城外に戦ふうち、後ろの山より失せけり。空しき城を焼拂ひ、久代をさして引きにける。此の軍、小城なれとも久代家にては珍しき剛戦なりし。是れも田邊が勇功なり。」と。

 

妻子供らと又郎党も生き残っていたようで、「広国院誌」によればその後、未渡村の国広城下の地に永禄十五年(1569年)徳雲寺六世を開山としてお迎えし、廣國院の開創開山を成し遂げたことも記されている。

 

未渡合戦での戦死(1551年)から日南町花口に移住にした(1639年)までの88年間について登場人物は定かではありません。

 

しかしその後 田邊美作守信季(のぶとき)殿がそのまた隣村の神戸の地に一族を引き連れ現われて妙見山城主となり、後に同地内の自照寺の中興開基としてお祀りされている。「忠誠院殿作譽實音大居士」である。

 

今日はここまでに致しましょう。